58話 斧の間に合わない場所
斧が間に合わない場所で、一人で最後までやる。それが去年の秋に自分に出した宿題だった。
沼の大鋏を隊で仕留めた夜に、自分へ出した宿題だ。あれから半年以上経っている。
宿題はこちらの都合を聞かずに、答え合わせの日を決める。
◇ ◇ ◇
一度目の突進は正面から来た。俺は右へ跳んで緩い斜面へ入った。落ち葉の下が緩んでいるのは、昼のうちに足で読んである。
読んだのは道を選ぶためだが、いまは道を作るために使う。獣は俺を追って斜面へ入り、後ろの右足が少し滑った。
滑っただけで転びはしない。それでいい。俺が欲しいのは転倒ではなく半拍だ。
俺は数えた。突進一つ。斜面での滑り、半拍。
◇ ◇ ◇
二度目は斜面の下から来た。登りの突進は平地より遅いが、遅い分こちらの足も土に取られる。
俺は横へ走って倒木の向こうへ回った。去年の秋に落ちた楢の太い幹だ。高さは俺の腰。
獣の胸のあたりになる。跳び越えられる高さではないし、押し倒せる太さでもない。獣は幹の手前で止まって鼻を鳴らした。
鳴らして幹に沿って左へ走った。迂回して、その先で俺を挟むつもりだ。俺は反対へ走ってまた幹を挟んだ。
これを四度やった。四度目で獣は幹の中ほどへ体当たりした。幹は動かず、獣の肩から古い傷が裂けて血が出た。
当たり散らす癖は泥場と同じだ。癖のある相手には癖の出る場所を選べばいい。突進二つ。
迂回四つ。当たり散らし一つ。数えていると恐怖の入る隙間が減る。恐怖は無くならない。
置き場所が変わるだけだ。
◇ ◇ ◇
半刻の見当をつけるのに、俺は自分の息を使った。平静な息で四百、走った息なら六百。
数えながら戦う稽古は河原で四年やっている。二百を過ぎた頃、獣の息が変わった。
速く浅くなった。肩の傷から出ている血が脇腹まで流れている。斧の一撃と矢が一本。
効いていないように見えて、少しずつ持って行っている。止まらないものはいない。
ただ、こちらの止まるほうが早いかもしれない。俺の膝ももう笑い始めていた。勝つな止めろと言われている。
止めるというのは案外むずかしい注文だった。倒せば止まるが、倒せないなら追わせ続けるしかない。
追わせ続けるにはこちらが逃げ切ってはいけない。見えなくなれば獣は列のほうへ行く。
近すぎれば殺される。その間の帯を保ち続ける。うんと外かうんと中かと、槍使いの人は言った。
半端な帯がいちばん死ぬ、とも言った。いま俺がやっているのは、その半端な帯にわざと立ち続ける仕事だ。
死ぬ帯の上を、時を稼ぐために歩いている。教わったことの逆をやっている。逆をやると決めた以上、代価は先に勘定しておく。
脇腹か腕か足か。足だけはやられるわけにはいかない。足をやられたら、止める仕事そのものが終わる。
差し出せるものと差し出せないものを、走りながら決めた。
◇ ◇ ◇
三百を数えた頃、獣は迂回をやめた。幹の前で足を止めて俺を見た。そして幹の低い端へ回った。
根の側だ。根の側は幹が地面に近い。低い場所を選んで越えてきた。俺は後ろへ下がった。
下がった先が沢の抉れだった。抉れの縁は幅二歩の平らな段になっている。段の下は三人分の高さだ。
落ちればこちらが死ぬ。落とせれば向こうも無事では済まない。だがこの獣は落ちない。
落ちる相手なら、二十年前の話は残っていない。俺は段の縁に沿って走った。走りながら初めて灯りのことを考えた。
掌に灯して獣の目の前で振る。目を眩ませられれば線は狂う。考えたのは二呼吸ぶんだ。
やめた。婆さんの言いつけだからではなく、やったことがないからだ。積んでいない手は実戦で出ない。
出ないものに賭けた者から死ぬ。背伸びした木札から死ぬ、と教わったのは五年前だ。
俺はいま、教わったことを守っている側にいた。
◇ ◇ ◇
四度目の突進が最後になった。獣は段の上をまっすぐ来た。幅二歩、逃げる横がない。
これを向こうは選んだのだ。俺もこれを待っていた。牙は二本ある。左と右。突っ込んでくる牙は必ず二方向から来る。
二方向から来るものを一本の線に並べる。河原で四年やった型がそこにあった。半歩右へ。
右の牙が腹の前を通る。通した瞬間、次の一歩を後ろではなく横へ置く。昨日の道々五十回置き直した足だ。
置いた足が獣の肩の内側へ入る。左の牙がそこへ返ってきた。返ってくるのは分かっていた。
二対一の稽古で最後の一つが減らなかったのは、この返しだ。河原の二人は四年かけて、俺にこれを見せ続けてくれた。
俺は左の脇腹を差し出し、差し出して剣を出した。牙が脇腹に入った。熱いとも痛いとも思わなかった。
ただ体の中で何かが横に滑る感じがした。その一呼吸の間に、俺の短剣は顎の付け根に入っていた。
◇ ◇ ◇
当てどころの一寸。斧の重さに敵わない俺が、去年から探し続けていた場所だ。沼の蟹では関節の隙間だった。
この獣では顎の付け根の皮の薄いところだった。突進する獣は当たる瞬間に鼻面を跳ね上げる。
跳ね上げれば顎の下が開く。開いた場所へ下から入れる。剣は思ったより深く入った。
入れてから俺は柄を握ったまま体を投げ出した。獣の力で刃が自分から進むように。
自分の腕力で押すのは去年やって届かなかった。届かないものは借りればいい。
獣の走る力を借りて、俺の一寸は届いた。短剣が途中で止まった。骨に当たって刃が欠ける音がした。
爺の短剣だった。欠けたなと思った。思ったのは一瞬だ。次の瞬間、俺は地面に叩きつけられていた。
◇ ◇ ◇
獣は俺を越えて五歩走った。六歩目で前肢が折れ、倒れてそのまま動かなくなった。
俺は地面に転がったまま三つ数えた。残心の三つだ。どんな時もこれだけはやると決めている。
一つ。二つ。三つ。動かない。動かないのを確かめてから、初めて自分の脇腹を見た。
外套が裂けて下の革も裂けて、その下が開いていた。見なければよかった。見た途端に痛みが追いついてきた。
俺は帯を解いて脇腹に巻いた。巻きながら息を数えた。五百と少し。半刻にはまだ足りない。
足りないが獣は止まった。止まった以上、この場の仕事は終わりだ。立とうとして膝が笑って座り込んだ。
空が暗くなっていた。森の匂いに血の匂いが混じっている。自分の血の匂いを嗅いだのは四年で初めてだった。
欠けた短剣を鞘に納めた。この欠けは砥いでも消えない。消えない欠けが今日の一寸の値段だ。
払える値段だった、と思うことにした。
突進四つ。迂回四つ。通じなかった手、一つ。通った一寸、一つ。差し出した脇腹、一つ。
数え終えると今日が一日ぶんの形になった。形になったものは明日から稽古にできる。
俺は木の根に背を預けて、列の向かった尾根の方を見た。七人で帰る勘定はまだ生きている。




