↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/58

58話 斧の間に合わない場所

斧が間に合わない場所で、一人で最後までやる。それが去年の秋に自分に出した宿題だった。


沼の大鋏を隊で仕留めた夜に、自分へ出した宿題だ。あれから半年以上経っている。


宿題はこちらの都合を聞かずに、答え合わせの日を決める。


◇ ◇ ◇


一度目の突進は正面から来た。俺は右へ跳んで緩い斜面へ入った。落ち葉の下が緩んでいるのは、昼のうちに足で読んである。


読んだのは道を選ぶためだが、いまは道を作るために使う。獣は俺を追って斜面へ入り、後ろの右足が少し滑った。


滑っただけで転びはしない。それでいい。俺が欲しいのは転倒ではなく半拍だ。


俺は数えた。突進一つ。斜面での滑り、半拍。


◇ ◇ ◇


二度目は斜面の下から来た。登りの突進は平地より遅いが、遅い分こちらの足も土に取られる。


俺は横へ走って倒木の向こうへ回った。去年の秋に落ちた楢の太い幹だ。高さは俺の腰。


獣の胸のあたりになる。跳び越えられる高さではないし、押し倒せる太さでもない。獣は幹の手前で止まって鼻を鳴らした。


鳴らして幹に沿って左へ走った。迂回して、その先で俺を挟むつもりだ。俺は反対へ走ってまた幹を挟んだ。


これを四度やった。四度目で獣は幹の中ほどへ体当たりした。幹は動かず、獣の肩から古い傷が裂けて血が出た。


当たり散らす癖は泥場と同じだ。癖のある相手には癖の出る場所を選べばいい。突進二つ。


迂回四つ。当たり散らし一つ。数えていると恐怖の入る隙間が減る。恐怖は無くならない。


置き場所が変わるだけだ。


◇ ◇ ◇


半刻の見当をつけるのに、俺は自分の息を使った。平静な息で四百、走った息なら六百。


数えながら戦う稽古は河原で四年やっている。二百を過ぎた頃、獣の息が変わった。


速く浅くなった。肩の傷から出ている血が脇腹まで流れている。斧の一撃と矢が一本。


効いていないように見えて、少しずつ持って行っている。止まらないものはいない。


ただ、こちらの止まるほうが早いかもしれない。俺の膝ももう笑い始めていた。勝つな止めろと言われている。


止めるというのは案外むずかしい注文だった。倒せば止まるが、倒せないなら追わせ続けるしかない。


追わせ続けるにはこちらが逃げ切ってはいけない。見えなくなれば獣は列のほうへ行く。


近すぎれば殺される。その間の帯を保ち続ける。うんと外かうんと中かと、槍使いの人は言った。


半端な帯がいちばん死ぬ、とも言った。いま俺がやっているのは、その半端な帯にわざと立ち続ける仕事だ。


死ぬ帯の上を、時を稼ぐために歩いている。教わったことの逆をやっている。逆をやると決めた以上、代価は先に勘定しておく。


脇腹か腕か足か。足だけはやられるわけにはいかない。足をやられたら、止める仕事そのものが終わる。


差し出せるものと差し出せないものを、走りながら決めた。


◇ ◇ ◇


三百を数えた頃、獣は迂回をやめた。幹の前で足を止めて俺を見た。そして幹の低い端へ回った。


根の側だ。根の側は幹が地面に近い。低い場所を選んで越えてきた。俺は後ろへ下がった。


下がった先が沢の抉れだった。抉れの縁は幅二歩の平らな段になっている。段の下は三人分の高さだ。


落ちればこちらが死ぬ。落とせれば向こうも無事では済まない。だがこの獣は落ちない。


落ちる相手なら、二十年前の話は残っていない。俺は段の縁に沿って走った。走りながら初めて灯りのことを考えた。


掌に灯して獣の目の前で振る。目を眩ませられれば線は狂う。考えたのは二呼吸ぶんだ。


やめた。婆さんの言いつけだからではなく、やったことがないからだ。積んでいない手は実戦で出ない。


出ないものに賭けた者から死ぬ。背伸びした木札から死ぬ、と教わったのは五年前だ。


俺はいま、教わったことを守っている側にいた。


◇ ◇ ◇


四度目の突進が最後になった。獣は段の上をまっすぐ来た。幅二歩、逃げる横がない。


これを向こうは選んだのだ。俺もこれを待っていた。牙は二本ある。左と右。突っ込んでくる牙は必ず二方向から来る。


二方向から来るものを一本の線に並べる。河原で四年やった型がそこにあった。半歩右へ。


右の牙が腹の前を通る。通した瞬間、次の一歩を後ろではなく横へ置く。昨日の道々五十回置き直した足だ。


置いた足が獣の肩の内側へ入る。左の牙がそこへ返ってきた。返ってくるのは分かっていた。


二対一の稽古で最後の一つが減らなかったのは、この返しだ。河原の二人は四年かけて、俺にこれを見せ続けてくれた。


俺は左の脇腹を差し出し、差し出して剣を出した。牙が脇腹に入った。熱いとも痛いとも思わなかった。


ただ体の中で何かが横に滑る感じがした。その一呼吸の間に、俺の短剣は顎の付け根に入っていた。


◇ ◇ ◇


当てどころの一寸。斧の重さに敵わない俺が、去年から探し続けていた場所だ。沼の蟹では関節の隙間だった。


この獣では顎の付け根の皮の薄いところだった。突進する獣は当たる瞬間に鼻面を跳ね上げる。


跳ね上げれば顎の下が開く。開いた場所へ下から入れる。剣は思ったより深く入った。


入れてから俺は柄を握ったまま体を投げ出した。獣の力で刃が自分から進むように。


自分の腕力で押すのは去年やって届かなかった。届かないものは借りればいい。


獣の走る力を借りて、俺の一寸は届いた。短剣が途中で止まった。骨に当たって刃が欠ける音がした。


爺の短剣だった。欠けたなと思った。思ったのは一瞬だ。次の瞬間、俺は地面に叩きつけられていた。


◇ ◇ ◇


獣は俺を越えて五歩走った。六歩目で前肢が折れ、倒れてそのまま動かなくなった。


俺は地面に転がったまま三つ数えた。残心の三つだ。どんな時もこれだけはやると決めている。


一つ。二つ。三つ。動かない。動かないのを確かめてから、初めて自分の脇腹を見た。


外套が裂けて下の革も裂けて、その下が開いていた。見なければよかった。見た途端に痛みが追いついてきた。


俺は帯を解いて脇腹に巻いた。巻きながら息を数えた。五百と少し。半刻にはまだ足りない。


足りないが獣は止まった。止まった以上、この場の仕事は終わりだ。立とうとして膝が笑って座り込んだ。


空が暗くなっていた。森の匂いに血の匂いが混じっている。自分の血の匂いを嗅いだのは四年で初めてだった。


欠けた短剣を鞘に納めた。この欠けは砥いでも消えない。消えない欠けが今日の一寸の値段だ。


払える値段だった、と思うことにした。


突進四つ。迂回四つ。通じなかった手、一つ。通った一寸、一つ。差し出した脇腹、一つ。


数え終えると今日が一日ぶんの形になった。形になったものは明日から稽古にできる。


俺は木の根に背を預けて、列の向かった尾根の方を見た。七人で帰る勘定はまだ生きている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。