48話 割れない甲羅
春の依頼板に割のいい駆除が一枚だけ残っていた。街道の西の岩場に石鎧亀が居着き、馬が怯えて荷が滞る。急ぎ。
ただし但し書きが付いていた。銅札二人が手を出して、剣を一本欠けさせて退いた、と。
誰も取らないから割が上がり、割が上がっても誰も取らない。つまり腕ではなく面倒の依頼だった。
俺向きだ。朝の依頼板の前にはいつもの顔ぶれがいたが、誰もその一枚には手を伸ばさない。
剣一本の話はもう広間中が知っている。割のいい駆除が板に残る理由は、割より高い何かが付いているからだ。
板から剥がして帳場へ持っていくと、ネラが眉を上げた。
「それ、取るんですか。剣が欠けるやつですよ」
「欠けさせた二人は」
「怪我はなし。ただ、商売道具が半分駄目になって、当分は薬草採りだそうです」
若い二人組だという。春に木札から上がったばかりの勢いのいい銅札で、着いたその日に正面から叩いたらしい。
剣一本は安くない授業料だ。だがその二人のおかげでこちらは答えを一つ持って行ける。
あの甲羅は叩くものではない。広間を出る前に、薬草棚の前でその二人組に会った。
右の男の腰に折れた剣の鞘だけが下がっていた。
「あんた、あれを取ったのか」
「ええ」
「やめとけ。あれは剣の通る生きものじゃない」
忠告の声に悪意は無かった。だから俺も素直に返した。
「叩かないつもりです」
二人は分からないという顔をした。分からないままでいい。答えは五日後に板の前に貼り出される。
二人の授業料を無駄にしない答えにするつもりだった。
◇ ◇ ◇
石鎧亀は岩場の日向にいた。甲羅の丈は俺の腰まで。岩と見分けのつかない色で、首と四肢を引っ込めると本当にただの岩になる。
なぜこんなものがわざわざ岩場を下りて街道際に居着いたのか。それも頭の隅に書き足しておく。
山の上の岩場から何かが場所を替えさせた口なら、これも同じ帳面の頁だ。俺は五日通った。
初日、亀の一日を数えた。夜明けに水場へ降り、朝のうちに草を喰い、昼は日向の定位置で甲羅を干す。
日が傾くと岩陰に寄って岩になる。判で押した一日だった。判で押した相手ほど読みやすいものはない。
観察の間、飯は携行の干し飯と岩場の際の野草で済ませた。火は亀の目のある昼は焚かない。
観察する側の癖を、観察されない癖と一緒に育てる。ヨナ婆に言わせれば、これも詮索されない稽古の続きだ。
二日目、首の出方を数えた。喰う時と干している時の半刻だけ、首が甲羅の外で緩む。
それ以外は物音ひとつで石に戻る。三日目、地面を読んだ。定位置の日向は西へ緩く傾いた一枚岩の上だ。
足の裏が傾きの角度まで教えてくれた。四日目、朝の冷えを数えた。冷えた朝ほど亀は動き出しが鈍い。
石の体は朝の冷えを引きずるらしい。四日目の昼には亀の甲羅の傷も数えた。古い刃の痕が三つ。
どれも浅く白く、甲羅の上で乾いていた。俺の前に叩いた人間が三人はいたということだ。
全員剣を損して帰った。甲羅は人の負けの記録でもあった。負けの記録の上に今日から新しい行が足される。
刃の痕ではなく、五日という行がだ。四日目の夜、帳面の頁が埋まった。埋まった頁を眺めて勝ち筋を一本にした。
力比べはしない。てこと傾きと朝の冷え。俺の出す力は最後の一寸だけでいい。念のため逃げ道も二本引いた。
てこが折れた時。亀が思ったより速かった時。使わない備えを二本、絵図の端に描き足しておく。
沼で覚えた手順だ。
◇ ◇ ◇
五日目の朝はこの春いちばんの冷え込みだった。俺は夜のうちに一枚岩の西の際の窪みを検分し、丸太を一本岩陰に用意しておいた。
亀が定位置に着き、甲羅を干し、首が緩みきる。そこまで岩陰で半刻待った。それから丸太の先を甲羅の東の縁の下へ静かに差し込んだ。
てこだ。亀の重さは変わらないが、西へ傾いた岩の上ではその重さの半分が俺の味方になる。
一押し。腰から足へ力の道を通して、体重ごと乗せる一押しだ。丸太の下で岩と甲羅が擦れて鳴った。
亀の首が出かかって引っ込む。引っ込んだ分だけ甲羅の中の重心が動く。その動きごと押す。
腰の力は素振りの力だ。十三年の素振りは剣の形をしていない場所でも仕事をする。亀は裏返って西へ滑り、際の窪みへ腹を上に嵌まった。
石鎧亀の腹には甲の継ぎ目が十字に走っている。四肢をばたつかせる亀に寄って、継ぎ目へ剣先を一寸。
沼の大鋏に返したのと同じ一寸だった。駆除はそれで終わった。三つ数えて剣を引く。
剣身を朝日にかざして刃こぼれを確かめた。欠けなし。叩かなければ欠けない。
五日分の観察は一寸の剣と欠けない刃に化けた。岩場を降りる前に、亀の居着いていた一枚岩に登ってみた。
西へ傾いた岩の上から街道が一本よく見えた。亀にとってここは日向で、見張り台で、城だった。
城ごと使わせてもらった詫びに、甲羅の残りは岩場の主どもに置いていく。森の理は余さず回る。
降り際に岩場の上のほうを一度だけ見た。亀が下りてくる前にいたはずの高い岩場だ。
そこに何が入ったのかはここからは見えない。見えないものの数を、俺はまた一つ帳面に増やした。
増えた分はいつか誰かが数えに行くことになる。その誰かの中に自分が入っている気が、この頃うっすらとしている。
◇ ◇ ◇
組合へ甲羅の縁を持ち帰ると、ネラが台帳を付けながら聞いた。
「剣、欠けませんでした?」
「叩いてないので」
「前の二人と、何が違ったんです」
「五日です」
と俺は答えた。腕の差ではない。あの二人は着いた日に叩き、俺は五日を先に払った。
それだけの話だ。強さというものの中身は、案外こういう地味な払いでできている。だから俺はこの稼業が好きだった。
帳場の隅であの二人組が聞き耳を立てていた。五日という答えに二人は顔を見合わせていた。
明日あたり兎場の行き方を聞きに来るかもしれない。来たら教える。教えは皿の外で利子を生む。
利子の使い道はまだ考えていない。ネラは台帳に何かを書きながら、ふと手を止めた。
「そういえば。沖の森の三段目の調査依頼、まだ板にありますよ」
「銀札向けの、ですか」
「ええ。冬の前からずっと。誰も取らないのに、なぜだか、はがされもしないんです」
バレンさんが残してるんですよね、とネラは声を落とした。
「あの人が板に残す依頼は、意味があるんです。前もそうでした」
「前、というのは」
「三年前の、岩蛇の時です。あの時も半年前から板に残してました」
ネラはそこまで言って口をつぐんだ。岩蛇の主。銀札二隊が退き、金札の一行が十日かけた、あの西の岩山の主だ。
受付頭が半年前から残していた紙の先にあれがいたのなら、今度の紙の先にいるものを俺はまだ何も知らない。
俺は板の前まで戻ってその一枚を見た。沖の森三段目、獣の動きの調べ。銀札二名以上。
紙の端が冬を越して薄茶に焼けていた。誰も読まなくなった依頼書を、受付頭はなぜ春まで貼っておくのか。
答えの見当はつく。あの人も同じ糸を見ているのだ。沼の蟹。西の亀。沢の牙犬。街道の狼。
バラバラの報せを一本に束ねると、糸の先はいつも森の奥を指す。帳面に書く。石鎧亀、五日とてこの一寸で終い。剣欠けなし。
その下にもう一行。三段目の依頼書、まだ板にあり。紙の焼けた色がなぜだか目に残った。




