45話 雪の街道
年明けの護衛はベルガの指名だった。塩と油の荷馬車が三台、隣街まで冬道を二日。人手は俺を入れて四人。
帳場で書き付けを受け取る時、ネラが小声で言った。
「冬の街道、今年は荒れてます。先週も一隊、荷を捨てて帰ってきました」
「狼ですか」
「狼です。それも変に人馴れしない群れだって」
出る朝、ベルガは空を一度見上げて嫌な晴れ方だと言った。吹雪の後の晴れは、山の獣が腹を空かせて降りてくる晴れだからだ。
雪は止んでいるし風もない。なのに護衛頭の首の後ろがずっと警戒を解いていなかった。
こういう男の勘は天気より当たる。塩の樽と油の甕は荷崩れがそのまま損料になるから、俺は縄の掛かりを一台ずつ確かめて回った。
護衛の仕事は剣を抜く前の手間が七割だ。ベルガの隊で覚えた七割を今日は自分の手でやる。
俺は荷の間を歩いて御者三人の顔と名前を覚えた。いざという時に名前で呼べるかどうかで、人の足の止まり方は変わる。
四年前の護衛で年かさの槍使いに教わったことだ。昼のうちは何もなかった。雪の街道は音を全部呑む。
馬の鼻息と荷の軋みだけが白い道に規則正しく続いた。何もない時間にこそ順に目を配る。
右の雪原。左の林。前の起伏。後ろの轍。回す目の順番を決めておくと、疲れても抜けが出ない。
◇ ◇ ◇
狼は初日の夕方に来た。雪の街道の先にまず一頭が出て道を塞ぎ、左右の雪原に二頭ずつ、しんがりに一頭。
六頭。どれも腹の毛が削げるほど痩せていた。痩せた群れは退かない群れだ。
餌のためではなく命のために来ている狼は、松明を怖がる余裕すらない。それにしてもと頭の隅で数える。
この冬、山の獣はどこまで飢えているのか。狼の目はこちらの人数と松明を数えていた。
数えた上で退かないと決めた目だった。飢えは獣から順番を奪う。順番を奪われた群れがどれだけ危ないか、俺は森で覚えている。
沼の主が痩せ、亀が下り、牙犬が沢へ来て、狼が街道に出る。みんな同じ帳面の頁だ。
「囲まれたな」
ベルガの声は平らだった。平らな声は隊の心拍を上げないための技だ。俺も御者へ平らな声で場所を指した。
声の温度はうつる。護衛の声が跳ねれば馬も人も跳ねる。
「銅札。おまえの後ろに御者を三人入れる。持つか」
「馬車を壁にします。三台を鉤の手に。俺の受け持ちは右の二頭で」
「よし。左と前は俺と槍だ。松明は御者に持たせろ」
馬が嫌がって足踏みを始めていた。御者の一人が手綱を握ったまま固まっている。名前を呼んで松明を持たせた。
人はやることを渡されると震えが半分止まる。御者たちが馬車を寄せる間、俺は右の二頭だけを見ていた。
二対一。河原で灰羽の二人を相手に、死ぬ数を十三から二まで削ってきた型だ。生きた牙で試すのは今日が初めてになる。
喉の奥が少しだけ渇いた。渇きも帳面に載せる。怖さを数え損なう奴から死ぬ。
◇ ◇ ◇
二頭は稽古の通りには来ず、稽古より素直に来た。一頭目が正面から跳び、二頭目が半拍遅れて足首へ低く来る。
二枚で一枚を獲る形だ。河原で百回見た形の、いちばん教科書通りのやつ。俺は正面の一頭へ逆に踏み込んで線を潰した。
跳んだ顎の下を剣の腹で受け流し、受け流しながら体ごと右へ回る。二頭目の低い牙は俺のいた場所ではなく、落ちてくる一頭目の体とぶつかった。
二枚が一枚に重なる。重なったところへ、二つ数える間に二筋置いてきた。剣を引く手が稽古と同じ速さで戻った。
息は上がっていない。河原の朝はいつも三本続けてやる。本番が一本で済むなら、体には余りが出る勘定だ。
雪の上が静かになった。三つ数えて剣を下げる。馬のいななきと御者の荒い息だけが残った。
振り向くとベルガの側も終わっていた。正面としんがりはベルガの槍が畳み、左の二頭は馬車の壁と松明に諦めて雪原へ消えた後だった。
「怪我は」
「ありません。荷も馬も無事です」
御者三人も無事で、名前を呼ぶ場面は一度も来なかった。来ないのがいちばんいい護衛だ。
御者たちはそれでも俺に干し肉を分けてくれた。断ると荷主の顔が立たないと言う。
銅貨にならない報酬は断らないことにしている。信用はこういう小さい貰い物の形で貯まっていく。
ベルガは俺の足元の二頭を見て、それから初めて値踏みとは違う目でこちらを見た。
「初めて会った頃のおまえは、何も起こさせない工夫をする小僧だった。今のは起きたものを畳む腕だ。……噂だけは聞いてたがな。河原で毎朝、二対一で殴られてる変な男がいると」
「殴られた数だけ、覚えました」
「そうかい」
ベルガはそれだけ言って隊列を組み直した。この男の褒め方は次も指名する、という形で来る。
それで充分だった。残りの一日は何も起こらなかったが、起こらない一日の間も目の順番だけは回し続けた。
六頭の後に七頭目がいない保証はどこにもない。護衛の帳面は着くまで閉じない。
◇ ◇ ◇
隣街に着いて狼の尾を六本、組合の出先に出した。……正しくは仕留めた二頭の尾と、追い払った四頭の数の報告だ。
書き付けを取りながら係の男が言った。
「六頭で無傷は銀の仕事ですよ」
「馬車の壁と、松明と、河原で俺を殴り続けてくれた二人のおかげです」
全部本当のことだった。だが係の男は書き付けの端に何かを書き足しながら、ちらりと俺の札を見た。
銅札の名前がまた一つ知らない帳面に載った気配がした。見る奴が増える。バレンの言葉は年々実感の厚みを増していく。
前世の俺は見られない場所で数字を作る仕事だった。手柄は会議の席で誰かのものになり、俺の名前は減っていった。
この世界の帳面は少なくとも名前を取り違えない。働いた体の持ち主に、噂はちゃんと付いてくる。
付いてきすぎるのが今度は新しい宿題になるわけだが。宿でベルガが酒を頼んでから言った。
「春先の護衛もおまえを呼ぶ。今年の山はたぶんまだ荒れる」
「痩せた狼、ですか」
「あれは飢えた顔じゃなくて、追われた顔をしてた」
ベルガは杯を置いた。
「長くやってりゃ分かる。山で何かが場所を替えると、玉突きで全部が下りてくる。……替えさせた何かの顔だけは、まだ誰も見てない」
俺は黙って頷いた。帳面の白い欄がまた少し幅を広げた。ベルガは杯を干して、それから思い出したように言った。
「戻ったら、受付頭に今日の話を上げとけ。あの人はこういう話を集めてる」
「集めて、どうするんですか」
「知らん。だが、集める奴が一人いる街といない街じゃ、死人の数が変わる」
夜、宿の裏で日課の素振りをした。右の二頭を思い返して、今日の二筋を腕にもう一度覚えさせる。
二対一の型が初めて生きた牙の前で出た。河原の稽古は嘘をつかなかった。殴られた数は全部ここに残っている。
宿の裏の雪を踏み固めて足場の悪さも稽古に足した。雪の上の半歩は土の上の半歩より一寸短い。
今日の実戦で計った一寸だ。計ったものは冷めないうちに体へ移す。教わったことは教わった日のうちに、計ったことは計った日のうちに。
明かりの落ちた宿の窓を数えて俺は素振りを締めた。守った荷と守った人数を数えるのは、悪くない夜の締め方だった。
明日は帰りの道だ。帰りも目の順番は変えない。帳面に書く。狼六頭無傷。二対一の型、実戦で初めて出る。
山の異変の糸、また一本太くなる。




