43話 テムの一歩
テムが青い顔で組合に駆け込んできたのは昼前だった。広間の空気が一瞬で張り、掲示板の前の連中が話を止め、受付の列が半歩割れた。
この広間は青い顔に慣れている。慣れているからこそ誰も笑わない。青い顔で駆け込む木札は、だいたい悪い報せを運んでくる。
黒枠の貼り紙が増えるのはそういう日だ。だがテムは生きて自分の足で立っていた。
それがまず何よりの報せだった。俺は依頼の帰りでちょうど広間にいた。テムは俺を見つけると真っ直ぐ来て、それから言葉に詰まった。
詰まった順番でだいたいの見当はついた。悪いことが起きかけて起ききらずに済んだ顔だ。
「牙犬です。兎場の帰り、沢向こうの茨の手前で」
一頭、距離は二十歩。広間の隅に座らせて水を一杯飲ませてから、順を追って話させた。
語る手がまだ少し震えていた。震えていい。震えを恥じる奴から報告が雑になる。俺も初めての牙犬の後は膝が笑った。
十三の冬の詰め所の土間の冷たさは、今でも覚えている。震えは体が真面目に怖がった証拠だ。
真面目に怖がれる奴だけが長生きする。テムの息が整うまで俺は隣で黙って待った。
急かさない報告の聞き方は、バレンから盗んだものだ。
「教わった通りにしました。背中を見せないで、目を切らないで、半歩ずつ下がって。風下の茨の切れ目まで下がって、中に入りました。牙犬は茨の前を二度往復して、それから森へ帰りました」
テムの手には兎が二羽ちゃんと提がっていた。腰の小刀は抜いた形跡がない。抜かなかったのかと聞くと、テムは首を振った。
「抜きたかったです。手が勝手に行きました。でもルドさんが木札のうちは抜いた時が死ぬ時だって」
「よく覚えていた」
「逃げてばっかりで、その、悔しくないと言えば嘘になります」
「テム」
俺は自分の口から爺の声が出るのが分かった。
「逃げられた日は勝った日だ」
言ってから少し可笑しくなった。八つの俺に爺が言い、十五のテムに俺が言っている。
言葉というものはこうやって人の体を借りながら生き延びていくらしい。爺の言葉も、爺が誰かから受け取ったものかもしれない。
元銀札のその師匠の、そのまた師匠の。言葉の出所を辿れば、たぶん黒枠の貼り紙より長い列になる。
列の端に今日テムが並んだ。並ばせたのは俺だから、列の先で待つ責任も俺にある。
◇ ◇ ◇
午後、俺はテムを連れて茨の現場へ痕を見に行った。報せは足で確かめる、それも爺の教えだった。
沢の水は秋の色で、茨の実が赤くなり始めていた。道すがらテムの足の運びを後ろから見た。
半年前より足の置き場所を選ぶようになっている。枯れ枝を踏まないし濡れた石にも乗らない。
教えたことが足に沈み始めている証拠だった。現場が近づくとテムの足が少し硬くなった。
怖い場所に戻るのは誰でも硬い。それでも戻る。報せは足で確かめると教えたのは俺だ。
足跡はすぐに見つかった。一頭分、テムの言った通りの位置に行きと帰り。だが俺はしゃがんで、テムに足跡の縁を指でなぞらせた。
「縁が乾いて崩れかけているのが、今朝より前の分だ」
「はい」
「湿って立っているのが、それより新しい分。……なぞってみろ。新しい分が何種類ある」
テムの指が足跡の縁を三つ辿って止まった。
「二頭、ですか」
「三頭だ。小さいのが茨の裏に一つある。群れの先触れだよ。四年前の冬と同じだ」
テムの顔からまた色が引いた。引いていい。一頭だと思って逃げ切った場所に、実は三頭いた。
その怖さを今日覚えれば明日からの足の運びが変わる。足跡の読みは爺の千日には無かった科目だ。
兎場の十年と見回りの四年で俺が自分で書き足した頁になる。歩幅で目方を読む。爪の沈みで急ぎ方を読む。
縁の乾きで時を読む。頁を書き足す側になって初めて爺の凄みが分かる。あの人はこういう頁を何百枚も黙って持っていた。
俺は茨の裏へ回って小さい足跡の向きを確かめた。三つとも南の沢筋から来て南の沢筋へ帰っている。
森の奥からではなく奥のほうへ帰る足だ。妙だった。牙犬の群れは冬の前は森の奥で肥える。
里へ下りてくるのは雪で奥の獲物が獲れなくなってからだ。まだ秋のはじめに群れの先触れが沢まで下りている。
ふと爺の夜語りを思い出した。群れが里へ下りる年は、山の奥で何かが動いた年だ。
獣は理由なく縄張りを捨てん、捨てさせた何かが必ず奥にいる。沼のセドの言葉がそれに重なった。
何かに押されたみたいに獣が下りてくる。俺はテムにそこまでは言わなかった。言えばテムの夜の眠りが浅くなる。
木札の頭は目の前の兎と明日の足場で一杯でいい。分からない話の重さは、銅から上が持つ荷物だ。
◇ ◇ ◇
組合に戻ってバレンに報告を上げた。帳場の奥で白髪まじりの受付頭は、俺の絵図を長いこと見ていた。
「牙犬の群れが南の沢筋に入り込みつつある。数は先触れ込みで、少なくとも三」
「はい」
「兎場は当分、木札には閉じる。駆除は灰羽が受けろ。おまえも出ろ」
「分かりました」
バレンは絵図を返しながら声を半段落とした。
「……この秋、似た報告が三つ目だ。沼の蟹。西の亀。それに、この牙犬。みんな、持ち場を外れた獣の話だ」
「奥で、何かが」
「分からん。分からんことは、分からんまま帳面に載せておく。分かった顔をした報告が、いちばん人を殺すからな」
爺と同じことを言う男だった。帳場の奥の壁には古い森の絵図が貼ってある。バレンはその絵図の沖の森の奥の辺りを、しばらく見ていた。
三段目のさらに奥は絵図の上でも白い。調べた者がいないから白い。白いままで済んでいたのは、向こうがこちらに用が無かったからだ。
用ができたのなら、それはどちらにとっての用なのか。俺は頷いて帳場を離れた。帳場を離れる時、テムが追いかけてきた。
「あの。俺もいつか、駆除の側に」
「なる。兎場を出て、逃げの型が体に沈んで、それからだ」
俺はテムの提げた兎を指した。
「今日のはいい兎だ。いい兎ってのは生きて帰った奴が提げてる兎のことを言う」
テムは兎を持ち上げて初めて少し笑った。笑えたならもう大丈夫だ。その日のうちにテムは兎を売って、いつも通りの銭を数えて帰った。
いつも通りが戻るのが、生き残った日のいちばんいい締めくくりだ。
◇ ◇ ◇
夜、納屋で帳面を開いた。テムは教わった型で生きて帰った。教えたものはテムの中で利子がついていた。
鍛えるのは自分の皿だけだと思っていたが、人に注いだ分は別の皿で勝手に増えるらしい。
爺がなぜ千日も俺に付き合ったのか、その勘定が少しだけ分かった気がした。帳面に書く。
テム、三頭の場から無傷で戻る。教えの利子確かにあり。それから頁を変えて、もう一つの勘定を書いた。
沼の主は痩せていた。亀は岩場を下りて街道に居着いた。牙犬の先触れは秋のうちに沢へ下りた。
バレンの言う通り、三つは同じ帳面に載る話かもしれない。沖の森の奥で何かが獣を押している。
押しているものの正体を書く欄はまだ白い。白い欄は気持ちのいいものとそうでないものがある。
これはそうでないほうだった。駆除は三日後と決まった。まずは目の前の三頭からだ。
遠くの分からないものより近くの牙。その晩のうちに研ぎと草鞋と縄の支度を終えた。
支度の手つきがいつもより丁寧になった。順番だけは間違えないようにする。




