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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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42話 カイの剣

秋の夕方、組合の裏の稽古場で素振りをしていたらカイが立っていた。夕日が長い影を二本、土の上に引いていた。


左腕はもう吊っていない。ただ立ち方が変わっていた。前のカイは立っているだけで次の三歩が読めないやつだった。


速さが服を着て歩いているような、そういう立ち方だった。今のカイは両足がちゃんと地面の上にある。


「兎の人。頼みがある」


「はい」


「打ち込みの相手をしてくれ。銀の連中は俺に気を遣う。あんたは遣わなそうだ」


気を遣うの意味は分かった。折れた腕の男に誰も本気の剣を向けたがらない。向けられない稽古は稽古の形をした休みだ。


この男は休みに来たのではない。俺は素振りを途中で止めて、木剣を二本壁から取った。


組合の木剣は使い込まれて柄が黒い。何百人の手汗を吸って育った備品だ。軽く二度振って重心を手に入れてから、一本をカイに投げた。


カイは片手で受けた。受けた瞬間の手首の返しだけで九割は戻っていると分かった。


残りの一割をこれから二人で探すことになる。


◇ ◇ ◇


向かい合って最初の一本で分かった。速い。九割は戻っている。


俺の剣は三本振って三本とも綺麗に払われ、三本目の後には喉の前で寸止めが待っていた。


二年前と同じ景色だ。あの時の俺はこの速さがただの光に見えたが、今は光の中の道筋が見える。


見えても追いつけないのは同じだ。だが見えると見えないでは負け方の中身が違う。


一本目は正面から、二年前と同じ入りをわざと選んだ。結果も同じで、払われて喉の前で止まる。


二本目は半歩外して小手へ、三本目は下段から擦り上げ。どれも綺麗に払われた。だが払われるたびに俺の帳面は頁が増える。


速さの中の道筋。剣の出所。呼吸の頭。負けながら書く帳面が俺の稽古のいちばん古い型だ。


ダンに四十六回負けた丘から何も変わっていない。二年前と違うことがもう一つあった。


カイの剣に一つだけ、前には無かった癖がある。四本目で気づいて七本目で確かめて、十本目で確信した。


途中、稽古場の柵の外に銀札が二人足を止めた。


「おい、あれ」


「復帰したのか。相手は誰だ、あの銅札」


カイは手を止めずに声だけを柵へ投げた。


「見世物じゃない」


二人は肩をすくめて消えた。柵の外の目はそれからも増えたり減ったりした。誰かが噂を拾い、噂が次の目を連れてくる。


俺一人の稽古ならこうはならない。カイという男は立っているだけで人を集める。集めた目の分だけこの男は今日まで削られてきたのかもしれない。


見る奴がまた増えている。カイを見に来てついでに俺を見ていく。バレンの言った通り、札が上がるほどこの稼業は人の目の中でやることになるらしい。


前世の職場にも天才の同期が一人いた。その男の隣に立つのが嫌で、俺は自分の数字ばかり見ていた。


今は天才の隣で木剣を構えている。逃げなかった今日の俺を少しだけ買ってやることにする。


◇ ◇ ◇


十本目の後で、俺はそれを言うかどうか少しだけ考えた。天才の剣に銅札が口を出す。


場所が場所なら笑い話だ。だがこの男は俺を「気を遣わない相手」として選んだ。なら遣わないのが礼だ。


言った。


「左へ払う時だけ、肘が先に動きます。半拍、初動が見えます」


カイは木剣を下ろして長いこと黙っていた。夕日が土の上の影を少しずつ伸ばしていった。


「……折れた側だ」


やがて言った。


「庇ってるんだな、体が勝手に。自分じゃ分からなかった」


「戻れば消える癖だと思います」


「消えるのを待つのは、性に合わない」


カイは木剣を握り直した。握り直す手つきに迷いがなかった。二年前のこの男なら、癖ごと速さで塗り潰すと言っただろう。


塗り潰しではなく消すほうを選んだ。選び方がもう崖の前と違っている。


「兎の人。あんた毎日、同じ素振りを何年やってる」


「十二年と少しです」


「そうか」


それだけ言って、天才はその日日が暮れるまで左払いだけを二百本振った。一本ごとに自分の肘を睨みながら。


俺は隣でいつもの型をいつもの数だけ振った。いつもと違うのは、隣に剣の音がもう一つあることだけだ。


二本の木剣の音は拍子がまるで違った。向こうは驟雨でこちらは時雨だ。驟雨は二百で止む雨だ。


時雨は十三年降り続いている。どちらが強いという話ではない。ただ俺は俺の降り方しか知らないし、知らないままでいいと思っている。


それでいい。降り方は違っても土は同じだけ濡れる。濡れた土の匂いだけが二人分の稽古の証拠だった。


二百本の途中でカイが三度こちらを見たのが分かった。数えるということをあの男は、たぶん岩蛇の崖から持って帰ってきたのだ。


骨と一緒に折れなかったものが、あの崖で一つ増えて戻った。日が沈みかけて稽古場の土が赤くなった。


カイの左払いは百本を過ぎた頃から音が変わり、肘の先走りが十本に一度まで減っていた。


数えているのは本人と隣の俺だけだ。二百本目が終わった時、カイは肩で息をしていた。


二年前のカイは汗をかく前に稽古を終える男だった。正しくは、汗をかくほどの相手も稽古も要らなかった男だ。


◇ ◇ ◇


日が落ちてカイは木剣を壁に戻した。汗が顎から落ちて土に黒い点を作っていた。


「百七十六本目」


カイが不意に言った。


「肘が先に出たのが二百本のうち百七十六本。数えたのは初めてだ。……ひどいな、俺の左は」


「明日は減ります」


「知ってる」


即答だった。崖の下で動かない左腕と二月暮らした男だ。治りの遅い日々を、この男は初めて一日ずつ数えて生きたのだろう。


数えた日々は腐らない。俺の体質でなくても、数えた日々の分だけ人は確かになる。


知ってると言い切れるまでにこの男が崖の下で何を数えたのか、俺は聞かなかった。


帰り際、カイは一度だけ振り向いた。


「岩山にはもう一度行く。今度は戸板の上じゃなく、自分の足でだ。それまでに、この半拍を消す」


岩山。金札の一行が十日かけて主を仕留めた、あの西の岩場だ。主は死んだが崖は残っている。


カイの中ではまだ何かが終わっていないのだ。俺は頷いた。止める言葉も励ます言葉も、この男には余計だった。


俺に出来るのはまた稽古台に立つことくらいだ。それで足りるならいつでも立つ。帳場の板のあの焼けた依頼書が頭の隅をかすめた。


西の岩山も沖の森も、この街の外はまだ広い。


◇ ◇ ◇


納屋に戻って帳面を開いた。削れた才がどう戻るのか、答えの出方を俺は初めて近くで見ている。


速さは天からの借り物かもしれない。だが数えて消した癖はあいつが自分の手で身につけたものだ。


身につけたものなら簡単には消えない。俺の体質でなくても、たぶんそういうものだ。


帳面に書く。カイ復帰。左の半拍、本人が数え始めた。それから少し考えてもう一行足した。


二年前に光にしか見えなかったものの中に、今日は道筋が見えた。俺も俺の速さで進んでいる。


あの男が崖に置いてきたものと崖から持ち帰ったもの。その両方の目方を知るのは、たぶんもっと先だ。


その日が来るまでにこちらの帳面も厚くしておく。窓の外で夜の風が鳴った。明日の朝は河原で二対一。


昼は依頼で夕方は素振り。そのどこかに今日みたいな日がまた不意に挟まる。挟まった日を逃さず頁にする。


それが才の無い俺の唯一の拾い方だった。焦らない。休まない。明日もいつもの型をいつもの数だけ。

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