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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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41話 沼の主

秋のはじめ、灰羽に沼の仕事が来た。沖の森の南のはずれに古い沼がある。


切り出した材木を馬で運ぶ道が沼の際をかすめて通っていて、その馬がこの夏の間に二頭やられた。


水際で足を取られ、気づいた時には泥の中へ引き込まれていたという。御者が見たものは、泥から突き出た人の胴ほどもある鋏だった。


大鋏。帳場でその名を口にすると、ネラは奥から古い台帳を出してきて埃を払った。


「十六年ぶりです。前のはあたしがここに来る前ですね」


台帳の頁には几帳面な字で前回の顛末が書いてあった。泥に潜む蟹の親玉。甲羅は斧を弾く。


鋏は盾ごと腕を持っていく。前の時は銀札の隊が三日がかりで仕留め、一人が指を四本沼に置いてきたとあった。


指の主の名前の横に細い黒の線が引いてある。


「この線は」


「その二年後に、別の依頼で。……台帳って、嫌な読み物でしょう」


ネラは台帳を閉じて俺の顔を見た。


「行くんですか」


「灰羽で、です。一人でじゃありません」


「ならいいです。……いえ、よくないですけど。長生きしなよ」


いつもの言葉がいつもより一拍だけ重かった。


◇ ◇ ◇


溜まりでガッシュは腕を組んでいた。


「本当なら銀の仕事だ。だが今回は銀が出払ってる」


北の長い護衛と東の街の祭りの警備で、銀札は軒並み街を空けていた。組合は依頼を寝かせるか銅の上澄みで組むかの二択で、後のほうを選んだ。


「けどな、うちには沼向きの足がある」


俺のことだった。雨の峠の夜からこっち泥は俺の敵ではない。それを隊で一番知っているのがこの隊長だった。


断る理由は数えても出てこなかったから支度だけを数えた。替えの草鞋。乾いた縄。長めの棒が二本。


棒は泥の深さを測る物差しで、縄は誰かが呑まれた時の命綱だ。使わずに済めばそれがいちばんいい。


沼までは荷馬車で半日で、沼は思ったより静かな場所だった。枯れかけの葦が際を囲って、水面は秋の空の色をそのまま寝かせていた。


馬が二頭消えた場所にそれらしい印は何もない。静かな水場ほど帳面には太い字で書く。


俺は最初の半日を水と泥を読むことに使った。足の乗る泥と乗らない泥、境目は色と草の生え方に出る。


乗れる泥は草の根が締めていて色が半段だけ浅く、乗れない泥は面が妙につるりとして雨も降らないのに光る。


兎場の要領で沼のまわりをひと回りして、頭の中に絵図を引き写していく。二歩ごとに棒で突いて深さも絵図に書き足した。


深さの読みには四年前の年かさの護衛の講釈がそのまま生きた。うんと外かうんと中、半端な帯がいちばん危ない。


泥も同じで、乗れる泥と乗れない泥の間に半端な帯がある。乗った気にさせて二歩目で呑む帯だ。


絵図にはその帯をいちばん濃く描き込んだ。回りながら御者道の際に嫌なものを見つけた。


誰かの荷紐が光る泥の面に半分だけ呑まれて残っていた。引いてみたが動かなかった。


泥の下の深さを、その荷紐が黙って教えていた。


◇ ◇ ◇


昼過ぎに材木置き場の男が一人、沼の際へ降りてきた。置きっぱなしの鉈を取りに来たらしい。


男の足が光る泥の面へまっすぐ向いた。


「止まれ」


声が間に合って、男は片足を上げた形のまま固まった。俺は乗れる泥だけを拾って回り込み、男の腕を引いて戻した。


男の上げた足の先で、泥の面に細い泡がひとつ立った。下にいる。男は青い顔で何度も礼を言って坂を駆け上がっていった。


俺はその場を動かず泡だけを数え続けた。潜んでいる泥の面にだけ呼吸の泡が細く立つ。


同じ泡の立つ面が沼にはあと二つあった。潜み場所は三つ。絵図に三つの印をつけて俺は岸へ戻った。


縄は結局この日も使わずに済んだ。使わずに済んだ道具の数も帳面に載せておく。備えの答え合わせは、事が起きなかった日にしかできない。


夕方、火を焚かずに段取りを組んだ。


「段取りは」


「餌で一番浅い潜み場に寄せます。俺が旗です。鋏の届く一歩外を歩いて、あれの向きを引き回します。あれが俺に合わせて回れば、甲羅の横がセドさんの槍の間合いに入る。仕留めはガッシュさんの斧で、首の付け根を」


「おまえの仕事が一番危ないな」


「一番泥を読めるのが俺です。それに、届く一歩外というのは、届かない場所という意味です」


セドが槍の穂先を確かめながら静かに笑った。


「言うようになったな、兎の」


餌は置き場の男たちが出してくれた豚の骨付きだった。馬を二頭やられた側の、これが弔い金代わりだという。


夜のうちに浅い潜み場の風上へ吊るして匂いを水に流した。あとは夜明けを待つだけだった。


◇ ◇ ◇


夜明け前の沼は息を止めたように静かで、葦の露が落ちる音まで数えられる。俺は旗の位置に立って、乗れる泥の道を頭の中でもう一度歩いた。


右へ三歩戻って左へ五歩、後ろは無し。後ろは無しを三回繰り返した。下がる足を最初から消しておけば体は迷わない。


東の空が白み始めて、浅い潜み場の泡が太くなった。起きたのだ。当日の大鋏は段取りの外のことを一つだけした。


寄せた餌を無視して最初から俺に来たのだ。泥を割って出た鋏の速さは聞いていた話の倍あった。


葦が薙ぎ倒され泥の飛沫が顔まで届いた。だが足の下の泥は読んだ通りだった。俺は下がらず半歩だけ横へ出た。


大牙猪で覚えた半歩だ。下がった足は泥に呑まれるが、横に出る足は草の根が受ける。


鋏は俺のいた場所の空気を断ち、伸び切った腕の関節の継ぎ目が一瞬だけ目の前で止まった。


当てどころの一寸。一年前の宿題を俺はそこへ返した。剣先を一寸、継ぎ目の膜へ。鋏が片方泥に落ちた。


落ちた側へ巨体が傾ぎ、浮いた甲羅の横腹へセドの槍が過たず入った。最後はガッシュの斧が首の付け根で仕事を終えた。


三つ数えて俺は剣を下ろした。二歩下がって足場を確かめてから、もう三つ数えた。


沼はまた空の色を寝かせる面に戻っていた。


◇ ◇ ◇


引き上げた大鋏は荷車一台がきしむ目方だった。だが甲羅を割った時、セドが眉を寄せた。


「痩せてるな、こいつ」


甲羅の中の肉が大きさの割に薄かった。十六年ここの主だったものが馬にまで手を出した理由が、その薄さに見えた気がした。


沼の魚が減っていたのだ。


「今年は妙だ」


帰りの荷馬車でセドがぽつりと言った。


「山の獲物の間引きが、どこもおかしい。狩人の知り合いがみんな同じことを言う」


「どこもですか」


「沖の森の、奥のほうからだとよ。何かに押されたみたいに、獣が下りてくるんだと」


飢えた主がいちばん危ない。それは沼も森もたぶん同じだ。押しているものが何かは誰も知らない。


「一寸だったな、今の」


並びに座ったガッシュが言った。


「去年のおまえは、半歩までだった」


「宿題でしたから」


「なら次の宿題をやる。今のを俺の斧が間に合わん時に、一人で最後までやれるようになれ」


一人で最後まで。旗でも導き役でもなく。俺は頷いて、その宿題を帳面のいちばん上に書いた。


街に戻るとネラが台帳の新しい頁を開いて待っていた。大鋏一頭。灰羽三名。欠けなし。


十六年前の頁と同じ獲物の名前の下に、今度は黒い線が一本も要らなかった。


「台帳が初めていい読み物になりました」


ネラはそう言って頁を静かに閉じた。宿題はいつも一寸ずつ重くなる。その一寸の重なりが、この稼業でいちばん確かな路銀だった。


ただ帳面を閉じる前に、もう一行だけ書き足した。沼の主を痩せさせたものの正体、不明。


沖の森の奥で何かが獣を押している。

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