39話 まだ、の手紙
岩山の騒ぎが落ち着いた頃、帳場の奥からバレンに呼ばれた。
「ゼフから、文が来た」
差し出されはしなかった。バレン宛ての文だからだ。爺の手紙はいつも相手を選んで、その相手にだけ書かれる。
ただ膝の件だけ聞かされた。この春の雪解けに膝をひねり直して、杖が一本から二本になった。
畑仕事は兄たちに任せ、いまは小屋で草鞋を編んでいるという。剣を八十まで振った人がいまは草鞋を編んでいる。
俺が村を出た春、爺の膝は杖一本だった。三年で二本になった。その三年で俺は銅札になり、灰羽の五人目になり、剣に光を通した。
俺が段を上る間に爺は一段ずつ下りている。それが時というものの正直な勘定だった。
俺の身につけたものは減らないが、爺の膝は待ってくれない。だから爺と会える日々のうちに、爺から学べるものを学んでおく。
手紙一通も薬草一束もその稽古の一つだった。
「あの膝で、よく八十まで振れたもんだ」
バレンは他人事みたいに言って、他人事ではない目をしていた。爺とバレン、元銀札の連れ同士の間には俺の知らない年月がずっと敷いてある。
二人がどんな崖を一緒に越えてきたのか俺は知らない。だが爺が困った時の手紙をバレンに宛てた、その一事で二人の年月の深さは量れた。
命を預けられる相手は一生にそう何人もできない。その一人がこの帳場に座っている。
◇ ◇ ◇
「で、だ。文の残りはおまえへの言付けだ。二つある」
「はい」
「一つ。岩蛇の騒ぎに首を突っ込んだそうだな、いい判断だ、運び手は戦場がよく見える」
「……なんで知ってるんだ、あの爺は」
「俺が手紙に書きました」
「だろうな」
バレンは呆れたように鼻を鳴らした。
「おまえら師弟は遠く離れてても、筒抜けなんだな」
俺は岩山へ行く前に爺へ文を出して、運び手で行くと書いた。爺はそれを読んで、いい判断だと返してきた。
討ち手で背伸びをせず運び手で戦場を見る、その選び方を爺は褒めた。膝を痛めて村にいる爺が、崖の下の俺の選択をちゃんと見ている。
距離は爺の目を曇らせなかった。
◇ ◇ ◇
「二つ目」
バレンは帳面を閉じた。
「例の預かりものは、まだ出すな。だとさ」
例の預かりもの。困ったら出せと言われた、バレン宛てのあの手紙だ。三年俺の懐の油紙の中で眠っている。
汗と体温で油紙の角はすっかり丸くなっていた。村を出る日、爺が短剣と一緒に俺に託した。
困るまで出すなと。
「……俺は困っていないつもりで、います」
「知ってる。だから、まだ、なんだろうよ」
バレンは頬杖をついた。そして初めて少しだけ声を崩した。
「なあ、小僧。ゼフがああいう手紙を書く相手は、俺の知る限り、三人目だ」
「一人目は俺だ」
「二人目はもういない」
もういないの一言が静かに帳場の空気に沈んだ。二人目が誰でどう死んだのか、バレンは言わなかった。
俺も訊かなかった。列を離れるなと同じで、踏み込んではいけない線がある。訊いてはいけない種類の沈黙がそこにあった。
爺がその二人目に切り札を渡し、そして二人目はもういない。切り札を渡された者が切ったのか切れずに死んだのか。
どちらにせよ爺の手紙の重さがその沈黙で少し分かった。俺は三人目だ。一人目のバレンはいま帳場で生きている。
二人目はもういない。三人目の俺はどちらの側に立つのだろう。立つ側はこれから重ねる日々が決める。
「中身が何かは俺も知らん。だが、あれは爺の切り札だ」
「切り札ってのはな、切らずに終わるのが、いちばん上等なんだ」
「はい」
俺はその言葉を深く頷いて受け取った。
◇ ◇ ◇
切らずに終わるのがいちばん上等。その言葉を俺は胸の底で転がした。困った時に切る切り札を懐に持っている。
だが切らずに済ませることがいちばんいい。なら俺の仕事は、この手紙が要らないまま終わる人生を重ねることだ。
切り札に頼らず毎日の稽古だけで頂まで行く。もしこの手紙を切る日が来たら、それは俺の地力がどこかで足りなかった日だ。
だから切らせない。爺の切り札を懐で眠らせたまま終わらせる。それが俺にできるいちばんの恩返しだった。
切り札を持つと人はつい当てにする。いざとなればこれがあると。その「いざ」を当てにした瞬間、稽古の手が一寸緩む。
だから俺はこの手紙のことをふだんは忘れることにした。懐にあるのは知っているが当てにはしない。
当てにしない切り札は稽古を緩めない。いざという時にそれでも切らずに済むように、毎日を重ねる。
切り札を忘れるほど深く懐に沈めて腕だけで生きる。それが爺の「困るまで出すな」のいちばん正しい守り方だと思った。
◇ ◇ ◇
「返事を書くなら」
とバレンが話を締めるように言った。
「膝に効く薬草の、二番目はいらんと言っとけ。一番目だけ送れ。二番目は苦くて敵わんそうだ」
俺は少し笑いそうになった。苦い薬草に文句を言う、あの爺らしい注文だった。
バレンを通して届く注文にまで爺の顔が透けて見えた。膝が二本の杖になっても、口だけは昔のまま達者らしい。
バレンもその注文を伝えながら口の端が緩んでいた。爺の憎まれ口を懐かしむ顔だ。
元銀札の連れ同士の年月が、その緩んだ口の端に一瞬だけ覗いた。痛いとは手紙に一言も書かない人が、薬草の苦さには文句を言う。
文句を言えるうちはまだ元気だ。そう思うことにした。
◇ ◇ ◇
納屋の二階に戻って、俺は油紙の包みを行灯の灯りで眺めた。封の蝋に爺の短剣の柄と同じ刻みが押してある。
三年一度も封を切っていないし中身も知らない。だが切らずに済んでいるということは、俺がこの三年背伸びをせずに済んだということだ。
この手紙が眠っている限り、俺は自分の腕の内側で生きている。包みをまた懐へ戻した。
三年前より油紙は少し手に馴染んでいた。毎日懐にあって毎日切らずに済んでいる。
切らずに済んだ一日は腕だけで生きた一日だ。切らずに済んだ一日がまた一日増えていく。
◇ ◇ ◇
返事には一番目の薬草を倍包んだ。二番目も意地で一掴みだけ入れた。一番だけでいいと言われて二番も入れる。
良薬は口に苦い。千日俺に苦い稽古ばかり寄越した人への、ささやかな意趣返しだった。
苦い薬草の一掴みに、俺の三年ぶんの憎まれ口を込めておく。
膝の薬草を送れる稼ぎがあることも、字が読める字で文を書けることも、全部あの千日の先にある。
苦かった稽古の礼を苦い薬草で返す。爺ならこの一掴みの意味を、封を開けた瞬間に笑って分かるだろう。
文の最後に俺は一行だけ余計なことを書いた。
「増えています。減っていません。まだ、困っていません」
銅札になった年、俺は「増えています。減っていません」と書いた。今年はその後ろに「まだ困っていません」を足した。
困っていないはあの手紙を切っていないということだ。爺にはそれだけで全部伝わる。
切り札を懐に眠らせたまま、俺は今年も腕だけで生きている。その一行がたぶん爺へのいちばんの便りだった。
筆を置いて俺は懐の油紙をもう一度上から押さえた。眠っていろ。おまえの出番が来ない人生を、俺は毎日重ねていく。




