38話 岩蛇の崖
西の岩山から救援の早馬が来たのは夏の盛りだった。銀札二隊が崖の道で「岩蛇の主」に当たり、退きながら負傷者を出している。
討ち手は間に合っていて、足りないのは運び手だ。組合は街の銅札を荷役と搬送でかき集めた。
俺も手を挙げて行った。戦うためではなく運ぶために行った。銀札の戦いを運び手の場所から初めて間近に見る機会でもあった。
行く前、ガッシュに行くべきか訊いた。
「運び手なら、行け」
とガッシュは言った。
「討ち手で行くなら、止める。おまえの腕じゃ、崖の上は背伸びだ」
「だが、運び手は別だ。戦場をいちばん安い席で、いちばんよく見られる」
「見て、数えて、帰れ。おまえの得意なやつだ」
列を離れるな。勝手に戦うな。荷を捨てるな。灰羽の三つの掟がそのまま崖の下の心得になった。
手柄を立てに行くのではなく人を運びに行くのだ。俺は討ち手の顔で行くのではなく、運び手の顔で行く。
背伸びをしない、その一点を崖の下でも守る。
◇ ◇ ◇
岩山の道は二日目から戦の匂いになった。血と汗と薬草の煮汁の匂い。運ぶのにも型があった。
崖の道は人ひとりぶんの幅しかなく、戸板の前と後ろで歩幅を揃えなければ負傷者が揺れて傷が開く。
俺は前を持つ時、後ろの相棒の息に歩幅を合わせた。護衛で覚えた隊列の呼吸だ。
守る側の筋がこんな場所でまた効いた。降りてくる負傷者を受け取り、戸板に載せ、崖の道を交替で運ぶ。
運びながら俺は崖の上の音を聴いていた。岩の砕ける音。銀札の号令。何か巨大なものが地を擦る音。
姿は見えなくても音は数えられる。見えないものを数えるのは、雨の夜の護衛からずっと重ねてきた。
音の間隔からその獣の大きさと速さを勝手に測っていた。戦わない場所でも数える癖は止まらなかった。
岩蛇の主とやらの姿は、俺たち運び手の場所からは見えない。崖の上のことは崖の下には届かない。
届くのは音と血の匂いと降りてくる骸だけで、見えたのは砕けた盾と折れた槍と銀札たちの顔色だけだ。
銀というものの重さを顔色で教わったのは二年前の森だった。あの時ガッシュたち灰羽の顔に迷いはなかった。
いま崖を降りてくる銀札たちの顔は揃って蒼い。その銀が揃って蒼いのだから、崖の上にいるものの重さはいまの俺の帳面の外にある。
数えようにも数える物差しを俺はまだ持っていない。
◇ ◇ ◇
三日目に運んだ戸板の上にカイがいた。左腕が添え木ごと布で吊られ、綺麗だった顔の半分が擦り傷で腫れていた。
生きているし目も生きている。二年前、掲示板の前で俺に「なんで急がない」と訊いたあの男だ。
最短記録で銀まで駆け上がったあの綺麗な速さの男が戸板の上にいる。ただその目は俺を見ても、しばらく俺だと分からなかったらしい。
「……兎の人か」
「はい。いまは喋らなくていいです」
「化け物だよ、あれは」
カイは掠れた声で、それでも喋った。
「鱗の一枚が盾くらいある。銀が六人がかりで、尻尾の先も止められなかった」
「金札が来るとさ」
「あれが上の世界」
銀札の最短記録を作った男が上の世界と言う時、その声に初めて怯えがあった。
木札の頃あいつは広間の王様だった。銀まで駆け上がって初めて、自分より上の化け物を目の前で見た。
速さで駆け上がった者ほど上の壁を遅れて知る。言葉が途切れた。それからカイは少し目を動かして俺を見た。
「……なあ」
「はい」
「あんたはなんで焦らないんだ」
「あんなのが上にいるって知ってて、なんで毎日、兎の顔でいられるんだ」
その問いは二年前、掲示板の前であいつがした問いと同じだった。なんで急がない、とあの時あいつは訊いた。
いま崖の下の戸板の上でまた同じことを訊いている。違うのはあの時のあいつが駆け上がる側だったことだ。
いまあいつは駆け上がって上の壁に叩き落とされて訊いている。同じ問いでも声の重さがまるで違った。
◇ ◇ ◇
戸板の揺れの間、俺は少しだけ考えた。焦る理由はあった。あんな化け物が上にいると知って、心が凪いでいるわけではない。
だが焦っても俺の伸びは変わらない。人の倍かけて一段、焦ろうが焦るまいがその速さは変わらない。
変わらないなら焦りの分だけ損だ。俺は半分だけの真実を答えた。
「焦っても、俺の伸びは変わらないので」
「変わらないなら、焦りの分だけ、損です」
「……羨ましいな、それは」
カイは目を閉じ、麓に着くまで眠っていた。
◇ ◇ ◇
羨ましいの一言が耳に残った。皮肉でも世辞でもない裸の声だった。才の側から見た俺は、そういうふうに見えるものらしい。
速く登れる者は焦る。登れば登るほど上の高さが見えて焦る。焦りは汲み出しを速める。
汲み出しが速まれば器は渇く。俺には焦る理由がそもそも要らない。どう焦っても速さは変わらないからだ。
焦らないことは俺の徳ではなく、ただの体質の結果だった。だがその結果が才ある者には羨ましく見える。
持たない者の穏やかさが持つ者の渇きを照らすことがある。だが俺は羨ましがられていい気にはならなかった。
カイの穏やかでなさはあいつが崖の上に立ったその証で、俺の穏やかさは崖の下にいるその証だ。
焦らずにいられるのは、まだ焦る場所に立っていないからかもしれない。いつか俺が崖の上に立つ日が来たら、その時俺もあの蒼い顔になるのだろうか。
ならないと言い切る自信はなかった。俺の穏やかさが体質の結果なのか、それともまだ本物の壁を知らないだけなのか。
その答えは崖の上に立ってみるまで分からない。分からないことは分からないまま、帳面の隅に書いておく。
「俺の穏やかさは、まだ試されていない」と。
◇ ◇ ◇
岩蛇の主は王都から来た金札の一行が十日かけて仕留めたと、後から聞いた。銀札二隊が尻尾の先も止められなかった獣を、金札は十日で。
俺は最後までその姿を一度も見なかった。崖の下で戸板を運び、音を数え続けただけだ。
見なかったことも帳面に書いた。今の俺は見る資格の場所にすら立っていない。カイは崖の上で戦って負けて、それでも「見る」場所には立った。
俺は崖の下で運んだ。立っている場所がまだ違う。それが現在地だ。現在地を大きく見せもしないし小さく見せもしない。
現在地の分かっている旅は迷わない。いつかあの崖の上に立つ日が来るかは分からない。
分からないが、崖の下から一段ずつ道は続いている。崖を下りる帰り道、俺は自分の帳面を心の中で開いた。
岩蛇の主の音だけの記録。砕ける岩の間隔。地を擦る速さ。銀札の退がる号令の拍。
姿は見ていないが音は全部数えた。いつかその姿を見る場所に立つ日が来たら、この音の記録が最初の一頁になる。
見る資格の場所に立つための道は、見ない場所からもう始まっていた。
カイは上で戦って削れ、俺は下で運んで数えた。削れる者と数える者。
どちらが先にあの崖の上へ本当の意味で立つのかは、まだ誰にも分からない。分からないから、俺は今日数えた音を忘れないうちに帳面へ移す。
今日運んだ戸板の重さも、その道の一段だった。




