37話 欠けない剣
夏の初めの晩、光が剣の先まで通った。柄の中ほどで一月、鍔元でまた一月。詰まっては抜け、抜けては詰まりの繰り返しの果てだった。
柄の手前で春の初めに二十日、柄の中ほどで一月、鍔元で一月。春から夏まで俺はずっとこの一本の道を通していた。
人なら幾日かで渡る橋に、俺は季節をひとつまるごと使った。だが俺の吸い込みの遅さは、もう恨まない。
遅く架けた橋ほど頑丈に架かり、急いで渡した橋は急いで流される。そう自分に言い聞かせながら、毎晩掌の光を柄へ押し込んだ。
その晩、掌から出た流れが木剣の芯をするりと走って切っ先で小さく満ちた。止まる場所がどこにもなかった。
柄から鍔から刃元から切っ先まで、一本の道が初めて端から端まで繋がった。
手応えはあっけないほど静かで、剣が一本まるごと腕の続きになっただけだ。
光りもしないし音もしない。ただ木の棒の先まで俺の指が届いた気がした。
◇ ◇ ◇
ヨナ婆は薪の山の上からそれを見ていた。降りてきて、俺の木剣と庭の隅の古い木剣を持ってこさせた。
「打ち合わせな。あんたのに通したまま」
俺の額に汗が滲んだ。三呼吸の光を切らさぬように握り直す。古い木剣は庭仕事に使われて刃筋の荒れた代物だった。
言われたとおり光を通したまま、二本を三合打ち合わせた。俺の木剣には傷ひとつ付かなかった。
相手の古剣は三合目で刃筋がささくれた。同じ木で同じ強さで打ち合わせて、片方だけが傷まない。
俺は自分の木剣の刃筋を指でなぞった。打ち合わせた跡さえ残っていない。もしこれが本身の鋼だったら。
牙犬の日、四頭目まで届かなかった短剣が欠けずに保っていたら。もしあの二寸の傷の時、手元が震えていなかったら。
欠けない刃と震えない手が何を意味するのか、打ち合わせた二本の木剣がそれを静かに教えていた。
それだけだった。火も出ないし光りもしない。婆さんの言ったとおりの、それだけの効能。
欠けない、震えない。冬に聞いた言葉がいま俺の手の中で本当になった。派手さを期待するな、と言ったあの皺の底の目。
期待していなかったから俺はがっかりしなかった。むしろこの地味さこそが俺の稼業に効く。
俺の生き死にはいつも地味な場所で決まる。なら剣の頼れる場所が一寸増えることは、命の置き場所が一寸増えることだ。
火の出る剣より欠けない剣のほうが、俺にはずっとありがたい。
◇ ◇ ◇
「今、何呼吸保った」
「……三呼吸です。もう切れました」
「三呼吸ね」
婆さんは笑った。三呼吸を短いと思う者もいるだろう。だが掌の灯りが三つ数えるまでに二年かかった俺が、剣に光を通して三呼吸だ。
二年で灯りは掌から切っ先まで旅をした。遅いが着実に道は伸びている。
「言っとくが実戦で使うのは十年早い」
「三呼吸の橋は渡ってる途中で落ちる橋だ」
「当分は毎晩通して、伸ばすだけにしときな」
「はい」
三呼吸。剣を三合打ち合わせる間しか光は保たない。実戦の斬り合いは三合では終わらない。
途中で光が切れれば切れた剣で戦うことになる。当てにできない橋は当てにしない。
当てにできるようになるまで何年でも毎晩渡り続ける。それだけの話だったが、その「それだけ」を俺は喜んだ。
十年早いと言われてがっかりする者もいるだろう。俺は逆だった。十年かければ届く、ということだ。
十年は俺のいちばん得意な通貨だ。人の十年は貯えを食い潰す十年で、俺の十年は貯えを増やす十年。
同じ十年でも向きが逆だった。三呼吸の橋が十年後には十呼吸の橋になっている。
その十年を俺は一晩ずつ確かに持っている。
◇ ◇ ◇
「五十年前、あたしの師匠がこう言ったよ」
婆さんの声が少し遠くなった。
「魔力ってのは若い頃の貯えを歳取ってから食い潰す稼業だとね」
「あたしもそのとおりに生きて、そのとおりに細った」
皺の底の目が俺の木剣に落ちた。
「あんたのは、食い潰しても減らない貯えだ」
「十年たっても、三呼吸が三呼吸のまま、なんてことは、あんたに限ってはない」
その一言に俺は顔を上げた。
「だからあたしは、あんたには、十年先の稽古を先に教える」
「生きてるうちに、伝え終わりたいからね」
◇ ◇ ◇
婆さんが自分の終いの話をしたのは初めてだった。膝が細り講習をやめ、いまは薪の取引だけで俺に稽古をつけている。
その婆さんが生きてるうちに伝え終わりたい、十年先の稽古を先に教える、と言った。
それは婆さんが自分の残りの時を数えているということだ。俺の器は減らないから、いま受け取れば十年後に必ず実る。
婆さんの時が尽きても婆さんの教えは俺の中で減らない。それを婆さんは知っている。
知っていて急いで注ごうとしている。急ぐという言葉が婆さんに似合わなかった。
この二年、婆さんは一度も俺を急かさなかった。詰まれば「ゆっくりおやり」と言い、詰まりを喜ぶ人だった。
その人が自分の教えだけは急いで注ごうとしている。急がないことを教えてくれた人が、自分の残り時間には急いでいる。
その矛盾の底に俺は婆さんの覚悟を見た気がした。俺は何も言えずに、ただ頭を下げた。
下げながら胸の内の帳面に太く書いた。この人から教われるものを一つ残らず取り漏らさないこと。
◇ ◇ ◇
その晩から日課がまた一つ増えた。寝る前の四半刻の灯りの後ろに、剣へ通して三呼吸。
三呼吸を三呼吸と半分に、半分を四呼吸に。一晩に一寸も伸びない夜もあるが、伸びない夜も後ろへは戻らない。
だから伸びない夜も恐れない。目に見えないほど少しずつ、人なら十年で食い潰す貯えを俺は十年かけて増やしていく。
俺の橋は落ちない橋だ。架かるのが人より遅いだけで、遅くても一度架かった橋は二度と流されない。
婆さんの残りの時と競争するように、俺は毎晩欠かさず剣に光を通した。伝え終わりたいと願う人がいるなら、受け取り終える責めはこちらにある。
取り漏らさない。それがいま俺にできるたったひとつの恩返しだった。薪を割り光を通し、婆さんの講義を一言残らず帳面に写す。
流しの詰まりの感触も抜けた瞬間の熱も全部覚える。婆さんの教え方の順序まで覚える。
いつか俺が誰かに流しを教える日が来るなら、その時婆さんの教え方が俺の口から出てくるだろう。
爺の言葉が俺の口からテムへ出たように、ヨナ婆の教えも俺を通ってまだ見ぬ誰かへ渡る。
人の時は尽きる。だが減らない器に注がれた教えは器から器へ渡り続ける。婆さんが伝え終わりたいと願うのは、たぶんそういうことだ。
自分の五十年を俺の中に生き延びさせようとしている。その五十年を俺は一日も零さずに受け取る。
◇ ◇ ◇
夜が更けて庭を出る時、婆さんが背中で言った。
「明日も薪を割りに来な」
「はい」
「あんたの流しが切っ先まで通ったのを、あたしはこの目で見た。……それだけで、五十年やった甲斐があったよ」
振り返ると婆さんはもう家の中へ入るところだった。小さな背中に俺はもう一度頭を下げた。
薪を割る。光を通す。一言残らず覚える。冬の日課が夏になってもまだ膨らんでいた。




