36話 教える側
「ルド、この子に兎場を教えてやって」
ネラに押し付けられたのは、テムという十四の木札だった。北の村の水呑みの三男坊だという。
三男坊というところで俺は少し他人と思えなかった。俺も村の農家の三男だった。
実家に仕送りがしたくて、駆除の紙の中でいちばん日当のいい山犬に手を挙げようとしていた。
二年前の掲示板の前の革鎧の若いのと同じ目をしていた。背伸びの目だ。自分の腕をまだ一度も測ったことのない者の目だった。
ネラが俺に押し付けた理由は分かった。背伸びの若木を折れる前に地味な兎場へ連れて行く、それができる銅札を俺だと見込んだのだ。
正直面倒だと思った。教えるほど俺は器用ではないし、自分の稽古だけで手一杯だ。
だがテムの目を見て断る気は失せた。あの目は二年前の広間で革鎧の同期がしていた目で、あいつは背伸びの依頼で初めての冬を越せなかった。
同じ目をもう一度、黒枠の貼り紙で見たくはなかった。教えるのが上手いから引き受けるのではなく、折れそうな若木を放っておけないだけだ。
◇ ◇ ◇
兎場までの道々、テムは不満を隠さなかった。
「兎っすか。兎なんて、棒でも狩れるでしょう」
「狩れるよ。三回に一回なら」
「……三回に一回で、何が悪いんすか」
「残りの二回で、罠場を潰すか、藪で足を切るかする」
「それを十回続けると、二回目の失敗のどれかで、山犬の日に足がもつれる」
テムは黙った。分かったのではなく、へ理屈だと思った顔だった。それでいい、言葉で分からせるものではない。
足で分からせるものだ。二年前俺も同じことを体で覚えて、覚えるのに二年かかった。
テムには二年かける前に一日で入り口だけ見せてやれる。背伸びした木札から死ぬ、という言葉を街道で年かさの護衛に聞いた。
聞いた時は半分しか分からなかった。分かったのはロイクの右手が止まるのを見た日だ。
◇ ◇ ◇
兎場に着いて俺は二年間の型をひとつずつ見せた。風の読み方。風上に立てば匂いで気づかれるから、風下から回る。
糞の新しさの見分け。乾き切った糞は古い道で、艶の残る糞は今朝の道だ。跳ねる前の耳と後ろ足の力み。
兎は跳ねる前に必ず耳を伏せて後ろ足に力を溜めるから、その一瞬を読めば跳ねる先が分かる。
半歩滑って軸を外す足。跳ねてくる兎の線の脇へ、半歩。牙犬で使った型のいちばん小さいやつだ。
テムは俺が見せる型を目で追った。だが目で追うだけでは何ひとつ体に入らない。
教わったことは教わった日のうちに一度は体を通す、それが俺の稽古の型だ。だから俺はテムに見せた型をその場でやらせた。
風下へ回らせ、糞を拾わせて乾きを指で確かめさせ、兎の耳の伏せを藪の陰で一刻待たせた。
待つのがいちばん退屈でいちばん大事な稽古だ。テムは待つのが下手で、三呼吸で体を動かして兎に気づかれる。
待てないのは自分の腕をまだ信じすぎているからで、信じるものが多い者は待てない。
待てない者は兎に逃げられる。教えながら俺は妙なことに気がついた。
体でだけ覚えたはずの型が、言葉にしようとするといちいち爺の言葉になって出てくる。
「恐怖は消すな。置き場所を決めろ」
「積んだものだけが、実戦で出る」
八つの俺に注がれた言葉を、俺はいま十四のテムに注ぎ直していた。爺の声が俺の口から出てくる。
不思議な心持ちだった。言葉は爺のものだが、その言葉を裏づける型は俺が二年兎場で鍛えたものだ。
借り物の言葉と自分の地力が口の中で一つになる。教えるとは借りた言葉に自分の皿で保証をつけることらしい。
保証のない言葉はテムには届かない。俺が兎二十三体を獲った足で言うから、テムは渋々でも耳を傾ける。
鍛えた者の言葉だけが次の者へ渡る。やっていない者の教えは風に流れて消える。
◇ ◇ ◇
テムは初日五回仕掛けて五回逃げられ、五回目の後その顔から背伸びの色が少し落ちた。
棒でも狩れると言った兎に五回逃げられたのだ。六回目の前に俺は足の置き方をひとつだけ直してやった。
右足を半歩内へ。跳ねる兎の線を体の正面ではなく脇で受ける置き方だ。七回目で初めての一羽が獲れた。
テムは兎を高く掲げて獲れたっすと叫んだ。それから急に黙って自分の足元を見た。
「……足、っすね」
「足だ」
その一言をテムが自分で言えたことが大きかった。腕でも棒でもなく足、地味な答えに自分でたどり着いた。
教わった答えは忘れるが、自分でたどり着いた答えは忘れない。俺は答えを言わずに足の置き方だけを直した。
直された足で一羽獲れた時、テムは自分で「足だ」と気づいた。その気づきはテムの皿の底へまっすぐ落ちた。
教えるとは答えを渡すことではなく、答えにたどり着く足場を一つだけ置いてやることだ。
残りは本人が鍛える。それも爺のやり方だった。爺は俺に答えを言わず、皿だ線だと比喩だけを寄越してあとは千日黙って見ていた。
いま俺が同じことをテムにしている。
◇ ◇ ◇
帰り道のテムは行きより口数が減っていたし、目の背伸びも減っていた。兎に五回逃げられた木札は、もう山犬に手を挙げないだろう。
挙げるとしても足を鍛えて腕を測ってからにする。それだけでこの一日はテムの命を一つ拾ったかもしれない。
ネラが俺に押し付けた意味が、帰り道で腑に落ちた。
◇ ◇ ◇
その晩いつもの素振りをして俺は驚いた。何百回と振った型の腰の据わりが一寸深い。
昨日までと同じ数同じ型なのに腰が深く沈む。考えて思い当たった。教えるために俺は今日型を言葉へ割ったのだ。
風の読み方。糞の見分け。耳の力み。半歩の置き方。体の中で溶けていた型を、一度言葉の粒に分けた。
分けた粒が言葉の分だけ骨に沈み直したらしい。教えることは自分の型をもう一度確かめることだった。
◇ ◇ ◇
教えは稽古の複利だった。テムに注いだものがテムの皿に溜まり、同時に注いだ俺の型も一寸深くなる。
一度の稽古で二人の皿が同時に増える。爺が俺に千日付き合った理由の端っこを、俺は初めて注ぐ側から覗いた気がした。
爺も俺に教えながら自分の何かを深くしていたのだろうか。膝を痛めて振れなくなった爺が、それでも俺に千日付き合った。
その千日は爺にとっても、ただの付き合いではなかったのかもしれない。テムの背中を思いながら俺は帳面に書いた。
テムは次の休みも兎場へ来た。誰にも言われずに一人で来て、待つ稽古をしていた。
待てなかった木札が藪の陰でじっと兎の耳を待っている。その背中を俺は遠くからしばらく眺めた。
二年前の俺が丘の千日を重ねたように、テムも兎場の日々をこれから重ねる。俺の型がテムの型になり、いつかテムが誰かに教える。
教えはそうやって人から人へ減らずに渡っていく。爺から俺へ。俺からテムへ。千日の稽古は一人の体では終わらない。
注いだものが注いだ相手の皿に溜まり、注いだ俺の皿も一寸深くなる。減るものが何ひとつない。
こんなに割のいい稽古を俺はほかに知らない。教えは減らない、むしろ増える。注ぐ側の皿も一寸深くなる。
複利は日数を裏切らない。裏切らないものだけを俺は信じてきた。




