34話 大牙猪
討伐の紙が下りたのは、初夏だった。
春の調査から、ふた月。
夏に戻ると、あの見張りの夜に書いた通りになった。
蛍茸の採り場が荒れる前に、番いを討つ紙だ。
灰羽の五人と、弓をもう一人足した六人。
弓の一人は、外から雇った腕利きだ。
灰羽は近接の隊で、遠間から刺す手が足りない。
大物には、遠間の一手が要る。
狙いは、番いの雄。
俺の腰より高い牙の、主だ。
雌と子は、巣を捨てて逃げるなら、追わない。
森の理屈と、組合の勘定の、間を取った筋書きだった。
春に数えた、あの子連れの番いだ。
皆殺しは、森を壊す。
雄一頭を落とせば、雌は子を連れて縄張りを移す。
それで、採り場は守れる。
◇ ◇ ◇
場所は、俺たちが選んだ。
沖の暗がりでは、駄目だ。
巣の前は、獣の庭で、こちらの逃げ場がない。
倒木の多い、猪の速さが殺される斜面へ、囮の匂い袋で誘い出す。
場所を選ぶのは、狩る側の特権だ。
選んだ場所の下ごしらえに、俺は前の日を丸ごと使った。
倒木の位置。斜面の傾き。退がる道。
盾持ちが踏ん張る足場に、堅い岩があるかどうか。
二年、兎場と護衛で養った「場所を読む目」が、そのまま隊の役に立った。
俺は、囮の匂い袋を吊るす木の位置を、三度、変えさせてもらった。
匂いが斜面の上から流れれば、雄は斜面を駆け上がって突っ込む。
上りの突進は、速さが乗る。
匂いを斜面の下へ回せば、雄は斜面を駆け下りる形になる。
下りの突進は、倒木に脚を取られて、速さが死ぬ。
どちらから来させるかで、戦いの半分が決まる。
ガッシュは、俺の言い分を聞いて、短く頷いた。
「新入りのくせに、場所にうるさい」
「場所で、半分は決まるので」
「……その通りだ。やってみろ」
匂い袋は、斜面の下へ吊るされた。
春の見張りで測った、あの一歩の速さも、ここで効く。
突進の始まりから、盾に届くまでの間を、俺は数えて持っていた。
◇ ◇ ◇
来たのは、山が滑り落ちてくるような音だった。
倒木を踏み砕いて、雄が斜面に現れた。
調査で数えた足音の主は、思い描いたより、さらに一回り大きかった。
地面が、腹の底から揺れる。
突進は、一直線。
だが、一直線しかない。
それが、この獣の強さで、弱さだ。
強さは、止まらないこと。
弱さは、曲がれないこと。
曲がれない獣は、曲げてやればいい。
登録の日、年かさの護衛が言った「曲がれない」の一言が、こんな獣の前で効くとは、あの頃は思わなかった。
◇ ◇ ◇
俺の持ち場は、突進の線の、脇だった。
仕事は、ひとつ。
突っ込んでくる雄の目先で、旗布を振る。
半歩だけ線を曲げて、盾持ちの正面へ導く。
旗布は、赤く染めた古布だ。
獣の目は、赤にではなく、動きに寄る。
だから、旗は大きく振らない。
牙の一尺先で、ひらりと、小さく揺らす。
大きく振れば、こちらの位置ごと読まれる。
小さな揺れで、目先だけを、わずかに引く。
半歩の読み違いで、曲がらないか、俺が牙に乗るかの、どちらかになる。
河原で七十回死んで買った半歩を、今日は、猪の牙の前で使う。
木剣の二人がかりと、生きた牙とでは、恐怖の重さが違う。
だが、恐怖の置き場所も、河原で覚えてきた。
恐怖は、消さない。
消さずに、足の外へ置く。
一度目の突進。
旗。
半歩。
雄の巨体が、わずかに逸れて、盾持ちの構えのど真ん中へ入った。
受けた盾が、軋む。
槍が、肩口に立ち、弓が二本、続けて刺さる。
それでも、雄は止まらない。
肩に槍が立ち、脇腹に矢が刺さっても、突進の勢いは、半分も落ちない。
これが、大牙猪だ。
一撃で急所を断てなければ、何合でも突っ込んでくる。
カイは、これを一人で、正面から獲った。
あいつの速さと才が、どれほどのものか、いま目の前で分かった。
俺には、正面から獲る速さはない。
だから、六人で、削る。
◇ ◇ ◇
二度目、三度目。
俺は旗を振っては、半歩ずらす。
そのたびに、槍と弓が重なっていく。
一撃で仕留める獣ではない。
重ねて、削って、倒す獣だ。
隊の戦いは、俺の稼業と、同じ形をしていた。
一発の才ではなく、手数で倒す。
四度目の突進の途中で、ガッシュの斧が、首の付け根に落ちた。
斜面が、静かになった。
地面の揺れが、止まる。
六人の荒い息だけが、倒木の間に残った。
誰も、すぐには動かなかった。
巨体が本当に息絶えたのを、みなが目で確かめている。
大牙猪は、倒れてから起き上がって、人を薙ぐことがある。
ガッシュが斧を握り直したまま、しばらく骸を見つめて、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「終わりだ」
その一言で、六人が、ようやく息をついた。
誰の口からも、勝ち鬨は上がらなかった。
大物を討った後の隊は、いつも静かなのだと、あとで盾持ちが教えてくれた。
騒ぐのは、まだ危うさの分からない、若い隊だけだ。
俺の旗布は、汗と泥で、赤が黒く沈んでいた。
◇ ◇ ◇
解体しながら、俺は自分の掌を見た。
旗布を握っていただけの、掌だ。
俺の剣は、一度も抜かれていない。
それでいて、この巨体は、俺の半歩がなければ、誰かを轢いていた。
隊の戦いというのは、こういうものだ。
誰かが仕留め、誰かが導き、誰かが受ける。
仕留めた者だけが、手柄の顔をするのではない。
二年前、荷持ちで護衛を眺めた時、俺は仕留める者だけを見ていた。
剣を抜き、敵を落とす者が、いちばん強いのだと思っていた。
だが、この隊では、盾持ちが受けなければ、斧は届かない。
弓が刺さなければ、獣は止まらない。
俺が半歩曲げなければ、盾持ちは正面を取れない。
誰か一人が欠ければ、この番いは討てなかった。
強さは、一人の腕の中にあるのではない。
五人の役目が、噛み合った場所に、ある。
頭では、二年前から知っていた。
体で知ったのは、たぶん今日が、初めてだ。
俺の半歩は、剣の一撃と、同じ重さで、この獣を倒した。
光らない役目にも、命の重さがある。
◇ ◇ ◇
夜、火の番をしながら、それでも俺は数えていた。
ガッシュの斧の一撃と、俺の全力の一撃の、重さの差。
埋まらない差では、ない。
埋め方が、違うだけだ。
斧の重さは、体の才だ。
生まれ持った、腕の太さと、背の高さ。
俺の道は、当てどころの精度だ。
同じ首の付け根でも、骨の隙間の一寸に届けば、重さは三割で済む。
斧が骨を断ち割るなら、俺は骨の隙間を、糸のように縫う。
三割の力で、七割の仕事をする。
それが、才のない体で、大物の首に届く道だった。
いつか、一人で大牙猪の前に立つ日が来るとしたら。
その日、俺はガッシュの斧を持っていない。
持っているのは、当てどころの、一寸だけだ。
骨と骨の隙間。腱の走る筋。血の集まる管。
力で断てないなら、通す場所を、糸のように細くする。
薪の節を、脇から割る稽古。
牙犬の首筋を、すれ違いに斬る型。
流しの、欠けない刃。
どれもが、いつか、この一寸の宿題に、梁を渡すだろう。
まだ、届かない。
届かないが、道の先に、その一撃がある。
だから、その一寸を、いまから鍛える。
◇ ◇ ◇
帳面に書く。
大牙猪、六人で一頭。
俺の取り分、半歩と、一寸の宿題。
半歩は、今日使った。使って、減っていない。
一寸の宿題は、これから埋める。
斧が間に合わない時、一人で最後まで届く一寸。
その宿題を、俺は帳面の先の頁へ、静かに書き移した。
隊の五人目は、まだ半分だ。
半分の立場で、大物の首の落とし方を、目の前で見た。
見たものは、消えない。
ガッシュの斧が、どの角度で、どの深さに入ったか。
それも、当てどころの一寸の、教材になる。
夏の一夜が、俺の帳面に、いくつもの一行を足した。
半歩、ひとつ。
隊の噛み合わせ、ひとつ。
斧の入る角度、ひとつ。
そして、一人で最後まで届く一寸、という宿題が、ひとつ。
どれも、光らない。
どれも、いつか命を拾う。




