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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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33話 三段目の森

灰羽の五人目としての初仕事は、西の森の四泊五日だった。


半分の五人目に、初めて声がかかったのだ。


依頼は、二枚重ねだった。


奥でしか採れない蛍茸の、大口納品。


その採り場の周りに増えたという、獣の巣の調査。


銅札の隊が、ちょうどいい。


地味で、日数の食う紙だ。


半分の五人目に、季節が最初に振ってきたのが、この紙だった。


派手さはないが、こういう紙にこそ、得るものが多い。


蛍茸は、闇の中でだけ青く光る茸だ。


薬にも、灯りの油の足しにもなるので、都の商家が高く買う。


だが、光る茸は、森のいちばん暗い場所にしか生えない。


暗い場所は、太い獣の縄張りと、たいてい重なる。


だから、蛍茸の依頼には、獣の調査がついて回る。


茸を採りに行くついでに、その先の脅威を数えて帰る。


二枚重ねの紙は、そういう理屈で組まれていた。


俺は、出立の前に、二年前の森の帳面を読み返した。


荷持ちで入った時に、隅から写した護衛たちの動きだ。


あの頃の帳面が、今日の隊列の右で、そのまま下敷きになる。


◇ ◇ ◇


二年前、俺は荷持ちで、この森の奥へ入った。


今度は、隊列の右で歩いた。


同じ森の、同じ道だ。


だが、見える景色が、まるで違った。


二年前は、護衛の背中を見上げて歩いた。


今日は、自分が守る側の目で、藪を見ている。


同じ道を、違う高さから歩く。


その高さの差が、二年ぶんの段だった。


飛ばした段は、ひとつもない。


荷持ちから隊列の右まで、一段ずつ、埋めて登ってきた道だ。


◇ ◇ ◇


三日目、俺たちは、さらにその奥へ入った。


木の幹が、城の柱ほどもある。


下草の絶えた、暗い区画だ。


ガッシュの言い方を借りれば、森の三段目。


浅場が池で、奥が海なら、ここは海の沖だった。


音の数が、また違う。


浅場では、鳥が鳴き、風が枝を鳴らした。


沖では、その音が、ぐっと減る。


減った音の底に、別の何かが沈んでいる。


獣道の刻まれ方も、違った。


浅場の獣道は、細く、迷い、枝分かれする。


沖の獣道は、太く、まっすぐで、迷わない。


太い体が、毎日同じ道を、無精に通った跡だ。


獣は、強いほど、無精になる。


弱い獣は、敵を警戒して、道を変え、跡を消す。


強い獣は、変える必要がない。


誰も襲ってこないから、毎日同じ道を、堂々と歩く。


その堂々とした跡が、こちらに待ち伏せの場所を教えてくれる。


強さは、油断を生む。


油断は、跡になる。


跡は、狩る側の帳面になる。


カイのような強さにも、いつか同じことが起きるのだろうか、と、ふと思った。


速く登った者は、警戒を忘れる。


忘れた警戒の分だけ、跡が残る。


だが、それはいまの俺には、遠すぎる話だった。


何より、匂いの層が、違った。


土と苔の匂いの下に、太い獣の匂いが、ずっと敷いてある。


鼻の奥に残る、獣脂の匂い。


森の当たり前が、ここでは別の当たり前に、入れ替わっていた。


◇ ◇ ◇


「ここからは、駆除じゃねえ」


先頭のガッシュが、声を落とした。


「調査だ。見て、数えて、帰る。それだけだ」


見て、数えて、帰る。


俺の得意な仕事だった。


若い隊なら、大牙猪の巣を見つけた時点で、腕が鳴るだろう。


カイが一人で仕留めた獣だ。番いを二頭獲れば、大した手柄になる。


だが、ガッシュは、そういう獲り方をしない。


調査の紙で駆除に踏み込めば、備えのない戦いになる。


備えのない戦いは、背伸びだ。


背伸びした隊から、順に欠ける。


その理屈を、この隊の掟が、そのまま体で守っていた。


列を離れるな。勝手に戦うな。荷を捨てるな。


三つの掟の全部が、今日は「数えて帰れ」の一言に、集まっていた。


戦わずに数える夜は、兎場の見張りから、ずっと重ねてきた。


巣は、あった。


岩のうろを掘り広げた、大きな穴だ。


入り口の泥に、割れた蹄の跡が、幾つも重なっていた。


猪だ。


ただし、蹄の幅が、俺の知る猪の、倍ある。


盾持ちが、穴の周りの木を指した。


幹の皮が、俺の腰より高い場所で、牙に抉られている。


牙を研いだ跡だ。


あの高さに牙が届く獣が、この穴に住んでいる。


俺は、その抉れた幹に、そっと手を当てた。


牙の跡は、深く、鋭く、木の芯まで達している。


この牙が、人の胴を薙げば、盾ごと持っていかれる。


二年前、カイがこれを一人で獲ったと聞いた時、俺は板に残す紙だと思った。


いま、その獣の家の前に立って、あの判断は正しかったと、改めて思う。


俺なら、一人では、この幹の傷を見た時点で退がる。


退がることは、恥ではない。


背伸びをしない、その一点が、俺を割り算の分母に残してきた。


大牙猪。


カイが一人で仕留めたという、あの獣の同類が、番いで、ここに住み着いている。


◇ ◇ ◇


俺の仕事は、数えることだった。


蹄の数。


糞の新しさ。


穴からの獣道が、伸びる先。


蹄の跡は、大きいのが二組と、小さいのが幾つか。


番いと、春に生まれた子だ。


糞は、新しいのと古いのが、層になっている。


この穴に、長く居着いている証だった。


獣道は、二本。


一本は水場へ。もう一本は、蛍茸の採り場のほうへ、まっすぐ伸びていた。


採り場を荒らしているのは、この番いだ。


夜の見張りでは、遠くで木の折れる音を、三度数えた。


重い足が、湿った土を踏む、腹に響く歩みも数えた。


一歩の間隔が、俺の歩幅の、倍近い。


その一歩に、体の重さの全部が乗っている。


音の間隔から、歩みの速さを測る。


速さが分かれば、突進の始まりから、盾に届くまでの間が読める。


その間が、半歩を差し込む隙になる。


まだ夏は先だが、俺はもう、夏の戦いの下ごしらえを始めていた。


木の折れる音が、右から左へ流れた。


番いの雄が、水場から巣へ帰る道だ。


帰る道の途中に、倒木の多い斜面がある。


あの斜面なら、突進の速さが殺せる。


戦う場所の当たりまで、俺は見張りの夜のうちに、つけておいた。


その一歩ずつを、俺は暗がりの中で、帳面へ刻んだ。


戦わない夜の帳面が、戦う日の生き死にを、決める。


それは、泥の底だろうと、森の沖だろうと、たぶん同じ理屈だ。


数えたものは、消えない。


俺の体質は、数えた足音の間隔も、匂いの層も、忘れさせない。


消えないものが、夏の戦いで、誰かの命を拾う。


◇ ◇ ◇


五日目、俺たちは蛍茸を背負い、数えたものを全部持って、森を出た。


背負った蛍茸は、闇の中で、淡く青く光った。


沖の暗がりで採った光を、明るい浅場へ運び出す。


妙な心持ちのする、帰り道だった。


いちばん暗い場所でしか光らない茸を、明るい場所へ運ぶ。


暗い場所で鍛えたものだけが、実戦の明るみで光る。


俺の稽古と、どこか似ていた。


人目につかない河原や庭や兎場で鍛えたものが、いざという明るみで、命を拾う。


暗がりの茸を背負いながら、俺はそんなことを考えた。


組合に出した調査の紙には、ガッシュの見立てが、一行で書いてある。


番いと、春の子連れ。


夏までに討たねば、秋の採り場は全滅。


つまり、夏に戻って来るということだ。


今度は、調査ではなく。


俺は、帳面に数えた足音を、もう一度読み返した。


あの腹に響く一歩を、夏には、目の前で受けることになる。


受ける前に、数えられるだけ数えておく。


帰り道、盾持ちが並んで歩きながら、ぽつりと言った。


「おまえ、見張りの夜が長いな。半分は寝ろよ」


「数えてるほうが、性に合ってて」


「変な奴だ。……だが、そういう奴が、隊を長生きさせる」


褒め言葉として、受け取っておいた。


二年前、荷台の隅で護衛を数えていた小僧が、いまは隊の見張りを数えている。


数える場所が、また一段、上がっただけだ。


やっていることは、村を出た日から、何ひとつ変わっていない。


それが、戦わない夜の、俺の仕事だった。

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