32話 柄までの道
ヨナ婆の庭の薪割りは、春になっても続いていた。
講習は冬で仕舞いになったが、薪と稽古の取引は、季節では切れなかった。
庭の楢の山は、冬より低くなっていた。
春の薪は、冬の薪より軽い。
乾いて、木目が素直になっている。
軽い薪を割りながら、俺は次の稽古を待った。
薪割りは、もう剣の軸の稽古として、体に馴染んでいた。
木目を読み、腰で落とす。
冬の初めは十本に一本しか素直に割れなかったのが、春には十本に八本、割れるようになった。
残りの二本は、節のある薪だ。
節は、獣でいう急所の裏だ。
素直に当たらない場所は、当たり方を変える。
節を避けて、脇から刃を入れる。
薪の一本一本が、当てどころを読む稽古になった。
冬の間に、光の芯は、指の先まで通るようになっていた。
人差し指の第二関節の詰まりも、中指の付け根の詰まりも、ひとつずつ抜けた。
抜けた道は、二度と塞がらない。
掌から指先までの水路は、もう俺の体の一部だった。
次は、道具だ。
婆さんは、俺の木剣を顎で指して、身も蓋もない、いつもの調子で言った。
「掌から先は、体の外だ」
「体の外に魔力を通すのは、川に橋を架けるのと同じでね。流れの続きのつもりでいると、落ちる」
◇ ◇ ◇
やってみて、すぐに分かった。
指の先までは、水路だった。
体の内側だから、光は素直に流れる。
木剣の柄に触れた瞬間、水路が切れる。
ぷつり、と、指の腹の先で光が止まる。
柄は、俺ではないからだ。
俺の体は、俺の続きだと知っている。
柄は、知らない。
木の棒を、俺の続きだと体に信じ込ませる。
その感覚が、どうにも掴めない。
握って、力を込めても、光は柄へ渡らない。
力の話ではないのだ、とすぐに分かった。
力で押し込もうとするほど、光は指の先で固まった。
これは、灯りを覚えた時と、逆だった。
灯りは、掌に心を貼りつければ、点った。
貼りつける先が、自分の掌だったからだ。
柄は、心を貼りつけようとしても、滑る。
自分でないものには、心が乗らない。
乗せ方を、知らないのだ。
村を出てからの三年で、俺は初めて、まったく新しい種類の壁に当たった。
剣も灯りも、突き詰めれば「自分を鍛える」話だった。
柄への流しは、「自分でないものと、ひとつになる」話だ。
やり方が、根っこから違う。
違うから、遅い。
遅いのは、いつものことだった。
十日やって、光は柄の手前で止まったままだった。
十日。
人なら、三日で渡る橋かもしれない。
だが、俺の十日は、俺の速さだ。
速さを恨んでも、皿にはならない。
◇ ◇ ◇
「詰まったね」
と、婆さんは嬉しそうに言った。
「あんたの詰まりは、上等の詰まりだ。ゆっくりおやり」
俺の詰まりは、一生に一度しか起きない。
だから、婆さんは詰まりを喜ぶ。
一度きりの詰まりは、一度きりの教材だ。
柄の手前で止まった光の、その止まり方を、俺は掌の感触ごと帳面に写した。
どこで止まり、どう固まり、指の腹がどう熱を持つか。
次に別の道具へ通す日、この十日が効く。
詰まりの間、婆さんは講義をくれた。
武器に魔力を通して、何になるのか、という話だ。
「派手なことは、何も起きないよ」
「火も出ないし、光りもしない」
「通った剣はね、欠けない。震えない。それだけだ」
欠けない。
震えない。
冬に「通せるようになってから教える」と言われた効能が、いま、俺の前に置かれた。
それだけか、と思う者もいるだろう。
俺は、そうは思わなかった。
「それだけ、が どれほどのものか」
婆さんは、皺の底の目を細めた。
「刃こぼれ一つで人が死ぬ場所にいる人間なら、いつか分かる」
◇ ◇ ◇
欠けない。
震えない。
派手さの欠片もない効能が、俺には、ご馳走に聞こえた。
俺の稼業の生き死には、いつも地味な場所で決まってきた。
足の置き場所。
恐怖の置き場所。
半歩の外し。三つ数える残心。
泥の底を訊く足。雨音の穴を聴く耳。
どれも、光らない。どれも、命を拾ってきた。
なら、剣の頼れる場所が一寸増えるのは、命の置き場所が一寸増えるのと、同じことだ。
牙犬の日、俺の短剣は、四頭目まで届かなかった。
もしあの時、刃が欠けていたら。
もし手元が震えていたら。
二寸の傷は、二寸では済まなかった。
カイのような天才には、この魔法は要らないのかもしれない。
速さで、刃こぼれの前に決着をつけてしまうからだ。
だが、俺は速くない。
速くない剣は、何合も打ち合う。
打ち合うほど、刃は欠け、手は疲れて震える。
欠けと震えは、遅い剣士の、いちばんの敵だ。
その敵を消す魔法が、遅い剣士のためにある。
まるで、俺のために用意されたような効能だった。
欠けない刃と、震えない手。
それは、俺のような男にこそ、いちばん要る魔法だった。
派手な炎は、要らない。
要るのは、命の置き場所の、一寸の余白だ。
◇ ◇ ◇
柄の手前の詰まりは、二十日目の晩に、ふいに抜けた。
薪割りを終えて、汗の引かない掌で、木剣を握り直した時だった。
握り込んだ掌と、柄の境目が、汗で馴染んだ瞬間。
その境目を、消そうとしていたのが、間違いだった。
境目は、消えない。
柄は、どこまでいっても俺ではない。
消すのではなく、境目ごと、流れに巻き込む。
俺でないものを、俺でないまま、流れの中へ引き入れる。
剣を、体の一部にしようとするから、渡らない。
剣は、剣のまま、流れに乗せればよかった。
境目を認めた瞬間に、境目が通り道になる。
消そうとしていた壁が、消そうとするのをやめた途端、扉になった。
言葉にすれば、それだけのことだ。
それだけのことに、二十日。
相変わらず、俺の吸い込みは遅い。
だが、抜けた道は、もう二度と塞がらない。
二十日かけて渡った橋は、明日からは、渡るだけの橋になる。
抜けた晩、俺は木剣を握ったまま、しばらく動かなかった。
柄の手前で二十日止まっていた光が、ふっと、木の中へ染み込んだ。
手応えは、何もなかった。
剣が光ったわけでも、震えたわけでもない。
ただ、掌の先の感覚が、柄の少し先まで、伸びた気がした。
木の棒の中に、俺の指が一本、増えたような感覚だ。
これが、体の外へ魔力を通すということか、と思った。
派手さは、本当に、欠片もない。
だが、木の棒が俺の続きになった、その一寸の実感は、確かにあった。
婆さんは、それを見て、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「渡ったね。あとは、切っ先まで同じことだ」
あとは、と婆さんは言うが、その「あと」が長い。
柄の手前までで、冬をひとつ使った。
柄の中ほどまでで、春をひとつ使うだろう。
それでいい。
急いで渡した橋は、急いで流される。
同じことを、あと何十日、繰り返すのだろう。
繰り返すたびに、遅い、と自分で笑う。
笑いながら、鍛える。
それが、俺の稽古の形だった。
◇ ◇ ◇
光は、柄の中ほどまで通って、そこでまた止まった。
柄の半ばに、次の詰まりがあった。
けっこう。
詰まりの数だけ、俺の橋は頑丈になる。
人の橋は、何度も架けては流され、架けては流される。
俺の橋は、一度架かれば、流されない。
だから、一本ずつ、確かめて架ける。
柄の中ほどから、刃元まで。
刃元から、切っ先まで。
その道のりに、あといくつ詰まりがあるかは、知らない。
知らないが、ひとつずつ抜けば、いつか切っ先まで光は届く。
届いた日、俺の剣は、欠けなくなる。
その日を、俺は帳面の先の頁に、また一行、書き足した。
予定ではない。
剣に光が通る日まで、あと何年かかるかは、分からない。
だが、かかる年月は、俺のいちばん得意な通貨だ。
欠けない剣は、遠い。
遠いが、確かに、道の先にある。
鍛えれば必ず届く、という、勘定だ。




