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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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30話 二度目の冬

二度目の冬が来た。


ドルンの冬は、村の冬より厳しい。


石畳が凍り、井戸の縁に氷が張り、朝は吐く息が白く固まる。


だが、二度目ともなれば、寒さの底が読める。


どこで足を滑らせ、どの路地に風が巻くか。


去年の冬に一度通った道は、今年はもう、当たり前の道だった。


二度目の冬は、一度目より静かで、一度目より忙しかった。


静かなのは、俺の内側だ。


去年の冬は、帳尻に負けて村へ帰るかどうかの瀬戸際で、心が騒いでいた。


今年は、騒がない。


忙しいのは、外側だ。


銅札には、冬の仕事が少しある。


雪道の、急ぎ文の届け。


冬ごもり前に討ち漏らした、駆除の残り。


屋根の雪下ろしみたいな、札の要らない手伝いまで含めれば、飢えない程度の実入りは立つ。


急ぎ文の届けは、雪道の足の稽古になった。


雪の下の、堅い地面と、隠れた窪み。


足の裏で雪を透かして、下の地面を読む。


泥を読んだあの稽古が、雪でも効いた。


討ち漏らしの駆除は、痩せて気の立った獣が多い。


冬の獣は、腹を空かせて、いつもより一手、無理をする。


その無理を、待って外す。


冬は、獣も背伸びをする季節だった。


去年、帳尻に負けて村へ帰る背中を、何人も数えた。


あの背中は、腕が足りなかったのではない。


冬を越すだけの、蓄えが足りなかったのだ。


夏に稼いだ銭を、秋に使い切って、冬に詰まる。


俺は、夏の兎場の銭を、冬のために半分残しておいた。


残す癖も、村の農家で覚えた、消えない性分だった。


その身としては、上出来の冬だった。


冬を越せること自体が、この稼業では一つの腕だ。


割り算の分母に、今年も残った。


◇ ◇ ◇


年の暮れの、雪の空き地で、俺は一年の棚卸しをした。


去年の暮れ、俺は木札だった。


灯りは、針の先。


兎の数だけが、取り柄だった。


今年の暮れ、札は銅。


灯りは豆粒のまま、十を数えても消えない。


光の芯は、中指の先まで通った。


帳面には、山犬と牙犬が並ぶ。


二対一で死ぬ数は、十三から五まで減った。


爺への手紙は、二往復した。


二通目の返事には、「字が読める」とだけ書いてあった。


一通目の時、爺は字のことに触れなかった。


触れなかったのは、読めなかったからだろう。


二通目で「読める」と書いたのは、百字の日課が、ひと冬で効いた証だ。


剣でも灯りでもない塔が、爺に一行の返事を書かせた。


爺なりの褒め言葉だと、思うことにしている。


一年で、これだけの段を上った。


どれも、派手ではない。


どれも、崩れない。


◇ ◇ ◇


カイは、秋の終わりに大牙猪を一人で仕留めた。


銀札の推薦が出たと聞いた。


最短記録を、またひとつ塗り替えるのだろう。


あの掲示板で、いちばん血の匂いのする紙を、あいつは一人で納めた。


俺が板に残した紙を、あいつは剥がして、納めて、銀札の推薦まで手に入れた。


同じ紙の前で、正反対の手が伸びた、あの秋から、まだ数月だ。


その数月で、あいつは一段、上の世界へ行く。


俺は、二対一を八つ減らし、灯りを七つ伸ばした。


どちらも、一年ぶんの成果だ。


あいつの一段は、目に見える。


俺の一段は、雪の沈む深さにしか出ない。


先に行く奴は、先に行く。


見送る俺の足元で、雪が去年より浅く沈む。


同じ雪でも、沈む深さが、去年と違う。


去年の俺は、同じ空き地で、同じ雪に、もっと深く沈んでいた。


体は、一年で重くなったわけではない。


軽くなったのは、足の運びのほうだ。


余分な力が抜けて、体重が地に素直に落ちる。


だから、同じ体重でも、雪の沈みが浅くなる。


足の運びが、去年より軽い。


軸が、去年より据わっている。


この体は今年も、段をひとつも下りていない。


雪の深さが、それを教えてくれた。


俺は、カイの背中を測る物差しを、そっとしまった。


測るのは、他人の速さではない。


去年の自分の、雪の沈む深さだ。


◇ ◇ ◇


年の変わる晩は、納屋の二階で迎えた。


階下からは、一家の笑い声。


毛布は、二枚。


麦がゆの、お代わり。


去年、針の先が初めて点った夜と、同じ場所だ。


去年のこの場所で、俺は帳尻に負けかけていた。


村へ帰る同期の背中を数えて、自分もそうなるかと、心が揺れた夜だ。


あの夜の俺に、いまの棚卸しを見せてやりたい。


銅札。灯り十。流し指先。二対一、五。


揺れなくていい、と、去年の俺に言ってやれる。


同じ場所で、俺は掌の上に豆粒を点し、消さないまま十を数えた。


行灯を消し、暗がりの中で、豆粒だけを頼りに数える。


一、二、三。


この春、婆さんに数える稽古を教わった時は、三で消えた。


四、五、六、七。


息を細くして、掌に心を貼りつける。


八、九、十。


十一で、消えた。


十一は、消えない十一だ。


来年の俺は、十一から始める。


去年のこの夜、俺は一を数えるのがやっとだった。


一年で、十まで来た。


遅い。


だが、一度も後ろへは戻っていない。


◇ ◇ ◇


いつもの儀式をする。


今日得たものを、数える。


薪が、四十。


ヨナ婆の庭で、今日割った本数だ。


右肩の、心地よい張りが、その四十を体で覚えている。


字が、百。


寝る前の日課の、百字。


爺に読める字が、また一日ぶん、皿へ落ちた。


豆粒が、ひとつ。


消えないまま、十まで数えられる豆粒が、ひとつ。


どれも、小さい。


小さいが、今日ぶんは、確かに重ねた。


身につけたものは、明日の朝も、そこにある。


それを確かめてから眠るのが、俺の毎晩の儀式だった。


それから、去年と同じ言葉を、ひとつ。


焦らない。


休まない。


死ぬまで重ねる。


去年、この納屋で唱えた言葉と、一字も違わない。


一年で、俺の周りは変わった。


ロイクは北の山へ、ダンは王都へ。


カイは銀札へ、婆さんは講習から庭へ。


みんな、それぞれの場所へ動いた。


俺だけが、同じ納屋の、同じ二階で、同じ言葉を唱えている。


動かないことが、俺の動き方だった。


同じ言葉で年を越せることが、たぶん俺のいちばんの財産だった。


言葉が変わらないのは、志が揺れていない証だ。


地力の塔は、飛び道具では高くならない。


一足飛びに高くする道具は、この世にない。


同じ言葉の下に、同じ毎日を、黙って重ね続けた奴だけが、高くなる。


この一年で、俺はそれを、体で確かめた。


雪の沈む深さが、去年より浅い。


それは、飛び道具では起きない。


三百六十五日、同じ言葉の下で素振りを続けた足だけが、雪を浅くする。


カイは、速く高くなる。


俺は、遅く、崩れずに高くなる。


どちらが先に頂へ着くかは、まだ誰にも分からない。


だが、途中で下りないのは、俺のほうだ。


◇ ◇ ◇


階下の笑い声が、ひとつ大きくなって、年が変わった。


新しい年が、俺の帳面の、新しい頁を開く。


その頁の一行目に、俺は何を書くだろう。


たぶん、去年の一行目と、同じことを書く。


今日、素振り。今日、灯り。今日、薪。


変わらない一行目を、また一年、書き足す。


三度目の春が来たら、森の奥へ、もう三段。


二対一を、五から三へ。


流しを、指先から柄へ。


灯りの十を、二十へ。


やることは、もう帳面に並んでいる。


順番も、決まっている。


一足飛びに全部やろうとして、どれも中途半端になる愚は、犯さない。


二対一を三へ減らすのは、河原の続き。


流しを柄へ通すのは、婆さんの庭の続き。


灯りの十を二十へ伸ばすのは、講習のない冬の、自分ひとりの稽古。


どれも、去年から続いている稽古の、ただの続きだ。


新しいことは、何もしない。


続けることだけを、続ける。


帳面の白い頁は、まだ厚い。


厚い白さは、恐れではない。


これから埋める、楽しみのぶんだ。


まだ歩いていない日々の、ぶんだけの白さだ。


その白を、一日一行ずつ、埋めていく。


埋めた頁は、二度と白には戻らない。


それが、俺の一年であり、俺の十年であり、俺の一生だった。


俺の札は木でも銅でもなく、毎日だ。

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