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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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29話 薪割りの取引

冬の入りの講習が、婆さんの最後の講習だった。


「夜の外歩きは今年で仕舞いだ。あたしの膝が、あたしの回路より先に細っちまってね」


膝、と聞いて、爺を思った。


俺の周りの、灯りを見る目と、剣を見る目が、揃って膝から傾いていく。


片付けの後、婆さんは俺だけを残した。


若い連中の足音が路地の先へ消えて、行灯ひとつの部屋に、また二人きりになった。


行灯の火で、皺の底の目が、こちらを量っている。


「あんた、名は」


「ルドです」


「あたしはヨナ」


二年通って、名を訊かれたのは初めてだった。


訊くということは、覚える気があるということだ。


最後の夜に、婆さんは俺の名を覚える気になったらしい。


二年、俺は「銅札の変わり者」で通っていた。


名を訊かないのは、覚えるほどの関わりを、持たないという線引きだ。


術士は、教え子と深く関わらない。


関われば、詮索したくなる。詮索は、礼儀に反する。


だから婆さんは、わざと名を訊かずにいた。


その線を、最後の夜に、婆さんのほうから越えてきた。


◇ ◇ ◇


「……ルド、あんたの回路は妙だよ」


ヨナ婆は、俺の掌の豆粒を見たまま言った。


「細いくせに、頑固だ。一度開いた道が、絶対に塞がらない」


背筋が、すっと冷えた。


「半端に開いて半端に細るのが、人の回路ってもんだ。五十年この稼業をやって、あんたのは初めて見る質だ」


来た、と思った。


いつか、この目に見抜かれる日が来るとは思っていた。


その日が、婆さんの最後の夜に来た。


剣の伸びは、稽古で説明がつく。


だが回路は、剣よりも正直だ。


開いた道が塞がらないというのは、努力では起こらない。


誰の回路も、使わなければ細り、時が経てば塞がる。


俺のは、塞がらない。


バレンに剣の妙を見抜かれ、ヨナ婆に回路の妙を見抜かれた。


見る目のある者の前では、俺の体質は、遅かれ早かれ露れる。


露れることは、もう恐れないことにした。


恐れる代わりに、露れた相手が、口の堅い側かどうかを見る。


逃げ場を探す俺の顔を、ヨナ婆は手で払った。


「事情は聞かないよ。術士は他人の回路の詮索をしない。それが礼儀だ」


払われて、俺は口をつぐんだ。


訊かれれば、嘘をつかねばならない。


訊かないでくれることが、いちばんの助けだった。


それから婆さんは、身も蓋もない声で言った。


「うちの薪を割りな。割った分だけ教えてやる。弟子はもう取らないと決めてるから、これは取引だ」


弟子ではなく、取引。


情ではなく、薪と稽古の交換。


その言い方が、かえってありがたかった。


情でもらうものは、返せない。


薪でなら、俺にも返せる。


◇ ◇ ◇


こうして俺の冬に、薪割りが加わった。


ヨナ婆の家は、組合の裏手の路地の奥だ。


庭に、硬い楢の玉切りが積んである。


斧を振るのは、初めてだった。


だが、まるきりの初めてではなかった。


芯の出し方は、ガッシュの斧を横目で写し続けた蓄えがある。


初めて斧を握った日、俺はまず、振らずに眺めた。


ガッシュの斧は、大牙猪の突進を、当てどころの一寸でいなす斧だ。


あの一寸を、薪相手に写せないかと考えた。


楢の玉切りには、木目がある。


まっすぐな筋と、ねじれた筋。


節のある場所と、素直な場所。


剣が獣の急所を読むように、斧は木の素直な筋を読む。


読んでから、振り上げて、玉切りの木目のいちばん素直な筋を狙い、腰で落とす。


最初の十本は、跳ね返された。


木目を外して、力任せに振っていたからだ。


木目を読んで、素直な筋へ刃を入れると、楢は気持ちよく割れた。


剣と、同じだった。


力任せは、木にも獣にも、跳ね返される。


読んでから当てれば、細い腕でも、太い薪が割れる。


当てどころを読めば、力の差は一寸で埋まる。


薪割りは、剣の軸の稽古になった。


ついでに、婆さんの冬支度になった。


割り終える頃には、湯と稽古が待っている。


一石で、三鳥。


こんなにいい取引は、ドルンに来て初めてだ。


銭を払う稽古は、河原の二対一で知った。


銭を払わない稽古は、こうやって、手間で払う。


薪を割る手間が、そのまま稽古の月謝になる。


しかも、割った薪は婆さんの冬を温め、俺の軸を鍛える。


払ったものが、二重にも三重にも働く取引だ。


銭は、払えば消える。


手間は、払っても俺の腕に残る。


消えない通貨で払える取引を、俺はいちばん好んだ。


◇ ◇ ◇


教わったのは、流し。


灯りを掌に点したまま、光の芯を、指の先へ運ぶ。


回路を、掌の先へ伸ばす稽古だ。


これができて初めて、道具に魔力を通す入り口に立てるのだという。


剣に通す日も、いつかは来るということだ。


まだ、ずっと先の話だ。


剣に灯りを通せば、何が起きるのか。


訊くと、ヨナ婆は「そいつは、通せるようになってから教える」と言った。


派手なものを期待するな、とだけ、皺の底の目が言っていた。


あんたの質に合った効能だよ、と。


地味な効能なのだろう、と俺は当たりをつけた。


地味なら、なおいい。


派手なものは、たいてい俺の稽古には向かない。


だが、先の段の一段目が、いま掌の上にある。


俺の光の芯は、人差し指の第二関節で、三日詰まった。


掌までは行く。


指の付け根までも、行く。


第二関節で、ぷつりと途切れる。


三日、そこから先へ、光は進まなかった。


「詰まった場所を、全部覚えときな」


ヨナ婆は、急かさなかった。


「あんたの詰まりは、一生に一度しか起きないんだからね」


その一言に、俺は手を止めた。


人の回路なら、詰まっては通り、通っては詰まる。


同じ場所で、何度でも詰まる。


だが、俺の回路は、一度通れば二度と詰まらない。


この第二関節の詰まりは、俺の一生で、今日が最初で最後だ。


だから、詰まりの感触を、全部覚える。


どこが重く、どこが冷たく、どう抜けたか。


一生に一度の詰まりは、一生に一度の教材だった。


俺は、その三日を惜しまなかった。


人なら、詰まりを何度も繰り返して、少しずつ慣れる。


慣れて、いつの間にか抜けている。


俺には、その「いつの間にか」がない。


抜けたら、二度と詰まらない。


だから、抜ける前の三日を、掌の感触ごと帳面に写した。


第二関節が、熱を持つ感じ。


その熱が、すっと指の腹へ流れた、あの一瞬。


抜けた瞬間を覚えておけば、次の関節の詰まりで、同じ抜き方が試せる。


一度きりの詰まりを、次の詰まりの教材にする。


それが、俺の質にできる、たったひとつの近道だった。


◇ ◇ ◇


どこまで見抜かれているのか、もう考えないことにした。


この婆さんは、詮索をしない。


代わりに、俺の質にいちばん合う教え方だけを、静かに選んでくる。


一度で通る回路なら、詰まりを全部覚えろ、という教え方。


それは、俺の体質を知っていなければ、出てこない言葉だ。


知っていて、口にしない。


爺と同じ種類の目だった。


見抜いて、黙って、いちばん要る一言だけをくれる。


そういう目を持った人に、俺は二人、出会えた。


薪を割る。


指を詰まらせる。


一寸ずつ、進む。


冬の日課が、また膨らんだ。


膨らんだぶんだけ、俺の塔は、また一段高くなる。


講習は、今年で仕舞い。


だが、薪割りは、これから始まる。


組合の講習を失って、婆さんの庭を得た。


ひとつの稽古の場が閉じれば、別の稽古の場が開く。


場所が変わるだけだ、と、また誰かの口癖が胸で鳴った。


路地の奥の楢の匂いを、俺は帳面に一行、書き足した。


新しい稽古の場、ひとつ。


教わる人、ひとり。


薪の山は、まだ庭に高く積んである。


あの山を割り終える頃、俺の流しは、指の先まで通っているだろうか。


通っていなくてもいい。


通るまで、割ればいい。


薪は、いくらでもある。


冬は、まだ長い。

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