28 爺の字
街道便が、爺の手紙を運んできた。
村を出て、初めて届いた爺の字だ。
封を切る前に、俺はしばらく、その厚みを手で確かめた。
薄い。二枚か、三枚。
爺の言葉は、いつも短い。短いから、削れずに芯だけが残る。
太くて、所々崩れて、それでいて妙に読みやすい字だった。
剣と同じだ。
飾りがなくて、芯が通っている。
字にまで、あの人の稽古が出ている。
納屋の二階の寝床で、俺は行灯を寄せて、何度も読んだ。
外は、初雪の前の、冷えた夜だった。
行灯の油は、宿代を削って買った安物だ。
その頼りない光の輪の中で、太い字が、揺れて見える。
前世でも、手紙をもらったことはあった。
だが、あの頃の便りは、たいてい用件だけだった。
金の話、日取りの話、断りの文句。
人が人へ、ただ生きているかを確かめるためだけに書いた手紙を、俺は久しぶりに手にしていた。
三十五年ぶんの人生で、こんな手紙は一通ももらわなかった。
今世の、まだ十六年ぶんの人生で、俺はそれを一通、もらった。
◇ ◇ ◇
銅、けっこう。
銅は錆びるが、おまえの毎日は錆びん。
その一行で、胸の底が、ひとつ温かくなった。
銅札は、放っておけば錆びる。
だが、毎日は錆びない。
俺の重ねた日数は、札の色とは関わりなく、そこにある。
爺は、俺のいちばん見てほしいところを、一行で撫でていった。
豆粒、けっこう。
豆は飯になる。
焦って皿から零すな。
豆粒の灯りのことだ。
村を出る前、掌の上の針の先を、爺にだけ見せた。
あれが豆粒になったと、手紙に書いた。
爺は、豆は飯になると返してきた。
小さくても、集めれば腹の足しになる。
焦って零せば、飯にもならない。
豆粒の灯りは、いまだに講習でいちばん遅い。
才のある子は、俺が二年かけた豆粒を、四月で越える。
それでも、爺は「けっこう」と書いた。
速さではなく、零していないことを、褒めた。
その一行が、講習の末席の二年を、まるごと肯定してくれた気がした。
零さずに貯めた豆は、いつか俺の飯になる。
爺がそう言うなら、そうなのだろう。
膝は雨に泣く。
年寄りは天気読みになる。
便利なもんだ。
膝の痛みを、天気の話にして笑い飛ばす。
あの人らしい書き方だった。
痛いとは、一言も書かない。
だが、書かないからこそ、俺には見えた。
左膝を庇って、囲炉裏端まで杖をつく、あの背中が。
俺が村を出た春より、膝は確実に悪くなっている。
天気読みになるほど、雨の前に泣くようになった膝だ。
同封する薬草を、俺はもう一束、増やすことにした。
効くかどうかは、分からない。
だが、山犬の護衛で稼いだ銭で買った、いちばんいい膝の薬草だ。
手紙に痛いと書かない人には、薬草で返すしかない。
◇ ◇ ◇
ダンが春に村を出た。
王都の兵団の募集に乗った。
あれは伸びるのが早い。
早いのはいいことだ。
早いだけなら、だが。
その一行の含みを、俺は何度も読み返した。
早いだけなら、八合目で止まる。
爺は、ダンにも同じ物差しを当てている。
バレンによろしくは言うな。
図に乗る。
爺とバレンの、古い連れの間合いが、その一行に透けていた。
便りは、それだけだった。
それだけで、腹一杯になった。
言葉の数ではない。
どの一行も、俺の毎日をちゃんと見て書かれていた。
◇ ◇ ◇
ダン。
六つの春から一度も勝てなかった、俺の物差しだ。
村の丘で、俺を四十六回転がした足。
村が、もう狭かったのだろう。
王都の兵団なら、才の壁は村の比ではない。
あいつはそこでも、駆け上がるはずだ。
駆け上がって、いつかどこかで、また俺の前に立つ日が来る。
その日の俺の高さは、その日までの毎日が決める。
あいつが王都で鍛える間、俺はドルンで鍛える。
同じ日数を、違う場所で。
物差しは、遠くにあるほど、測り甲斐があるというものだ。
近くにいれば、日々の差に一喜一憂する。
遠くにいれば、何年ぶんかをまとめて測れる。
次に会う日まで、俺は俺の段を、黙って上っておく。
村を出た日、ダンは見送りに来なかった。
あいつらしいと思った。
別れを惜しむより、次の稽古へ行く男だ。
俺も、惜しむより鍛える男でいる。
惜しむ時間があれば、素振りを一本増やす。
それが、あいつと俺の、言葉にしない約束のような気がした。
王都の兵団で、あいつがどんな壁に当たるのかは、知らない。
当たった壁の高さだけ、あいつは伸びる。
伸びた分だけ、次に会う日の物差しが、遠くなる。
遠い物差しは、俺の楽しみだ。
◇ ◇ ◇
返事を書こうとして、俺は半刻も唸った。
字が下手なのだ。
一字目の「銅」から、早速形が潰れた。
紙を一枚、無駄にした。
この体で字の稽古をしてこなかったつけが、こんなところで回ってくる。
前世の俺は、字が達者だった。
営業の書類を、何百枚と書いた手だ。
だが、その手は、駅の階段で止まった。
今世の手は、剣は握れても、筆はまだ握り慣れていない。
身につけたものは消えないが、身につけていないものは、前世ぶんも含めて、一切引き継げない。
字は、この体で一から覚えるしかない。
当たり前のことが、筆を持つと、急に重くのしかかった。
剣は鍛えた。灯りも鍛えた。
だが、字は一日もやっていない。
やっていないものは、出ない。
いつもの理屈が、筆の先で俺を笑っていた。
結局、書けたのは五行だった。
山犬六頭のこと。
二対一の稽古のこと。
灯りが三つ数えられること。
膝の薬草を同封すること。
ダンの話、承知、ということ。
五行のために、紙を三枚使った。
情けないが、これも今日の勘定だ。
書きながら、俺は爺の字を、隣に置いた。
真似ようとしたのではない。
あの太さの、芯の通し方を、盗もうとした。
筆を、剣のように握ってみる。
力を、指ではなく腰から通してみる。
すると、潰れていた「山」の字が、少しだけまっすぐ立った。
字も、軸で書くものらしい。
剣で覚えた軸が、思わぬところで、筆を助けた。
稽古は、字の塔にまで、梁を渡してくる。
薬草は、乾いた葉を油紙に包んで、手紙と一緒に束ねた。
膝に効くと聞いた葉と、傷に効くと聞いた葉。
傷の葉は、俺自身が牙犬の腕の傷で使って、効いたやつだ。
効くと確かめたものだけを、爺へ送る。
確かめていないものは、送らない。
それも、爺に教わった性分だった。
◇ ◇ ◇
書き終えてから、俺は日課をひとつ増やした。
寝る前に、帳面の隅へ百字。
剣にも魔力にも関わらない、ただ爺に読みやすい字で近況を書くためだけの、稽古だ。
悪くない。
塔は多いほうが、暮らしが立つ。
剣の塔。灯りの塔。護衛の塔。
その隣に、字の塔を一本、新しく建てる。
どれも、崩れずに残る塔だ。
塔が増えるほど、俺の暮らしは、足の置き場が増える。
剣で食えない日は、字で文を書いて糊口をしのげるかもしれない。
護衛の口がない冬は、灯りの講習で銅貨を稼げるかもしれない。
一本の塔に頼る暮らしは、その塔が折れたら終わる。
ロイクの右手が、それを教えてくれた。
だから俺は、細くてもいい、塔の数を増やす。
爺の手紙一通が、俺に新しい塔を一本、建てさせた。
百字目の字は、一字目より、少しだけましだった。
たった百字で、もう違いが出る。
俺の皿は、字も零さないらしい。
剣の伸びは、人の倍かかる。
灯りの伸びは、人の三倍かかる。
だが、字の伸びだけは、どうやら人並みに近い。
得意も不得意も、身につければ減らない。
その一点だけは、何を鍛えても変わらなかった。
次の手紙は、もう少し読みやすい字で書ける。
もらった手紙は、油紙に包んで、帳面の間に挟んだ。
銭は、使えば消える。
手紙は、消えない。
消えないものが、また一つ、俺の荷物に増えた。
爺が「字が下手になったな」と笑う顔を、勝手に思い浮かべて、俺は行灯を消した。




