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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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28/52

28 爺の字

街道便が、爺の手紙を運んできた。


村を出て、初めて届いた爺の字だ。


封を切る前に、俺はしばらく、その厚みを手で確かめた。


薄い。二枚か、三枚。


爺の言葉は、いつも短い。短いから、削れずに芯だけが残る。


太くて、所々崩れて、それでいて妙に読みやすい字だった。


剣と同じだ。


飾りがなくて、芯が通っている。


字にまで、あの人の稽古が出ている。


納屋の二階の寝床で、俺は行灯を寄せて、何度も読んだ。


外は、初雪の前の、冷えた夜だった。


行灯の油は、宿代を削って買った安物だ。


その頼りない光の輪の中で、太い字が、揺れて見える。


前世でも、手紙をもらったことはあった。


だが、あの頃の便りは、たいてい用件だけだった。


金の話、日取りの話、断りの文句。


人が人へ、ただ生きているかを確かめるためだけに書いた手紙を、俺は久しぶりに手にしていた。


三十五年ぶんの人生で、こんな手紙は一通ももらわなかった。


今世の、まだ十六年ぶんの人生で、俺はそれを一通、もらった。


◇ ◇ ◇


銅、けっこう。


銅は錆びるが、おまえの毎日は錆びん。


その一行で、胸の底が、ひとつ温かくなった。


銅札は、放っておけば錆びる。


だが、毎日は錆びない。


俺の重ねた日数は、札の色とは関わりなく、そこにある。


爺は、俺のいちばん見てほしいところを、一行で撫でていった。


豆粒、けっこう。


豆は飯になる。


焦って皿から零すな。


豆粒の灯りのことだ。


村を出る前、掌の上の針の先を、爺にだけ見せた。


あれが豆粒になったと、手紙に書いた。


爺は、豆は飯になると返してきた。


小さくても、集めれば腹の足しになる。


焦って零せば、飯にもならない。


豆粒の灯りは、いまだに講習でいちばん遅い。


才のある子は、俺が二年かけた豆粒を、四月で越える。


それでも、爺は「けっこう」と書いた。


速さではなく、零していないことを、褒めた。


その一行が、講習の末席の二年を、まるごと肯定してくれた気がした。


零さずに貯めた豆は、いつか俺の飯になる。


爺がそう言うなら、そうなのだろう。


膝は雨に泣く。


年寄りは天気読みになる。


便利なもんだ。


膝の痛みを、天気の話にして笑い飛ばす。


あの人らしい書き方だった。


痛いとは、一言も書かない。


だが、書かないからこそ、俺には見えた。


左膝を庇って、囲炉裏端まで杖をつく、あの背中が。


俺が村を出た春より、膝は確実に悪くなっている。


天気読みになるほど、雨の前に泣くようになった膝だ。


同封する薬草を、俺はもう一束、増やすことにした。


効くかどうかは、分からない。


だが、山犬の護衛で稼いだ銭で買った、いちばんいい膝の薬草だ。


手紙に痛いと書かない人には、薬草で返すしかない。


◇ ◇ ◇


ダンが春に村を出た。


王都の兵団の募集に乗った。


あれは伸びるのが早い。


早いのはいいことだ。


早いだけなら、だが。


その一行の含みを、俺は何度も読み返した。


早いだけなら、八合目で止まる。


爺は、ダンにも同じ物差しを当てている。


バレンによろしくは言うな。


図に乗る。


爺とバレンの、古い連れの間合いが、その一行に透けていた。


便りは、それだけだった。


それだけで、腹一杯になった。


言葉の数ではない。


どの一行も、俺の毎日をちゃんと見て書かれていた。


◇ ◇ ◇


ダン。


六つの春から一度も勝てなかった、俺の物差しだ。


村の丘で、俺を四十六回転がした足。


村が、もう狭かったのだろう。


王都の兵団なら、才の壁は村の比ではない。


あいつはそこでも、駆け上がるはずだ。


駆け上がって、いつかどこかで、また俺の前に立つ日が来る。


その日の俺の高さは、その日までの毎日が決める。


あいつが王都で鍛える間、俺はドルンで鍛える。


同じ日数を、違う場所で。


物差しは、遠くにあるほど、測り甲斐があるというものだ。


近くにいれば、日々の差に一喜一憂する。


遠くにいれば、何年ぶんかをまとめて測れる。


次に会う日まで、俺は俺の段を、黙って上っておく。


村を出た日、ダンは見送りに来なかった。


あいつらしいと思った。


別れを惜しむより、次の稽古へ行く男だ。


俺も、惜しむより鍛える男でいる。


惜しむ時間があれば、素振りを一本増やす。


それが、あいつと俺の、言葉にしない約束のような気がした。


王都の兵団で、あいつがどんな壁に当たるのかは、知らない。


当たった壁の高さだけ、あいつは伸びる。


伸びた分だけ、次に会う日の物差しが、遠くなる。


遠い物差しは、俺の楽しみだ。


◇ ◇ ◇


返事を書こうとして、俺は半刻も唸った。


字が下手なのだ。


一字目の「銅」から、早速形が潰れた。


紙を一枚、無駄にした。


この体で字の稽古をしてこなかったつけが、こんなところで回ってくる。


前世の俺は、字が達者だった。


営業の書類を、何百枚と書いた手だ。


だが、その手は、駅の階段で止まった。


今世の手は、剣は握れても、筆はまだ握り慣れていない。


身につけたものは消えないが、身につけていないものは、前世ぶんも含めて、一切引き継げない。


字は、この体で一から覚えるしかない。


当たり前のことが、筆を持つと、急に重くのしかかった。


剣は鍛えた。灯りも鍛えた。


だが、字は一日もやっていない。


やっていないものは、出ない。


いつもの理屈が、筆の先で俺を笑っていた。


結局、書けたのは五行だった。


山犬六頭のこと。


二対一の稽古のこと。


灯りが三つ数えられること。


膝の薬草を同封すること。


ダンの話、承知、ということ。


五行のために、紙を三枚使った。


情けないが、これも今日の勘定だ。


書きながら、俺は爺の字を、隣に置いた。


真似ようとしたのではない。


あの太さの、芯の通し方を、盗もうとした。


筆を、剣のように握ってみる。


力を、指ではなく腰から通してみる。


すると、潰れていた「山」の字が、少しだけまっすぐ立った。


字も、軸で書くものらしい。


剣で覚えた軸が、思わぬところで、筆を助けた。


稽古は、字の塔にまで、梁を渡してくる。


薬草は、乾いた葉を油紙に包んで、手紙と一緒に束ねた。


膝に効くと聞いた葉と、傷に効くと聞いた葉。


傷の葉は、俺自身が牙犬の腕の傷で使って、効いたやつだ。


効くと確かめたものだけを、爺へ送る。


確かめていないものは、送らない。


それも、爺に教わった性分だった。


◇ ◇ ◇


書き終えてから、俺は日課をひとつ増やした。


寝る前に、帳面の隅へ百字。


剣にも魔力にも関わらない、ただ爺に読みやすい字で近況を書くためだけの、稽古だ。


悪くない。


塔は多いほうが、暮らしが立つ。


剣の塔。灯りの塔。護衛の塔。


その隣に、字の塔を一本、新しく建てる。


どれも、崩れずに残る塔だ。


塔が増えるほど、俺の暮らしは、足の置き場が増える。


剣で食えない日は、字で文を書いて糊口をしのげるかもしれない。


護衛の口がない冬は、灯りの講習で銅貨を稼げるかもしれない。


一本の塔に頼る暮らしは、その塔が折れたら終わる。


ロイクの右手が、それを教えてくれた。


だから俺は、細くてもいい、塔の数を増やす。


爺の手紙一通が、俺に新しい塔を一本、建てさせた。


百字目の字は、一字目より、少しだけましだった。


たった百字で、もう違いが出る。


俺の皿は、字も零さないらしい。


剣の伸びは、人の倍かかる。


灯りの伸びは、人の三倍かかる。


だが、字の伸びだけは、どうやら人並みに近い。


得意も不得意も、身につければ減らない。


その一点だけは、何を鍛えても変わらなかった。


次の手紙は、もう少し読みやすい字で書ける。


もらった手紙は、油紙に包んで、帳面の間に挟んだ。


銭は、使えば消える。


手紙は、消えない。


消えないものが、また一つ、俺の荷物に増えた。


爺が「字が下手になったな」と笑う顔を、勝手に思い浮かべて、俺は行灯を消した。

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