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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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27 雨の峠

秋の長雨の護衛は、ベルガの指名だった。


指名で呼ぶと言った、あの約束が、ひと月で果たされた。


西の峠越えの隊商で、荷車八台、護衛七人。


初仕事の倍の隊列に、護衛の頭数も増えた。


顔ぶれの半分は、知らない護衛だ。


知らない同士がひとつの列になるのに、ベルガは朝の半刻しか使わなかった。


持ち場と、合図と、退がる順。


決めるのは、それだけ。


名前も、腕前も、細かくは訊かない。


訊いたところで、腕前は口では分からない。


分かるのは、いざという時の、足の置き方だけだ。


ベルガは、口の答えを信じない男だった。


信じるのは、退がる順に体が従うかどうか。


その一点だけ決めておけば、寄せ集めの七人も、ひとつの列になる。


訊く代わりに、持ち場を割り、退がる順を決める。


それだけ決めておけば、あとは体が勝手に噛み合う。


あとは歩きながら、噛み合わせていく。


俺の持ち場は、また、けつの右だった。


定位置というやつだ。


新入りの砂を食う場所だが、全体のいちばんよく見える場所でもある。


文句はない。


むしろ、初仕事と同じ場所をもらえたのは、都合がよかった。


同じ場所なら、前の六日の帳面が、そのまま使える。


◇ ◇ ◇


峠の登りで道が崩れていて、直しの人足を待つ間、隊は峠の小屋で一晩、停滞することになった。


停滞は、護衛の嫌う言葉だと、列の年かさが教えてくれた。


動く隊商は、的が流れる。


停まった隊商は、的が据わる。


狙う獣にとって、動く的は難しく、据わった的はやさしい。


やさしい的の番をするのが、今夜の仕事だった。


雨は夜になっても止まず、屋根を叩く音が、谷いっぱいに満ちていた。


商人たちは小屋の中、護衛は軒下と荷の間で、交代の仮眠。


火は雨で育たず、闇が濃い。


据わった的の、条件の悪い夜だった。


悪い条件を数えて、俺は自分の持ち場の弱点を探した。


風下。荷の干し肉。火の届かない軒下。


もし俺が飢えた獣なら、どこから寄るか。


答えは、風下から荷の匂いを辿る、だ。


だから、風下だけを、重く見張ることに決めた。


◇ ◇ ◇


俺の夜番は、真夜中からだった。


雨の夜は、耳が半分潰れる。


だから、音を聴くな、と爺の夜語りにあった。


聴くのは、音の穴だ。


獣が藪を動けば、雨音の幕に、そこだけ音の途切れる筋が通る。


俺は軒下の暗がりで、幕の破れ目を探しながら立っていた。


まず、破れ目のない雨音の形を覚える。


どの木がどう鳴り、樋がどこで水を落とすか。


右の杉が、太い音。左の岩が、跳ねる音。正面の泥が、鈍い音。


その三つの音を、まず頭の底へ敷く。


半刻、破れ目はなかった。


破れ目のない雨音の形を、俺は半刻ぶん、体へ入れた。


覚えた形と違うものが来れば、それが答えだ。


三筋、あった。


風下から、荷車の列へ。


筋の進みは遅く、間隔が揃っている。


物慣れた群れの、寄り方だった。


急がず、散らばらず、風下から。


狩り慣れた獣ほど、こういう寄り方をする。


背伸びした木札が死ぬように、狩りを覚えた獣は、長く生きる。


人も獣も、消えずに残るのは、無理をしない側だ。


その理屈が、獣の側にも通っているのを、俺は雨の幕の向こうに見た。


起こしたベルガは、寝起きの顔のまま「配置」とだけ言った。


声も、松明の増やし方も、何ひとつ慌てない。


慌てれば、こちらの目が潰れて、向こうの思う壺になる。


落ち着いた声ひとつで、七人の眠りが、七人の構えに変わった。


◇ ◇ ◇


山犬の群れだった。


飢えて痩せた六頭が、雨に紛れて、荷の干し肉を狙いに来た。


松明の火が雨で膨らんで、泥の上で戦いになった。


泥は、古馴染みだった。


丘の千日は、雨の日も休まなかった。


ぬかるみで滑るのは、足の裏で地面を信じる奴だ。


信じずに、置く。


踏む前に、足の裏で泥の底を訊いて、答えの堅いところにだけ、体重を渡す。


堅い底のない一歩は、踏まない。


踏まない一歩を選べるだけの余裕を、千日の泥が作っていた。


他の護衛は、泥を憎んでいた。


滑る足を、泥のせいにして、踏ん張ろうとして、余計に滑る。


俺には、泥は敵ではなかった。


丘の千日で、雨の日の泥とは、何百日も付き合ってきた。


泥は、読める。読めるものは、味方に回る。


護衛たちの足が泥に取られる中で、俺の足だけが、いつもの速さで動いた。


正面の一頭を、一合。


荷の下に潜った一頭を引きずり出して、一合。


左右から、二頭が同時に来た。


体は、止まらなかった。


牙犬の日は、ここで半拍止まった。


あの半拍を、河原で七十回、埋め直してきた。


半歩、線の外へ。


二頭が、縦に並ぶ。


河原で七十回死んで買った、半歩だ。


石はなかった。


石の代わりに、泥の堅い底と、線を引く足があった。


前の一頭を落とし、続く一頭の出足を泥ごと蹴って崩し、首筋。


残りは、闇へ散った。


闇へ消える尻尾を目で追いながら、俺は三つ数えた。


戻ってこない。


雨音の幕に、新しい破れ目は立たなかった。


解いた腕が、そこで初めて震えた。


戦いの間は、震えなかった。


終わってから、震える。


それが、生きている体の正しい順序だと、爺が言っていた。


戦いの最中に震える手は、まだ場数が足りない。


終わってから震える手は、ちょうどいい。


俺の手は、ちょうどいい順序で、震えていた。


◇ ◇ ◇


夜が明けて、ベルガが山犬の骸を数えながら言った。


「新入り。おまえ、雨上がりの河原で二人がかりに揉まれてる妙な銅札ってのは、おまえのことか」


「……よくご存じで」


「護衛の耳は地獄耳だ」


ベルガは笑って、俺の肩を叩いた。


「稽古が三月で実戦に出る奴を、俺は久しぶりに見た」


荷の親父たちは、朝の泥の上の骸を見て、初めて昨夜の中身を知った。


寝ている間に守られていたと知った客の礼は、少しだけ多めの昼飯になって返ってきた。


護衛の仕事の実入りは、こういう形も混ざっている。


干し杏の時と、同じだ。


銭にならない礼が、信用の頁へ増えていく。


その頁は、次の指名を呼ぶ。


次の指名が、次の実戦を呼ぶ。


稽古は、こうして自分で自分の場所を広げていく。


守られたと気づかない夜こそ、いちばん上等な仕事だ。


気づかれた夜は、どこかで的が近づきすぎた夜だ。


◇ ◇ ◇


峠を下りながら、俺は昨夜の勘定をした。


雨音の穴、三筋。


泥の足、実戦で初めて。


二対一の線、稽古の外で、初めて通った。


河原の七十回が、たった一晩で、銅貨の外の元を取った。


稽古と実戦の間の川に、橋が架かる音を、俺は確かに聞いた気がする。


一晩で渡れる川では、ない。


だが、橋の一本目の杭は、確かに打たれた。


杭を一本打てば、次の杭は、そこから打てる。


橋は、そうやって一本ずつ、河を渡っていく。


次に左右から来られる時、俺はもう、半拍止まらないかもしれない。


かもしれない、で命は張れないから、稽古はやめない。


だが、稽古が実戦へ渡る音を、俺は初めて自分の耳で聞いた。


見る奴が、増えている。


それを肌で知った峠だった。


ベルガの地獄耳に、河原の稽古はもう届いていた。


届く速さが、この街の目の数だ。


噂は、追い風にも、向かい風にもなる。


背伸びした木札は、噂に煽られて、届かない紙を剥がして死ぬ。


俺は、噂に煽られない。


届いた噂を、帳面の隅に書いて、あとは足元だけを見て歩く。


銅札になると、見る奴が増える。


バレンの言葉は、灯りだけでなく、剣にも当てはまった。


悪い気はしなかったが、爺の言いつけどおり、手の内の芯だけは、雨より深くに仕舞っておいた。


見せていいのは、鍛えた結果までだ。


どうやって鍛えたかは、見せない。


結果だけを見た者は、才だと思う。


稽古の中身まで見た者だけが、日数だと知る。


その稽古の芯を、俺は雨より深くに埋めた。


皿の底は、誰にも見せない。

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