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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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26 駆け上がる奴

「あんたが兎のルドか」


掲示板の前で声をかけてきたのは、カイという名の銅札だった。


兎のルド、というのは、俺の広間での呼び名だ。


二年、兎ばかり獲ってきた男への、半分は揶揄の名だった。


俺は、その名を嫌ってはいない。


兎場の足が、護衛を作り、二対一の線を作った。


揶揄の名の中に、俺の重ねたものが全部詰まっている。


十七。俺より若い。


木札を三月で抜けた組合の最短記録で、器の計りが大きく出たと、噂は嫌でも耳に入っていた。


器の計りというのは、登録の日に組合が見る、伸びしろの見立てだ。


俺の計りは、下の下だった。


あいつの計りは、十年に一度の上の上。


同じ銅札の板の前に、両の端が並んで立っている。


噂は、他にもある。


初めての駆除で、角猪を正面から獲った。


銀札の隊が二の足を踏んだ岩場の紙を、一人で剥がして、一人で納めた。


広間の若い連中は、あいつの受けた紙を、翌日に真似て剥がす。


真似た側の何人かは、傷をこしらえて帰ってくる。


中には、帰ってこない者もいたと聞く。


本物の速さは、それだけで周りの物差しを狂わせる。


狂った物差しで背伸びした者から、順に欠けていく。


あいつに罪はないが、あいつの速さには、そういう影がついて回る。


革の胸当ては真新しいのに、傷の位置だけは、本物の位置に付いていた。


速い奴の傷だ。


急所の紙一重を、何度も抜けてきた者の傷だった。


◇ ◇ ◇


「兎で銅札。語り草だぜ。地味すぎて」


「そっちは最短記録のほうでしょう。派手すぎて語り草の」


カイは笑って、俺の手元の紙を覗き込んだ。


街道見回りと、薬草の、いつもの地味な取り合わせだ。


カイ自身の手には、西の森の大牙猪の紙があった。


銅札の掲示板で、いちばん血の匂いのする紙だ。


大牙猪は、銅札が一人で受ける獣ではない。


突進の一撃は、盾ごと人を潰す。


ふつうは、隊を組んで、旗と槍で受け止める。


それを、あいつは一人で剥がしていく。


俺なら、あの紙は板に残す。


残す俺と、剥がすあいつ。


同じ板の前で、ちょうど正反対の手が伸びていた。


「なんで急がない」


と、カイは本気で不思議そうに言った。


「銀札の口は、数が決まってる。才ってのは待たせると腐るんだ。伸びる時期に駆け上がらないと、一生木札の伸び方で終わる」


「俺のは、腐らないので」


「……変な奴」


嘲りの色は、なかった。


本当に分からない、という顔だった。


あいつの世界では、伸びは若さの利息で、利息は待つほど目減りする。


だから、急ぐことが、あいつにとっての正しさだ。


その世界の住人としては、あの問いは、親切ですらあった。


俺の世界では、伸びは日数の利息だ。


日数は、待つほど増える。


だから俺は、急がないことが正しさになる。


二人は、正反対の正しさを、同じ言葉で語り合っていた。


どちらかが嘘なのではない。


器の形が違えば、正しさの形も違う。


ただそれだけの話だった。


速い者は、遅い者を蹴落とすためではなく、間に合わせてやりたくて、急げと言う。


カイの急げは、そういう急げだった。


だから、俺も嘘は返さなかった。


腐らない、とだけ言った。


どういう意味かは、言わなかった。


言っても、あいつの物差しには、目盛りがない。


◇ ◇ ◇


カイは紙をひらつかせて、広間を出ていった。


その出ていく足の運びを、俺は最後まで見ていた。


速い。軸がぶれない。


踏み出しの一歩目から、最高の速さが出て、しかも音が薄い。


生まれつきの速さの上に、ちゃんと稽古が乗っている。


才だけの奴は、二歩目で崩れる。


あいつは、二歩目も三歩目も、速さが落ちない。


才のある奴が怠けずに鍛えると、ああいう背中になる。


厄介なのは、そこだ。


才があって、しかも鍛えている。


俺が十年かけて届く場所へ、あいつは二年で立つのだろう。


ダンの背中を、少し思い出した。


村の丘で俺を四十六回転がした、あの気持ちのいい速さ。


王都の兵団で、あいつもいまごろ、こういう足で誰かの物差しを狂わせているのだろう。


俺の周りには、速い背中ばかりが並ぶ。


その背中を見送るのが、俺の物差しの使い方だった。


◇ ◇ ◇


窓口で、ネラが言った。


「あの子、二年で銀札に届くって専らの噂よ。張り合わないの」


「張り合いますよ。昨日の俺と」


「はいはい」


ネラは紙を受け取りながら、ふと真顔になった。


「……でもね、ああいう子を何人か見てきたけど、あの速さで登った子は、登った先で決まって足が止まるのよ。何でだろうね」


「さあ」


答えは持っていたが、言わなかった。


爺の囲炉裏端の言葉は、俺と爺だけのものだ。


天才どもは、八合目で穴と注ぎが釣り合う。


あとは景色を眺めて、下るだけ。


器の底に、目に見えないほど小さな穴がある。


若いうちは、注ぐ量が穴の漏れを上回るから、みるみる満ちる。


だが穴は、満ちるほど水圧で口を広げる。


いつか、注ぐ量と漏れる量が、釣り合う。


それが、八合目だ。


カイの八合目がどこにあるのかは、誰にも分からない。


本人が、いちばん分かっていない。


俺の器には、穴がない。


注いだ量が、そのまま溜まる。


だから俺には、八合目がない。


あるのは、注ぐ速さの遅さだけだ。


速さの遅さは、日数で埋まる。


八合目の穴は、何をしても埋まらない。


埋まらない穴と、埋まる遅さ。


どちらの荷を背負うかと問われれば、俺は迷わず、遅さを取る。


もっとも、選べるものでもないのだが。


◇ ◇ ◇


紙を出しながら、俺は少しだけ考えた。


カイは、正しい。


腐る才の持ち主にとっては、あれが唯一の正しさだ。


急げる者が急がないのは、才への不義理ですらある。


先に行く奴は、先に行けばいい。


見えなくなるくらい、先まで行けばいい。


俺は俺の歩幅で歩く。


二十年後に同じ道の上にいるかどうかは、二十年ぶんの毎日が決める。


それはそれとして、あの速さは綺麗だと思った。


綺麗なものを綺麗と思ううちは、俺の稽古も腐らない気がする。


妬みは、皿の底に穴を開ける。


妬んだ瞬間、俺は俺の唯一の得を、自分で捨てることになる。


俺の皿に穴はないが、開けない用心はする。


用心とは、綺麗なものを、素直に綺麗と言うことだ。


◇ ◇ ◇


広間を出る時、俺はもう一度、掲示板を見た。


カイの剥がした跡に、白い壁が四角く残っている。


剥がされた紙の数だけ、あいつは前へ進む。


俺の剥がす紙は、いつも同じ地味な取り合わせだ。


だが、剥がした数の勘定なら、俺も負けていない。


この一年で、俺の帳面の頁は、あいつと同じだけ埋まった。


埋め方が、違うだけだ。


その晩の帳面には、カイの踏み出しの一歩目を描いた。


昼のうちに、目に焼き付けておいた一歩だ。


膝の抜き方。爪先の向き。地を蹴らずに、地から離れるような一歩。


真似は、できない。


あの速さは、生まれつきの側の話だ。


できないが、あの一歩の理屈のどこかに、俺の足でも拾える欠片が、あるかもしれない。


速さは真似られなくても、理屈は覚えられる。


天才は、眺めているだけでも教材だ。


ただで見られる教材が、同じ街で育っていく。


カイが速く登るほど、俺の見られる教材は、高いところへ行く。


あいつが銀札の戦いを見せてくれれば、俺はそれを、板の下から眺めて学ぶ。


追い抜かれることは、悔しさではなく、教材が増えることだった。


少なくとも、俺はそう数えることにした。


そう数えれば、妬みは皿の底に穴を開けない。


いい時代に居合わせたものだと思う。


先に行く背中は、道しるべだ。


追いつけなくても、道は、間違えずに済む。


俺は、あいつの背を見送りながら、あいつの通った道の草を、一本ずつ数えて歩く。


いつか、あいつの足が止まる日が来る。


その時、俺はまだ、同じ道を歩いているだろう。


止まった背中の隣を、静かに追い抜く。


それが、遅い器に許された、たったひとつの追い抜き方だった。

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