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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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23 後戻りしない灯り

夜講習には、銅札になっても通っていた。


銅札で通っているのは、俺一人だ。


木札の若いのに交じって、月に二度、銅貨二枚。


実入りだけを考えれば、割に合わない席だ。


護衛の一晩のほうが、よほど多くの銅貨になる。


同期はとうに、夜講習になど来ない。


剣で食えるのに、豆粒の灯りに月二度、銅貨二枚を払う者はいない。


それでも通うのは、灯りの稽古が、俺の中でいちばん遅い段だからだ。


いちばん遅い段こそ、いちばん休んではいけない。


樽の椅子も、行灯の匂いも、婆さんの身も蓋もない講義も、二年目になると勝手が知れて、俺にはすっかり馴染みの席だった。


新入りの木札たちは、銅札が末席で聞いているのを、最初は珍しがる。


二度目からは、いないものとして扱ってくれる。


ありがたい席順だ。


いないものになれば、こちらも遠慮なく、手の内を伏せられる。


俺の掌の上では、豆粒の灯りが、今夜も豆粒のまま点っている。


針の先から豆粒まで、一年半。


この講習で俺より遅い灯りは、記録にないそうだ。


遅いことは、もう恥ではない。


遅くても点ったこと、点って一度も消えていないことのほうを、俺は数える。


◇ ◇ ◇


その灯りを、婆さんが節くれた指でつついた。


「あんた、護衛だ何だで、よく街を空けるようになったね」


「はい。実入りがいいので」


「回路ってのはね、稽古の場所が変わると乱れるもんだ。宿の板の間と自分の寝床じゃ、呼吸の据わりが違うからね。ところがあんたの灯りは、乱れた痕がひとつもない。休んだ痕も、後戻りした痕もない」


背中に、細い汗が一本流れた。


講習は、とうに終わっていた。


若い連中は帰り、行灯ひとつの居残りの部屋に、俺と婆さんだけが残っていた。


行灯の芯が、じじ、と鳴る。


婆さんの目は、俺の掌の豆粒を見たまま、動かない。


バレンの言葉が、胸で鳴る。


銅札になると、見る奴が増える。


見る奴は、剣だけを見るのではない。


五十年灯りを見てきた目は、灯りの来し方まで見えるらしい。


どこで乱れ、どこで休み、どこで後ろへ戻ったか。


灯りには、その日々が全部、透けて残る。


剣の伸びは、努力で説明がつく。


稽古は、人前でやっているからだ。


毎日振っていれば、毎日ぶんだけ強くなる。誰も不思議がらない。


だが灯りの「後戻りのなさ」は、努力では説明がつかない。


努力は、乱れを減らすだけだ。


ゼロには、しない。


誰の灯りも、旅の疲れや、酒や、季節で、少しは後ろへ戻る。


三日馬に揺られれば、灯りは一度、豆粒から針の先へ縮む。


縮んでから、また数日かけて豆粒へ戻す。


その縮みと戻りの痕が、回路には残る。


婆さんは、その痕の数で、その子の暮らしぶりまで当てるのだという。


戻ってはまた進む。それが当たり前だ。


俺の灯りは、戻らない。


一度上がった段から、一度も落ちていない。


ゼロなのだ。


その「ゼロ」を、五十年の目が、いま見ている。


◇ ◇ ◇


「宿でも毎晩やってました。四半刻、欠かさず」


嘘ではない。


日課は、旅の空でも日課だ。


板の間でも、馬小屋の藁の上でも、四半刻だけは掌を上に向けて座った。


だから、その言葉に嘘はない。


嘘はないが、それだけでは、この灯りの説明にはならない。


毎晩やっても、乱れはゼロにはならないからだ。


婆さんは、それを知っている。


知っていて、俺の顔と灯りを、しばらく見比べた。


そして、ふん、と鼻を鳴らした。


「……まあ、毎晩やる奴の灯りだよ、これは。四月で針の先しか出なかった不器用が、よくもまあ倦まずにね」


詮索は、そこで終わった。


終わらせてくれたのかもしれない。


「毎晩やる奴の灯り」で片をつけてくれたのは、婆さんのほうだ。


俺の答えでは、片はつかなかった。


毎晩やる奴は、他にもいる。


毎晩やっても、痕は残る。


痕の残らない奴は、五十年で俺が初めてのはずだ。


それを、婆さんは「毎晩やる奴」の一言で、わざと平らに均した。


どちらなのかは、婆さんの皺の底の目からは、読めなかった。


半分は見抜いていて、半分は見ないことにしている。


そんな目に、俺には見えた。


読めないまま、俺は胸の内で頭を下げた。


◇ ◇ ◇


代わりに婆さんは、次の稽古をよこした。


灯りを点したまま、数を数える。


息と意識を割って使う稽古で、灯りの持続の入り口だという。


灯りは、意識を置いている間しか点かない。


掌に心を貼りつけている間だけ、光は生きている。


心を剥がせば、豆粒はすぐに消える。


数を数えれば、意識が割れる。


割れても消えない灯りが、使える灯りだ。


実戦で剣を振りながら灯りを点すには、まず数を数えながら点せなければ、話にならない。


いつか、剣と灯りを同時に使う日が来るのだろうか。


来るとしても、何年も先だ。


だが、何年先だろうと、その日の一段目は、今夜の三つだ。


遠い段も、始まりは今夜の掌の上にある。


剣を振るのは、数を数えるよりずっと、心を食う。


その入り口が、この「数える灯り」だという。


才のある子は、初日から十を数える。


俺は、三つで消えた。


三つ。


上等だ。


昨日までの俺は、ひとつも数えられなかった。


この三つは消えない三つで、明日の俺は、三つから始める。


十を数える子が明日ゼロから始めることは、ないだろう。


だが、俺の三つも、ゼロには戻らない。


そこだけは、あの子と俺は同じ土俵だ。


◇ ◇ ◇


行灯の火を落として、婆さんは先に立ち上がった。


薬草の煮汁のような匂いのする、小さな背中だった。


その背中は、もう俺の灯りのことを、口にしなかった。


帰り道の路地で、俺は今夜の危うさを、数え直した。


剣の伏せ方は、この一年で形になった。


稽古を見せ、覚えの早さを見せず、爺の名を言わない。


だが灯りのほうは、伏せ方を考えたことすら、なかった。


剣は命のやりとりの芸で、灯りは豆粒の遊びだと、どこかで軽く見ていたのだと思う。


油断していた場所から、いちばん深く覗かれた。


五十年の目の前に、素の帳面を広げて座っていたわけだ。


冷や汗の値打ちは、かいた後に、何を変えるかで決まる。


考えて、俺は決めた。


灯りの稽古は、これからも変えない。


乱れの痕を偽る芸は、俺にはない。あっても使わない。


偽った稽古は、偽った形で身につく。


偽りの段は、いつか本物の段のふりをして、命のやりとりの場で崩れる。


俺の塔に、偽物の段は一段も混ぜない。


変えるのは、見せる場所だけだ。


人前で点すのは、講習の間だけ。


持続の数は、訊かれたら実際より少なく言わない。


少なく言うのも、嘘の稽古になるからだ。


次の講習からは、灯りを点す時に、掌を少しだけ膝の陰へ寄せた。


消すのではなく、目立たせないだけ。


婆さんには、たぶん見えている。


だが、他の若い連中の目には、届かなくなる。


見える者には見せ、見えない者には見せない。


伏せ方とは、そういう塩梅のことだった。


訊かれない工夫をする。


それが俺にできる、精一杯の伏せ方だった。


帳面に、もうひとつ書き足す。


灯りは、嘘をつかない。


だから手の内を守りたければ、灯りに黙らせるのではなく、俺が上手に黙る稽古をすること。


それと、もうひとつ。


五十年の目は、ごまかせない。


ごまかせない相手の前では、ごまかさないことが、いちばん安全だ。


下手に伏せれば、伏せたことのほうが、余計に目を引く。


あの婆さんが、詮索をしない側の人間であることに、俺は今夜、たぶん救われた。


見抜く目と、見抜いても言わない口。


その二つを持った相手に出会えたのは、運がよかった。


剣を伏せるのに一年かかった。


灯りを伏せるのには、これから何年かかるか分からない。


だが、かかる年月は、俺の得意な通貨だ。


伏せ方にも稽古がいると教わった、秋だった。

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