22 弦の音
夏の終わりの帳場で、ロイクに会った。
木札を返しに来たのだという。
右手は、袖の上からでも分かるくらい細くなっていた。
冬を越え、春を待っても、腱は元の張りまで戻らなかった。
剣は、握れる。
だが握れると振れるの間には、川が一本流れている。
握った柄を、命のやりとりの速さで振り抜けるか。
その一点だけが、剣士と、剣を握れるだけの男とを分ける。
半年前、あいつは戸板で運ばれてきた。
右手の腱を、背伸びの依頼で断ったのだ。
あのとき天井を見ていた目が、いま俺の前で、まっすぐ前を見ている。
ロイクはその川を、半年かけて岸から眺めて、渡らないと決めたのだった。
◇ ◇ ◇
この半年、あいつは酒場から姿を消していた。
宿の払いを、日雇いの荷運びで繋いでいたのは知っていた。
左手ひとつでできる仕事は、この街にそう多くない。
朝は荷、昼も荷、暮れてから宿の隅で握り飯ひとつ。
そういう半年だったと、痩せた頬が語っていた。
それでも、村へ帰らなかった。
帰れば飯はあっただろうに、帰らなかった。
役付きの父の顔を、潰したくなかったのかもしれない。
あるいは、負けたまま帰る自分が、許せなかったのかもしれない。
その半年の意味を、俺は訊かなかった。
訊かなくても、今日の顔に書いてある。
迷い終わった人間の顔だった。
迷っている間の顔と、迷い終わった後の顔は、まるで違う。
前のあいつは、いつも半歩宙に浮いていた。
今のあいつは、両足が地に着いている。
◇ ◇ ◇
「北の山の、猟師の親方んとこに世話になる。組合の斡旋だ」
罠と、弓。
弓は、引き手を左に替える稽古を始めたという。
利き手を替えるのは千日仕事だと、爺なら言うだろう。
二十年使ってきた手を降ろして、使ったことのない手で、一から段を上り直す。
身につけたものが右手ごと止まった男が、左手で最初の一段からやり直す。
それをこいつは、これから始める気でいる。
「悔しいかって顔だな」
ロイクは、先に笑った。
「悔しいさ。夜中に何度も柄を握った。けどよ、山で兎を追うのも狼を罠にかけるのも、打ち込む場所が変わるだけだ――なんてな。おまえの口癖がうつった」
「俺は、口癖にしてるつもりはないんですが」
「顔が口癖なんだよ、おまえは」
利き手を替えると、何もかもが一からになる。
箸も、鍬も、柄も、二十年ぶんの手癖が、全部裏返しになる。
その裏返しを、悔しがるのではなく、鍛え直すと言った。
同じことを、俺は右手のまま体質という追い風で重ねている。
あいつは、追い風なしで、しかも逆の手でやり直す。
どちらが重い荷かは、比べるまでもない。
帳場の脇の裏庭で、あいつは新しい弓を見せてくれた。
親方から前借りしたという、癖の強い古い短弓だ。
弦は張り替えたばかりらしく、松脂の匂いがした。
左の指先には、もう新しいまめが出来かけていた。
右手のまめが消える前に、左手のまめが育ち始めている。
左で番えて、引いて、放つ。
肩が上がり、肘が流れる。狙いは、まるで定まっていない。
矢は的の丸太の、二尺も左の地面に刺さった。
だが、弦の音は、まっすぐに鳴った。
「ひでえもんだろ」
「いや」
俺は、首を振った。
引き分けの形は、崩れていた。
だが、弦を離す瞬間の指だけは、もう嘘がなかった。
迷いのない離れだ。
放つと決めた指は、放つ。それだけは、もう出来ている。
千日の一日目の音だ。
俺はあの音の側の人間だから、分かる。
一から始めた者の指は、まだ下手でも、音だけは澄む。
下手なのは形で、形はこれから千日かけて澄む。
音が澄んでいれば、形は追いつく。
「その音なら、届くようになります」
「……おまえに言われると、腹は立たねえな。不思議と」
ロイクは弓を担いで、少し笑った。
半年前に、宿の天井を見ていた男の笑い方ではなかった。
あの頃のあいつは、武勇伝を大声で語る男だった。
語る声が大きいほど、中身が薄いのだと、俺は内心で思っていた。
いまのあいつは、もう何も語らない。
語る代わりに、まめを作り、弦を鳴らしている。
声の大きかった男が、いちばん静かな稽古の側へ来た。
背伸びは、あいつからいちばん要らないものを削って、いちばん要るものを残したらしい。
◇ ◇ ◇
帳場に戻って、ネラが木札を受け取った。
帳面に何かを書き、それから顔も上げずに「またおいで」と言った。
組合の言葉で、それは餞別だ。
死んで返しに来る札もあれば、生きて返しに来る札もある。
黒枠の貼り紙になって返る札を、俺はこの一年で何枚も見た。
生きて返す札にだけ、ネラはその一言を添える。
俺が渡された日と同じ木札を、あいつは同じ帳場へ返しに来た。
入る時は、みんな同じ木札から始まる。
出る時の形は、ひとりずつ違う。
ロイクは、札のなくなった首元を一度だけ触って、扉の外の日向へ出ていった。
背中が見えなくなるまで、俺は見ていた。
背伸びの代価を最初に見せてくれたのも、代価を払った後の身の振り方を見せてくれたのも、同じ男だった。
地力は、一本の塔とは限らない。
崩れた場所の隣に、別の塔を建て直す奴がいる。
俺の体質は、俺だけの追い風だ。
身につけたものが減らないから、俺は崩れる恐怖を知らない。
あの川は、誰の前にも流れている。
追い風のない岸で塔を建て直す奴の背中は、追い風の中の俺より、たぶんいくらか上等だ。
上等な背中を、俺はひとつ、帳面に写した。
◇ ◇ ◇
その晩、酒場でひとつだけ噂を聞いた。
登録の日の、あの鉈の大男が、南の岩場の依頼で足を折ったらしい。
命に関わる傷ではない。
ないが、治りは春までかかるという。
同期の顔ぶれが、またひとり欠ける。
登録の日、革鎧の同期は、背伸びの見本だった。
鉈の大男は、力自慢の見本だった。
力自慢は、力の届かない相手に、力で挑んで足を折った。
二年経って、残っているのは、北の猟師村へ行く弓の男と、俺くらいのものだ。
二年で、これだ。
あの年かさの護衛の勘定は、脅しでも何でもなく、ただの割り算だった。
半分は最初の冬で帰る。残りの半分は、そのまた半分になる。
割り算の分母に、残り続けること。
それがこの稼業の、いちばん地味で、いちばん難しい芸だ。
速く登る芸ではなく、消えない芸。
それだけは、俺の体質と、噛み合っている。
◇ ◇ ◇
宿へ帰る道で、俺は自分の右手を、一度きつく握ってみた。
柄を、命のやりとりの速さで振り抜ける手だ。
あって当たり前だと思っていた手が、当たり前ではないのだと、今日知った。
ロイクの右手が止まったのは、あいつの落ち度ではない。
紙一枚、背伸びした依頼を選んだだけだ。
その紙一枚が、腕の一本を持っていく。
この稼業は、そういう稼業だった。
俺の帳面には、いつも「背伸びした木札から死ぬ」と書いてある。
今日からは、その隣にもう一行、書き足す。
背伸びした木札は、死ななくても、手を置いてくる。
その晩の素振りは、いつもより一本多くした。
多くした一本が誰のためなのかは、うまく言えない。
言えないが、その一本も消えずに、俺の皿へ落ちた。
俺にできる手向けは、たぶんそれだけだった。
同期は、ひとり、またひとりと欠けていく。
欠けた者を数えて、俺は皿の底を確かめる。
残った者の側に立ち続けるのは、腕ではない。
背伸びをしない、その一点だけだ。
いつか北の山で、左引きの弦の音が、獲物を落とす日が来る。
その日のことを、俺は勝手に、帳面の先の頁へ書き込んでおいた。
予定ではない。
願いだ。
予定は、外れることがある。
願いは、外れても消えない。
消えないものだけを、俺は帳面へ書く。
願いも書いておけば、消えない。




