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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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22/52

22 弦の音

夏の終わりの帳場で、ロイクに会った。


木札を返しに来たのだという。


右手は、袖の上からでも分かるくらい細くなっていた。


冬を越え、春を待っても、腱は元の張りまで戻らなかった。


剣は、握れる。


だが握れると振れるの間には、川が一本流れている。


握った柄を、命のやりとりの速さで振り抜けるか。


その一点だけが、剣士と、剣を握れるだけの男とを分ける。


半年前、あいつは戸板で運ばれてきた。


右手の腱を、背伸びの依頼で断ったのだ。


あのとき天井を見ていた目が、いま俺の前で、まっすぐ前を見ている。


ロイクはその川を、半年かけて岸から眺めて、渡らないと決めたのだった。


◇ ◇ ◇


この半年、あいつは酒場から姿を消していた。


宿の払いを、日雇いの荷運びで繋いでいたのは知っていた。


左手ひとつでできる仕事は、この街にそう多くない。


朝は荷、昼も荷、暮れてから宿の隅で握り飯ひとつ。


そういう半年だったと、痩せた頬が語っていた。


それでも、村へ帰らなかった。


帰れば飯はあっただろうに、帰らなかった。


役付きの父の顔を、潰したくなかったのかもしれない。


あるいは、負けたまま帰る自分が、許せなかったのかもしれない。


その半年の意味を、俺は訊かなかった。


訊かなくても、今日の顔に書いてある。


迷い終わった人間の顔だった。


迷っている間の顔と、迷い終わった後の顔は、まるで違う。


前のあいつは、いつも半歩宙に浮いていた。


今のあいつは、両足が地に着いている。


◇ ◇ ◇


「北の山の、猟師の親方んとこに世話になる。組合の斡旋だ」


罠と、弓。


弓は、引き手を左に替える稽古を始めたという。


利き手を替えるのは千日仕事だと、爺なら言うだろう。


二十年使ってきた手を降ろして、使ったことのない手で、一から段を上り直す。


身につけたものが右手ごと止まった男が、左手で最初の一段からやり直す。


それをこいつは、これから始める気でいる。


「悔しいかって顔だな」


ロイクは、先に笑った。


「悔しいさ。夜中に何度も柄を握った。けどよ、山で兎を追うのも狼を罠にかけるのも、打ち込む場所が変わるだけだ――なんてな。おまえの口癖がうつった」


「俺は、口癖にしてるつもりはないんですが」


「顔が口癖なんだよ、おまえは」


利き手を替えると、何もかもが一からになる。


箸も、鍬も、柄も、二十年ぶんの手癖が、全部裏返しになる。


その裏返しを、悔しがるのではなく、鍛え直すと言った。


同じことを、俺は右手のまま体質という追い風で重ねている。


あいつは、追い風なしで、しかも逆の手でやり直す。


どちらが重い荷かは、比べるまでもない。


帳場の脇の裏庭で、あいつは新しい弓を見せてくれた。


親方から前借りしたという、癖の強い古い短弓だ。


弦は張り替えたばかりらしく、松脂の匂いがした。


左の指先には、もう新しいまめが出来かけていた。


右手のまめが消える前に、左手のまめが育ち始めている。


左で番えて、引いて、放つ。


肩が上がり、肘が流れる。狙いは、まるで定まっていない。


矢は的の丸太の、二尺も左の地面に刺さった。


だが、弦の音は、まっすぐに鳴った。


「ひでえもんだろ」


「いや」


俺は、首を振った。


引き分けの形は、崩れていた。


だが、弦を離す瞬間の指だけは、もう嘘がなかった。


迷いのない離れだ。


放つと決めた指は、放つ。それだけは、もう出来ている。


千日の一日目の音だ。


俺はあの音の側の人間だから、分かる。


一から始めた者の指は、まだ下手でも、音だけは澄む。


下手なのは形で、形はこれから千日かけて澄む。


音が澄んでいれば、形は追いつく。


「その音なら、届くようになります」


「……おまえに言われると、腹は立たねえな。不思議と」


ロイクは弓を担いで、少し笑った。


半年前に、宿の天井を見ていた男の笑い方ではなかった。


あの頃のあいつは、武勇伝を大声で語る男だった。


語る声が大きいほど、中身が薄いのだと、俺は内心で思っていた。


いまのあいつは、もう何も語らない。


語る代わりに、まめを作り、弦を鳴らしている。


声の大きかった男が、いちばん静かな稽古の側へ来た。


背伸びは、あいつからいちばん要らないものを削って、いちばん要るものを残したらしい。


◇ ◇ ◇


帳場に戻って、ネラが木札を受け取った。


帳面に何かを書き、それから顔も上げずに「またおいで」と言った。


組合の言葉で、それは餞別だ。


死んで返しに来る札もあれば、生きて返しに来る札もある。


黒枠の貼り紙になって返る札を、俺はこの一年で何枚も見た。


生きて返す札にだけ、ネラはその一言を添える。


俺が渡された日と同じ木札を、あいつは同じ帳場へ返しに来た。


入る時は、みんな同じ木札から始まる。


出る時の形は、ひとりずつ違う。


ロイクは、札のなくなった首元を一度だけ触って、扉の外の日向へ出ていった。


背中が見えなくなるまで、俺は見ていた。


背伸びの代価を最初に見せてくれたのも、代価を払った後の身の振り方を見せてくれたのも、同じ男だった。


地力は、一本の塔とは限らない。


崩れた場所の隣に、別の塔を建て直す奴がいる。


俺の体質は、俺だけの追い風だ。


身につけたものが減らないから、俺は崩れる恐怖を知らない。


あの川は、誰の前にも流れている。


追い風のない岸で塔を建て直す奴の背中は、追い風の中の俺より、たぶんいくらか上等だ。


上等な背中を、俺はひとつ、帳面に写した。


◇ ◇ ◇


その晩、酒場でひとつだけ噂を聞いた。


登録の日の、あの鉈の大男が、南の岩場の依頼で足を折ったらしい。


命に関わる傷ではない。


ないが、治りは春までかかるという。


同期の顔ぶれが、またひとり欠ける。


登録の日、革鎧の同期は、背伸びの見本だった。


鉈の大男は、力自慢の見本だった。


力自慢は、力の届かない相手に、力で挑んで足を折った。


二年経って、残っているのは、北の猟師村へ行く弓の男と、俺くらいのものだ。


二年で、これだ。


あの年かさの護衛の勘定は、脅しでも何でもなく、ただの割り算だった。


半分は最初の冬で帰る。残りの半分は、そのまた半分になる。


割り算の分母に、残り続けること。


それがこの稼業の、いちばん地味で、いちばん難しい芸だ。


速く登る芸ではなく、消えない芸。


それだけは、俺の体質と、噛み合っている。


◇ ◇ ◇


宿へ帰る道で、俺は自分の右手を、一度きつく握ってみた。


柄を、命のやりとりの速さで振り抜ける手だ。


あって当たり前だと思っていた手が、当たり前ではないのだと、今日知った。


ロイクの右手が止まったのは、あいつの落ち度ではない。


紙一枚、背伸びした依頼を選んだだけだ。


その紙一枚が、腕の一本を持っていく。


この稼業は、そういう稼業だった。


俺の帳面には、いつも「背伸びした木札から死ぬ」と書いてある。


今日からは、その隣にもう一行、書き足す。


背伸びした木札は、死ななくても、手を置いてくる。


その晩の素振りは、いつもより一本多くした。


多くした一本が誰のためなのかは、うまく言えない。


言えないが、その一本も消えずに、俺の皿へ落ちた。


俺にできる手向けは、たぶんそれだけだった。


同期は、ひとり、またひとりと欠けていく。


欠けた者を数えて、俺は皿の底を確かめる。


残った者の側に立ち続けるのは、腕ではない。


背伸びをしない、その一点だけだ。


いつか北の山で、左引きの弦の音が、獲物を落とす日が来る。


その日のことを、俺は勝手に、帳面の先の頁へ書き込んでおいた。


予定ではない。


願いだ。


予定は、外れることがある。


願いは、外れても消えない。


消えないものだけを、俺は帳面へ書く。


願いも書いておけば、消えない。

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