21 守る側
銅札の掲示板は、木札のそれより一段高い壁に張ってある。
背伸びをしなくても読める高さだが、初めてその前に立った朝は、足の裏が少し浮くような心持ちがした。
一年、木札の低い板を見上げて暮らした。
その板の一段上に、自分の名で立てる朝が来るとは、村を出た日には思わなかった。
紙の中身が違う。
討伐の頭数が違う。日当の桁がひとつ違う紙もある。
木札の紙は「掃除」で、銅札の紙は「仕事」だと、誰かが言っていた。
言い得ていると思う。
行き先の名前も、知らない土地が増えた。
西の町。南の沼。岩山の麓。
どれも、木札の紙には一度も載らなかった名だ。
俺の帳面の地図が、この板の前でまたひとつ広がっていく。
地図が広がるということは、死に場所も同じだけ広がるということだ。
そのことも、忘れずに端に書き添えておく。
隣で若い銅札が、景気のいい駆除の紙を、音を立てて剥がしていく。
角のある魔物の、日当の高い紙だ。
剥がす手つきに、迷いがない。
自分の腕で獲れると、疑っていない手つきだった。
俺はその横で、隊商護衛の末席の紙を選んだ。
ドルンから西の町まで荷車六台、往復で六日。護衛は頭を入れて五人。
景気の紙の隣で、いちばん地味な紙を剥がす。
この一年で、俺の指はすっかりその剥がし方に馴れた。
護衛は、前からやりたかった仕事だ。
街道見回りの二年間、俺は通り過ぎる護衛たちの形を、ただ眺める側だった。
足の置き方。目の配り方。荷車との間の取り方。
眺めては、頭の帳面へ写した。
写した形が、今日から自分の形になる。
眺める側から、眺められる側へ。
一段だけの移動だが、俺にとっては大きな一段だった。
◇ ◇ ◇
護衛頭はベルガという首の太い男で、俺の札と顔を見比べてから、遠慮なく言った。
「新入りの銅札か。護衛は初めてだな」
「守られる側なら、三日だけ」
「……何だそりゃ」
一年半前、村からドルンへ出てきた馬車の三日間。
俺は荷台の隅からずっと、護衛たちの足の置き方と、目の配り方を眺めていた。
揺れる荷台の上で、他にすることもなかった。
だから、写した。
あの三日が俺の護衛の教本のすべてだと言うと、ベルガは鼻で笑った顔のまま、目だけが真面目になった。
「で、その教本にはなんて書いてある」
「一に隊列、二に眠り。戦うのは仕事の十分の一」
「合格だ。けつの右につけ」
荷車のけつの右は、いちばん地味で、いちばん砂を食う場所だった。
列の後ろは、砂埃と、荷の軋みと、遅れがちな最後尾の馬の機嫌を、まとめて押しつけられる場所だ。
新入りの置き場所として、これ以上正しい場所もない。
だが、地味な場所は、いちばんよく全体が見える場所でもある。
列の全部が、自分の前にある。
前を歩く四人の背も、六台の荷の揺れも、けつの右からなら一目だ。
いい場所をもらったと、俺は思った。
◇ ◇ ◇
出発の朝、荷車六台の並びを、俺は端から順に頭へ入れた。
塩と、布と、西の町へ帰る空の酒樽。
荷の重さで、車輪の沈み方が違う。
重い車が二台目と五台目。ぬかるみで停まるなら、そのどちらかだ。
停まる車が分かっていれば、停まった時に見るべき方角も、先に決まる。
軽い酒樽の車は、風の強い日に横を取られる。それも覚えておく。
荷を知るのも護衛のうちだと、教本の三行目に足した。
仕事は、歩くことと、見ることと、夜番の端に立つことだった。
歩きは、丘の千日で作った歩きがそのまま出る。
半日歩いても足の裏が音を上げないのは、重ねた場数のおかげだ。
昼の休憩には、休憩の作法があった。
五人が一度に休まない。
火から離れる者の順。馬に水をやる間の、車と車の間の立ち位置。
誰かが茶を啜る間、誰かは必ず立って藪を見ている。
休むことにまで順番があるのだと、初めて知った。
どれも初めて見る形なのに、半分は知っている形だった。
街道見回りの二年間が、思わぬところで下敷きになっている。
◇ ◇ ◇
兎の依頼と違うのは、背中に守るものがあることだった。
商人たちの目は、荷と同じで重い。
俺が藪に目をやるたび、荷台の親父の息が半拍止まるのが分かる。
狩りでは、誰の息も俺の背にはかからなかった。
守る仕事は、他人の息の重さごと背負って歩く仕事だ。
三日目の晩に、その親父が干し杏をひとつくれた。
「あんた、目の配り方が年寄りみたいだね」
褒め言葉として、受け取っておいた。
銅貨にはならないが、干し杏ひとつは、信用がひとかけら回ってきた印だ。
そのひとかけらを、俺は大事に口へ入れた。
甘みが、六日の砂埃を少しだけ流した。
◇ ◇ ◇
守る側の緊張は、狩る側の緊張と、筋の張る場所が違った。
狩る側は、来る一瞬に向けて張る。
守る側は、来ない時間の全部に、薄く張り続ける。
前世で、大事な取引先の隣に、半日座り続けた日を、少し思い出した。
何も起こさないために、ずっと気を張っていた、あの疲れ方に似ていた。
ただ、あのときの緊張は、期末が来れば数字ごと消えた。
この六日ぶんの緊張は、消えずに皿へ落ちる。
そこだけが、違う。
だから六日ぶん、丁寧に張っておいた。
薄く長く張る筋も、鍛えれば太くなる。太くなれば、長く張っても切れない。
夜番の端は、火の届かない闇との境目だ。
闇の側に立って、火の側を守る。
夜は冷えて、外套の襟から首筋へ、峠の風が入ってきた。
夜の音の勘定は、灰羽の森で覚えた形が、そのまま使えた。
鳥が黙る間。風の変わり目。馬の耳の向き。
森の当たり前を、街道の当たり前に置き換えるだけでよかった。
夜が更けると、雲が切れて、峠の上に星が出た。
村の丘で数えたのと、同じ数の星だ。
場所は変わっても、頭の上の当たり前は変わらない。
その当たり前を背にして、俺は火の側の眠りを守った。
結局、何も出なかった。
何も起きない六日を、何も起こさせなかった六日にするのが護衛の腕だと、ベルガは言った。
爺の匂いのする言葉だった。
◇ ◇ ◇
西の町では、荷下ろしの半日だけ自由になった。
俺は町を一周歩いて、門の数と、井戸の場所と、組合の出張所を頭に入れた。
門は三つ。井戸は広場と、裏通りに一つずつ。
出張所は、南門の内側。困った時に駆け込める場所を、先に一つ持っておく。
使う日が来るかは、知らない。
来た日に、この半日が効く。
新しい町へ入ったら、まず逃げ道と水場を覚える。
それは、兎場で覚えた癖だ。狩り場でも、町でも、根は同じだった。
精算の席で、ベルガは俺の札に目を落としてから、付け足した。
「おまえ、歩き方が兎場の歩き方だな。足音の減らし方で分かる。護衛は足音を消すな、消すのは気配のほうだ。……次も出るなら、指名で呼ぶ」
足音と気配は別のものだと、このとき初めて教わった。
足音は、地面に出る音だ。
気配は、相手の頭の中に立つ影だ。
狩りは、両方消す。
護衛は、足音を残して、荷を狙う目にだけ、影を立てない。
半分も分からなかったが、分からないままの形で帳面に写した。
分かる日の俺への、預けものだ。
兎二十三体は、護衛の足まで作っていたらしい。
地力というものは、思わぬ棚から出てくる。
◇ ◇ ◇
帰りの街道で、俺は自分の二年前を、何度も思い出した。
荷台の隅で護衛を見上げていた小僧が、いま荷台の脇を歩いている。
二年。人に語れば、鼻で笑われる歩みだろう。
あの若い銅札なら、二年で銀札に届くのかもしれない。
だが俺の帳面では、あの荷台からこの持ち場までの一段一段が、全部埋まっている。
飛ばした段が、ひとつもない。
それが俺の、唯一の自慢だ。
速さは、人に譲る。
埋まった段の数だけは、誰にも譲らない。
帳面に書く。
守る側の筋、ひとつ。
足音と気配は別々に扱うこと、ひとつ。
指名の約束が、ひとつ。




