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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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20/52

20 一年

初夏に実績点が規定に届いて、俺は銅札の試験を受けた。


試験の朝も、日課は変えなかった。


夜明け前の空き地で百を振り、足運びをさらい、それから組合へ歩いた。


特別な日を特別に扱うと、体の調子が狂う。試験も依頼も、俺には同じ一日だ。


試験の広間には、受験者が俺を入れて四人いた。


二年目の顔見知りがひとりと、知らない顔がふたり。


顔見知りは青い顔で何度も掌の汗を拭き、知らない顔のひとりは待ち時間じゅう喋り続けていた。


緊張の出方は人それぞれで、どれも悪いことではない。


俺はと言えば、待ち時間に膝の力の抜き具合を確かめていた。


緊張はある。ただ、恐怖と同じで、置き場所が決まっている。


命のやりとりに比べれば、落ちてもまた受けられる試験など、置き場所に困る相手ではない。


試験はふたつ。帳面の審査と、試験官との模擬打ちだ。


審査はネラの帳面がそのまま通った。


兎二十三体、傷なし。見回り四十七回、報告の不備なし。薬草の納品、等級落ちなし。


読み上げられると、我ながら地味の見本市みたいな一年だった。


広間の隅で聞いていた誰かが小さく笑ったくらいだ。


笑い声のほうは見なかった。帳面のこの地味さが、俺の一年の正確な形だ。恥じる場所がどこにもない。


審査官は読み上げの最後に、傷の欄をもう一度指でなぞった。


二年目の木札で、傷の届けが一枚もないのは珍しいのだそうだ。


運か、と訊かれた。


運もあります、と答えた。半分は本当だ。残りの半分は、背伸びをしなかったぶんの当たり前で、当たり前は自慢にならない。


審査官は何かを書き足して、次、と言った。


それだけの審査だった。一年半が四半刻で読み終わる。


読み終わられても減らないのが、俺の一年半のいいところだ。


模擬打ちの相手は、組合付きの銀札だった。


木剣を合わせて、三十秒で三本取られた。


一本目は正面から力で割られた。二本目は誘いに乗った足を払われた。三本目は、何をされたのかいまだに分からない。


当たり前だ。銀札というのはそういう生きものだと、爺で知っている。


この試験は勝ち負けを見ない。崩れ方を見る。


取られたあとに足が乱れるか。頭に血が上るか。三本目のあとも同じ構えに戻れるか。


一本目の力の割られ方は、途中までは受け流せていた。


半寸ずらして地面へ捨てる、あの受け流しだ。捨てきる前に、力の残りが俺の手首ごと持っていった。


銀札の一撃は、流しても流しきれない目方が残る。


二本目の誘いは、誘いと分かっていた。


分かっていて、足が出た。分かることと止まれることの間に、まだ段がいくつもある。


三本目は、目の前から木剣が消えて、次の瞬間に俺の籠手を打っていた。


俺は同じ構えに戻った。


千日、同じ構えに戻る稽古だけをしてきた男だ。


ついでに、三本ぶんの取られ方を頭の帳面に写した。分からなかった三本目は、分からなかったという形のまま写した。


いつか分かる日が来る。来たとき、この頁が効く。


三本のあいだ、広間の壁際に見物が並んでいた。


三十秒で三本なら、見世物としては上出来の負けっぷりだったと思う。


だが俺の帳面では、今日の三本は一年でいちばん高くついた買い物だ。


銀札の目方。誘いの形。見えない三本目。


銅貨では買えない三頁を、試験料の銀貨一枚で仕入れた。


試験官は木剣を下ろして、審査の紙に何かを書き、それから世間話みたいに言った。


「おまえ、あと十年やめるなよ」


「やめません」


「だろうな。そういう体つきだ」


試験官と入れ替わりに、次の受験者が広間へ呼ばれていった。


あの喋り通しだった男だ。すれ違いざま、勝てたか、と小声で訊かれた。


三本取られました、と正直に答えたら、男の顔から強張りがひとつ抜けた。


誰かの負けは、誰かの薬になる。負けの使い道がまたひとつ増えた。


銅札は、木札より少しだけ重かった。


銅の分だけの重さのはずだが、掌に載せると一年ぶんの重さがした。


窓口でネラが札を渡しながら、にやりと笑った。


「長生きしなよ、銅札」


「そのつもりです」


俺は木札を返した。一年半、腰にあった木片は、返すとき少しだけ名残惜しかった。


組合を出ると、夕方の広場に市の残りの声があった。


銅札になった日も、街はいつもどおりだった。それがよかった。


夜明けの空き地では、荷車引きの爺さんが荷の縄を締めていた。


銅札を見せると、爺さんは、ほう、と言って、それから隅の稽古場所を顎で指した。


明日からも使え、という意味らしい。


札が変わっても、朝の百振りの場所は変わらない。それがいちばんの祝いだった。


納屋主の一家には、汁物の礼に兎を一羽届けた。


末の娘に、銅札すごい、と言われた。すごいのは札ではなく毎日のほうだと言いかけて、やめた。


六つの子供に通じる話ではないし、通じる日が来るなら、それはこの子が何かを自分の手で覚え始めた日だ。


◇ ◇ ◇


その晩、俺は生まれて初めて、爺に手紙を書いた。


字は下手だ。


この体で字を書く稽古は、恥ずかしながら帳面の隅でしかやってこなかった。


紙を三枚無駄にして、四枚目でやっと形になった。


それでも書くことは最初から決まっていた。


銅札になりました。兎二十三体。牙犬一頭。針の先だった灯りは、豆粒になりました。


増えています。減っていません。


それだけ書いて、翌朝の街道便に預けた。


北へ行く隊商の御者が、宛先を見て、トゥーレなんて村に届くのかね、と笑った。届く。あの村には、届くのを待っている偏屈な年寄りがひとりいる。


書かなかったことも、いくつかある。


ロイクの右手のこと。バレンに声をかけられたこと。推薦を断って、それでも状をもらったこと。


爺はたぶん、書かれていない行のほうを読む人だ。


増えています、減っていません、の二行で、あの人には千日ぶん伝わる。


九文字で伝わる相手を持っていることが、この世界で俺のいちばんの財産かもしれない。


手紙を預けた帰りに、掲示板の前を通った。


明日からは、板の真ん中の段に手が届く。


銅札の依頼は、字の並びからして違う。護衛。調査。群れ討伐。行き先も、報酬も、死に方の種類も、木札の下段とは桁が変わる。


怖さはある。あるのが正しい。


怖さの隣に、二年ぶんの手応えがある。それも正しい。


俺は真ん中の段の紙をひととおり目で読んで、剥がさずに帰った。


初日は明日だ。今日の分の稽古は、もう済んでいる。


納屋の二階に戻って、俺は久しぶりに頭の中の帳面を最初のページからめくった。


六つの春の、納屋の裏の一振り目。


丘の千日。牙犬の冬。出立の朝。ドルンの一年。


場数と、型と、豆粒の灯り。


全部ある。一段も欠けずに全部ある。


前世の三十五年で、俺が築いたものは何度も崩れ落ちた。


九年の剣道が消え、数字が消え、体が消えた。


あの頃の俺に教えてやりたい。


身につけたものが消えない世界は、あるところにはある。


そしてそこでは、おまえの取り柄だと誰にも言われなかったあの粘りが、そのまま強さの別名になる。


明日からは銅札の依頼が取れる。


森の奥。護衛。群れもの。


バレンの言った「見る奴が増える」も、明日から始まる。伏せ方の稽古も一緒に始めればいい。


帳面の白い頁は、まだ厚い。


俺は毛布にくるまって、いつもの締めの儀式をした。


今日得たものを数える。銅札がひとつ。手紙がひとつ。決意が、変わらずひとつ。


焦らない。休まない。死ぬまで重ねる。


俺の札は木でも銅でもなく、毎日だ。

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