20 一年
初夏に実績点が規定に届いて、俺は銅札の試験を受けた。
試験の朝も、日課は変えなかった。
夜明け前の空き地で百を振り、足運びをさらい、それから組合へ歩いた。
特別な日を特別に扱うと、体の調子が狂う。試験も依頼も、俺には同じ一日だ。
試験の広間には、受験者が俺を入れて四人いた。
二年目の顔見知りがひとりと、知らない顔がふたり。
顔見知りは青い顔で何度も掌の汗を拭き、知らない顔のひとりは待ち時間じゅう喋り続けていた。
緊張の出方は人それぞれで、どれも悪いことではない。
俺はと言えば、待ち時間に膝の力の抜き具合を確かめていた。
緊張はある。ただ、恐怖と同じで、置き場所が決まっている。
命のやりとりに比べれば、落ちてもまた受けられる試験など、置き場所に困る相手ではない。
試験はふたつ。帳面の審査と、試験官との模擬打ちだ。
審査はネラの帳面がそのまま通った。
兎二十三体、傷なし。見回り四十七回、報告の不備なし。薬草の納品、等級落ちなし。
読み上げられると、我ながら地味の見本市みたいな一年だった。
広間の隅で聞いていた誰かが小さく笑ったくらいだ。
笑い声のほうは見なかった。帳面のこの地味さが、俺の一年の正確な形だ。恥じる場所がどこにもない。
審査官は読み上げの最後に、傷の欄をもう一度指でなぞった。
二年目の木札で、傷の届けが一枚もないのは珍しいのだそうだ。
運か、と訊かれた。
運もあります、と答えた。半分は本当だ。残りの半分は、背伸びをしなかったぶんの当たり前で、当たり前は自慢にならない。
審査官は何かを書き足して、次、と言った。
それだけの審査だった。一年半が四半刻で読み終わる。
読み終わられても減らないのが、俺の一年半のいいところだ。
模擬打ちの相手は、組合付きの銀札だった。
木剣を合わせて、三十秒で三本取られた。
一本目は正面から力で割られた。二本目は誘いに乗った足を払われた。三本目は、何をされたのかいまだに分からない。
当たり前だ。銀札というのはそういう生きものだと、爺で知っている。
この試験は勝ち負けを見ない。崩れ方を見る。
取られたあとに足が乱れるか。頭に血が上るか。三本目のあとも同じ構えに戻れるか。
一本目の力の割られ方は、途中までは受け流せていた。
半寸ずらして地面へ捨てる、あの受け流しだ。捨てきる前に、力の残りが俺の手首ごと持っていった。
銀札の一撃は、流しても流しきれない目方が残る。
二本目の誘いは、誘いと分かっていた。
分かっていて、足が出た。分かることと止まれることの間に、まだ段がいくつもある。
三本目は、目の前から木剣が消えて、次の瞬間に俺の籠手を打っていた。
俺は同じ構えに戻った。
千日、同じ構えに戻る稽古だけをしてきた男だ。
ついでに、三本ぶんの取られ方を頭の帳面に写した。分からなかった三本目は、分からなかったという形のまま写した。
いつか分かる日が来る。来たとき、この頁が効く。
三本のあいだ、広間の壁際に見物が並んでいた。
三十秒で三本なら、見世物としては上出来の負けっぷりだったと思う。
だが俺の帳面では、今日の三本は一年でいちばん高くついた買い物だ。
銀札の目方。誘いの形。見えない三本目。
銅貨では買えない三頁を、試験料の銀貨一枚で仕入れた。
試験官は木剣を下ろして、審査の紙に何かを書き、それから世間話みたいに言った。
「おまえ、あと十年やめるなよ」
「やめません」
「だろうな。そういう体つきだ」
試験官と入れ替わりに、次の受験者が広間へ呼ばれていった。
あの喋り通しだった男だ。すれ違いざま、勝てたか、と小声で訊かれた。
三本取られました、と正直に答えたら、男の顔から強張りがひとつ抜けた。
誰かの負けは、誰かの薬になる。負けの使い道がまたひとつ増えた。
銅札は、木札より少しだけ重かった。
銅の分だけの重さのはずだが、掌に載せると一年ぶんの重さがした。
窓口でネラが札を渡しながら、にやりと笑った。
「長生きしなよ、銅札」
「そのつもりです」
俺は木札を返した。一年半、腰にあった木片は、返すとき少しだけ名残惜しかった。
組合を出ると、夕方の広場に市の残りの声があった。
銅札になった日も、街はいつもどおりだった。それがよかった。
夜明けの空き地では、荷車引きの爺さんが荷の縄を締めていた。
銅札を見せると、爺さんは、ほう、と言って、それから隅の稽古場所を顎で指した。
明日からも使え、という意味らしい。
札が変わっても、朝の百振りの場所は変わらない。それがいちばんの祝いだった。
納屋主の一家には、汁物の礼に兎を一羽届けた。
末の娘に、銅札すごい、と言われた。すごいのは札ではなく毎日のほうだと言いかけて、やめた。
六つの子供に通じる話ではないし、通じる日が来るなら、それはこの子が何かを自分の手で覚え始めた日だ。
◇ ◇ ◇
その晩、俺は生まれて初めて、爺に手紙を書いた。
字は下手だ。
この体で字を書く稽古は、恥ずかしながら帳面の隅でしかやってこなかった。
紙を三枚無駄にして、四枚目でやっと形になった。
それでも書くことは最初から決まっていた。
銅札になりました。兎二十三体。牙犬一頭。針の先だった灯りは、豆粒になりました。
増えています。減っていません。
それだけ書いて、翌朝の街道便に預けた。
北へ行く隊商の御者が、宛先を見て、トゥーレなんて村に届くのかね、と笑った。届く。あの村には、届くのを待っている偏屈な年寄りがひとりいる。
書かなかったことも、いくつかある。
ロイクの右手のこと。バレンに声をかけられたこと。推薦を断って、それでも状をもらったこと。
爺はたぶん、書かれていない行のほうを読む人だ。
増えています、減っていません、の二行で、あの人には千日ぶん伝わる。
九文字で伝わる相手を持っていることが、この世界で俺のいちばんの財産かもしれない。
手紙を預けた帰りに、掲示板の前を通った。
明日からは、板の真ん中の段に手が届く。
銅札の依頼は、字の並びからして違う。護衛。調査。群れ討伐。行き先も、報酬も、死に方の種類も、木札の下段とは桁が変わる。
怖さはある。あるのが正しい。
怖さの隣に、二年ぶんの手応えがある。それも正しい。
俺は真ん中の段の紙をひととおり目で読んで、剥がさずに帰った。
初日は明日だ。今日の分の稽古は、もう済んでいる。
納屋の二階に戻って、俺は久しぶりに頭の中の帳面を最初のページからめくった。
六つの春の、納屋の裏の一振り目。
丘の千日。牙犬の冬。出立の朝。ドルンの一年。
場数と、型と、豆粒の灯り。
全部ある。一段も欠けずに全部ある。
前世の三十五年で、俺が築いたものは何度も崩れ落ちた。
九年の剣道が消え、数字が消え、体が消えた。
あの頃の俺に教えてやりたい。
身につけたものが消えない世界は、あるところにはある。
そしてそこでは、おまえの取り柄だと誰にも言われなかったあの粘りが、そのまま強さの別名になる。
明日からは銅札の依頼が取れる。
森の奥。護衛。群れもの。
バレンの言った「見る奴が増える」も、明日から始まる。伏せ方の稽古も一緒に始めればいい。
帳面の白い頁は、まだ厚い。
俺は毛布にくるまって、いつもの締めの儀式をした。
今日得たものを数える。銅札がひとつ。手紙がひとつ。決意が、変わらずひとつ。
焦らない。休まない。死ぬまで重ねる。
俺の札は木でも銅でもなく、毎日だ。




