2 消えない朝
生まれ直した先は、トゥーレという山あいの村だった。
畑と、羊と、森。それがこの村のぜんぶだ。
谷あいの斜面に麦と芋の畑が段になって並び、その上の草地で羊が草を食み、そのまた上を黒い森が蓋をしている。
家は石積みに藁葺きで、夜は囲炉裏がひとつ。父は畑を耕し、母は羊の毛を紡ぎ、上に兄が二人いる。
俺は農家の三男坊で、名前をルドという。
前の世界の記憶は、物心がつく頃には全部そろっていた。
最初は夢だと思っていた。
囲炉裏の火を見ていると、知らない部屋の白い天井やら、駅の雑踏やら、竹刀の音やらが頭の奥で勝手に流れる。
三つの冬を越えるあたりで、それが夢ではなく順序のある記憶だと分かって、四つの頃には勘定が合った。
俺は倉田巧として三十五年生きて、駅の階段で死んで、ここで生まれ直した。取り乱さなかったのは、幼い体のおかげだと思う。
子供の頭は今日の飯と今日の遊びで手一杯で、絶望に割く場所がもともと狭い。
剣と魔法がある世界らしい、と分かったのは五つのときだ。
行商人が村の広場で、東の街道に出た魔物を冒険者が退治した話をしていた。魔物。冒険者。
囲炉裏端のおとぎ話ではなく、大人たちが麦の値段と同じ顔で話す、ただの世間話としてそれはあった。
母に訊くと、森の奥へ行ってはいけない理由と一緒に、短く教えてくれた。魔物は湧くもので、冒険者は狩るもの。
村の暮らしからは遠い、街道の向こうの話だと。
俺が木の枝を振り始めたのは六つのときだ。
きっかけは大したことではない。兄たちの棒切れ遊びに混ぜてもらって、負けて、悔しかった。それだけだ。
上の兄は六つ上、下の兄でも三つ上で、体の差を考えれば負けて当たり前なのだが、下の兄の雑な横振りにいいようにあしらわれた瞬間、腹の底で古い何かが疼いた。
ただ枝を握った瞬間に、手のひらが前世を思い出した。
九年ぶんの記憶が手の内から流れ込んできて、俺は誰に教わるでもなく、素振りというものを始めていた。
前世の型は覚えている。だが六つの体は言うことを聞かない。腕は上がらず腰は据わらず、十回も振れば息が切れる。
まあそうだろうと思った。焦りはなかった。やり方なら知っている。毎朝、鶏より先に起きて、納屋の裏で枝を振る。
それだけを決めて、それだけをやった。
百振り、と決めたのには理由がある。六つの体で形を崩さずに振れる数が、そのあたりまでだったからだ。
数だけ増やして形が崩れれば、崩れた形のほうが身につく。それは前世の道場で嫌というほど教わった。
疲れて雑になった百一振り目は、明日の雑を仕込む一振りになる。だから百で止める。止めるのも稽古のうちだ。
物足りなさを抱えたまま朝飯の麦粥をかき込む六つの子供を、家族は最後まで不思議そうな目で見ていた。
ひと月経った頃、俺は妙なことに気がついた。
昨日の稽古が、今日もそのまま残っているのだ。
言葉にすると当たり前に聞こえる。だが体を鍛えたことのある人間なら分かるはずだ。稽古というものは行きつ戻りつする。
昨日つかんだ手の内の感覚が今朝は消えている。三日空ければ体は平気で三日ぶん忘れる。前世の九年はその繰り返しだった。
二歩進んで一歩下がる。下がった一歩を取り返すのにまた汗をかく。それが稽古というものの当たり前だ。
その、一歩下がる、がない。
昨日直した手の内は今朝もそのまま手の中にある。三日前にやっと通った腰の据わりは、三日経っても寸分そのままそこにある。
半信半疑で、確かめもした。
わざと五日、枝を握らずに過ごした。六日目の朝の一振り目が、五日前の最後の一振りと同じところから始まった。
雨が続いて足場の取れなかった十日のあとも同じだった。熱を出して寝込んだ七日のあとも同じだった。
筋の力はさすがに落ちるだろうと思ったら、それも落ちない。
手のひらの豆の下の、振り込んだ筋の張りが、寝込む前のまま静かにそこにある。
体は確実に一段だけ上がって、その段から二度と降りない。
ふた月目に、もう一度だけ兄たちの遊びに混ぜてもらった。下の兄の横振りが、来る前から見えた。
避けて、擦れ違いに脛を打って、それきり俺は棒切れ遊びに誘われなくなった。
六つの弟にしてやられたのが、よほど悔しかったらしい。悪いことをしたと思う半分、胸の中で静かに算盤を弾いた。
ひと月と少しの素振りで、三つ上との差がこれだけ詰まる。この体は、本物だ。
最初は子供の体だからかと思った。子供は覚えが早い。だが違う。覚えが早いのではない。
俺の伸びは前世の子供の頃と比べてもむしろ遅いくらいだ。同じ直しを体に入れるのに、前世の倍は振り込まないと入らない。
一段上がるのに人の倍かかる。
ただ、上がった段から絶対に落ちない。
それが分かってから、俺は村の子の一日を組み替えた。村の子の一日は仕事で埋まっている。水汲み。羊追い。薪運び。
俺はそのぜんぶを稽古に数え直した。水桶は左右で持ち替えて釣り合いの稽古。羊追いの山道は足運びの稽古。
薪の背負子は腰の稽古。どうせやる仕事なら、稽古を兼ねてやる。
前世の営業回りでは靴の底しか残らなかった歩きが、この体では一歩ずつ腰の据わりに変わっていく。
それが嬉しくて、俺は仕事を露骨に取りに行く妙な子供になった。親には働き者と誤解されたが、訂正はしなかった。
夜は夜で、囲炉裏の隅が俺の時間だった。母の紡ぎ車の音を聞きながら、その日の体の変わり目を頭の中でさらう。
今日は左足の親指の付け根に、昨日までなかった踏み応えがあった。水桶の右持ちと左持ちで、腰の返りに差が出る。
明日はそこを揃える。誰にも見えない帳面に、誰にも見えない字でつけていく。
前世では日報というものを何千枚も書かされたが、あれと違ってこの帳面は、書いた一行が一行も無駄にならない。
季節がひと回りするごとに、帳面の頁は厚くなった。春は雪解けのぬかるみで足場の稽古。夏は日の長さのぶん振り込みを足す。
秋は収穫の力仕事で背中と腰。冬は納屋の狭さで、狭いなりの小さい足運び。
同じ村の同じ一年が、俺には毎年違う稽古場だった。
七つの俺は六つの俺より確実に強く、それがどれほどあり得ないことか知っているのは、この村で俺ひとりだけだった。
半年経って、一年経って、俺は納屋の裏で一人、確信に変わったそれを胸の中で転がしていた。
前世の九年で骨の髄まで知っている。こんなことはあり得ない。築いたものは崩れる。崩れるのが当たり前だ。
その当たり前が、この体にはない。
誰が何のためにそうしてくれたのかは分からない。神様の顔なんて見ていない。声も聞いていない。
死んでから生まれるまでの長い暗がりに、何かの気配があった覚えもない。
だが死ぬ間際に願ったことを、俺は一言も忘れていなかった。
積んだものが消えない人生を、一度でいいからやってみたかった――。
あの朝の階段で、生涯でいちばん本気で願ったことが、そっくりそのまま体になってここにある。
偶然だと言われたら返す言葉はない。だが偶然でも何でも、賽の目がこう出たのなら、俺のやることはひとつしかない。
枝を握り直して、俺はその朝も素振りを始めた。振るたびに、この一振りは消えない、と思った。
今日の百振りは明日の俺の中に百振りぶん残る。明日の百振りはその上に重なる。崩れない台の上に、一段ずつ、死ぬまで。
振り終わる頃、東の尾根から日が出て、納屋の壁が朱く染まった。
気がつくと俺は笑っていた。
六つの餓鬼が納屋の裏で枝を振りながらにやにや笑っているのだから、いま思えば相当に不気味だったと思う。
実際、水汲みに出た母と目が合って、心配そうな顔をさせた。何でもないよ、と俺は答えた。何でもなくはない。
ただ、話しても仕方がないだけだ。
この体質に名前がつくのは、もう少し先のことになる。




