1 積み木
努力というものは積み木に似ている。
積むのはいつも自分で、崩すのはいつも自分以外の何かだ。
最初にそれを知ったのは十七の夏だった。
剣道を始めたのは小学三年のときで、才能があったとは言わない。
近所の道場の体験会で竹刀を持たされて、生まれて初めての面を打たせてもらって、それだけのことがなぜか嬉しくて、帰り道で母に入りたいと言った。
ただ好きだった。
道場の床の冷たさも、面金の奥の狭い視界も、竹刀の重さが手に馴染んでいく感じも、昨日できなかった打ちが今日できるようになる、あの一段ずつ階段を上っていくような感覚も。
通い始めの頃の俺は弱かった。体は細く、動きは鈍く、同い年の連中に打たれて泣きながら帰る側だった。
それでも辞めなかったのは、数えるのが好きだったからだと思う。今日は素振り三百本。今日は切り返し二十往復。
帳面の端に正の字を書いて、数えたぶんだけ、負けるまでの時間が少しずつ延びていった。
小六で市の大会で初めて一本勝ちした。中学では団体の五番を任された。
高校では稽古量だけならどの部員にも負けなかったと言い切れる。
高二の冬には県の上位に手が届くところまで来ていた。九年かけて、一段ずつ上ってきた。
誰に恥じることもない歩き方だったと今でも思う。
十七の夏、部活の帰りに交差点で車に撥ねられた。
信号は青だった。それだけはいまでも覚えている。自転車ごと撥ね飛ばされて、次に覚えているのは病院の白い天井だ。
膝と腰をやった。医者は日常生活には戻れますと言った。日常生活には、だ。
竹刀を握って踏み込む生活は、そこに含まれていなかった。左膝は曲がる角度に限りが残り、腰は長く立っていると痺れた。
一年のリハビリで人並みに歩けるようにはなった。人並みに、だ。
リハビリの一年も、俺は数えて過ごした。曲がらない膝が今日は何度まで曲がったか。廊下を何往復歩けたか。
理学療法士は感心してくれたが、この数え方が悲しいのは、高くしているのではなく、崩れた山からいくつ拾い直せたかを数えているところだ。
拾い直した欠片は、元の高さには二度と届かなかった。
退院して一度だけ、道場に顔を出した。
床の冷たさは同じだった。竹刀の重さも同じだった。
構えて、いつもの癖で踏み込んで、膝が抜けて、俺は打ち込み台の前で無様に転んだ。誰も笑わなかった。
師範は黙って肩を貸してくれて、その静けさが何よりこたえた。その日を最後に、俺は防具袋を押し入れの奥にしまった。
九年かけて重ねたものは病室の天井を眺めているあいだに音もなく崩れて、俺の手元に残っていたのは、下の一段か二段くらいのものだった。
山は崩れる。自分のせいでなくても崩れる。
それでも俺は、重ねるのをやめられない性分だった。
大学では体を使わないものをと思って資格の勉強に打ち込んだ。法律と簿記。
深夜のファミレスで問題集を三周して、覚えた条文の数をまた正の字で数えた。
数えている間だけは、道場の階段を上っていたあの感覚に少しだけ戻れた。二つ受かった。
就職の面接では頑張り屋だと褒められた。
その資格が配属の都合で一度も使われないまま、更新の切れる年に無効になったことは、誰も教えてくれなかった。
就職してからは営業の数字を追った。倉田巧という名前の、どこにでもいる社会人だ。
朝礼で数字を読み上げられ、壁の棒グラフが伸びたり縮んだりするだけの毎日でも、やると決めたら俺はやる。
靴の底を減らして、頭を下げて、断られた軒数を数えて、断られ方の癖を覚えて、次に活かす。頑張り屋だと言われた。
実際頑張ってはいたのだと思う。
やり方は前世でも変わらなかった、と言うべきか。
断られた家の玄関の色を覚えて、応接に釣りの写真があれば次は餌の話から入って、雨の日にしか在宅しない親父のところへは雨の日に行く。
同期が要領と愛想で取る数字を、俺は軒数で取った。夜の事務所で日報を書きながら、今日回った軒数をまた正の字で数える。
あの頃の俺の手柄は、我ながらいじらしいくらい小さくて、それでも数えている間だけは、床の冷たい道場で階段を上っていた頃と同じ呼吸ができた。
だがどれだけ重ねても、それは俺の手の届かないところで崩された。
営業の数字は期末が来るたびにゼロに戻った。
三年通い詰めて、先方の担当の子供の名前まで覚えて、ようやく開いた取引先は、組織替えのひと言でよその担当になった。
任される、と言えば聞こえはいいが、要するに更地に飛ばされて一からやり直しだ。それを五回やった。
六回目の更地のことは、いまでも夢に見る。
二年育てた案件が、あと判子ひとつというところまで来た月に、会議の席次から俺の名前だけが消えていた。
成約の報せは後輩の名前で回覧された。上司は打ち上げの席で笑って言った。チームの手柄だ、細かいことを言うな。
俺は文句ひとつ言わなかった。言う気力が残っていなかったというほうが正しい。
その晩、家に帰って、何年ぶりかで押し入れの防具袋を開けた。何がしたかったのかは自分でも分からない。
面金は曇り、籠手は石みたいに硬くなって、俺の九年はそこで黴の匂いになっていた。
体は、とっくに悲鳴を上げていた。
健康診断の紙に並ぶ数字が年々悪くなっていくのを、他人の成績表みたいに眺めていた。鍛え直そうと何度か思った。
だが三十を過ぎた体は、重ねるそばから崩れていく。
二週間走って少しましになった心肺は、繁忙期をひとつ越えると元より悪くなっていた。
駅の階段で若い奴に追い抜かれて、息を整えるふりをして踊り場で立ち止まる。若い頃は、やったぶんは残った。
歳を取るというのは、土台そのものが傾いていくことなのだと知った。
三十四の年の暮れに、道場の師範が死んだと風の便りに聞いた。八十二だったという。通夜には行けなかった。
行けない理由が繁忙期というのが、我ながら情けなかった。
夜中の帰り道、誰もいない公園の街灯の下で、鞄を提げたまま右手だけで素振りの真似をした。一振り、二振り、三振り。
膝が笑って、腰が軋んで、四振り目はやめた。
九年が一段二段まで崩れた話は前にしたが、三十四のその夜に残っていたのは、一段の欠片くらいのものだった。
師範の言葉で覚えているのは、稽古は裏切らない、のひとつだ。あの人は正しかった。裏切るのは稽古ではない。
稽古の外側にいる、ありとあらゆる何かだ。
三十五の冬の朝、駅の階段で心臓が止まった。
いつもの月曜だった。いつもの満員電車に間に合う、いつもの階段だった。
駆け上がる途中で、胸の真ん中を冷たい万力で締め上げられた。鞄が先に落ちて、留め金が開いて、書類が階段に白く散った。
拾わなきゃ、と思った。倒れる人間が最後に考えることにしては、我ながらつまらない心配だった。
倒れながら、痛みより先に思ったことを覚えている。
ああ、また崩れた、と。
人の足音と悲鳴が遠くなっていく中で、俺は生涯でいちばん本気の勘定をした。九年の剣道は事故で消えた。
資格は使われないまま切れた。数字は六回更地にされた。健康は仕事と歳に削り取られた。
俺が重ねたものは全部、俺のせいじゃないところで崩れていった。やり方が悪かったのなら諦めもつく。
だがやり方なら、九つの冬から死ぬ今日のこの朝まで、一度も間違えた覚えがないのだ。
一度でいい。
積んだものが消えない人生を、一度でいいからやってみたかった。
崩れない台の上で、誰にも横取りされず、病気にも歳にも削られず、死ぬまでただ重ねてみたかった。
重ねたぶんだけ高くなる。ただそれだけの当たり前が、一度でいいから欲しかった。
それだけ思って、暗くなった。
長いあいだ暗かった。
どれほど長かったのかは分からない。暗さに慣れた頃、遠くで火の爆ぜるような音がして、藁の匂いがして、誰かのあやす声がした。
次に覚えているのは、その藁の匂いと、囲炉裏の火の音と、自分のものとは思えない細い泣き声だった。




