18 森の奥
三日目の帰り道で、牙犬の群れに遭った。
五頭だった。
薬草を満載した俺の背負い籠が匂うのか、群れは朝からつかず離れず、藪の向こうを並んで歩いていた。
最初に気づいたのは弓手で、次が俺だった。
右手の藪の、鳥の黙り方がおかしい。浅場で覚えた当たり前は、海でもちゃんと物差しになった。
弓手が指を二本立て、それから開いて五本にした。
声はない。指だけで、群れ、五、が隊に回る。
俺の心の臓は正直に跳ねていた。跳ねながら、頭の隅の点検屋が数を勘定している。
五頭。こちらは戦い手が四人と、荷持ちが一人。
群れの足は、こちらの歩きより速い。追いつかないのは、追いついていないのではなく、まだ間合いを計っているからだ。
計り終えたときが、来るときだ。
なら、計り終える前にこちらが場所を選ぶ。ガッシュの背中は、最初からそう動いていた。
ロイクの岩犬は、三頭に見えて六頭だった。見えている五を五と思うな。
あの見舞いの日の講義が、こんなに早く効くとは思わなかった。
ガッシュは足を止めなかった。
止まれば囲まれる。
群れは足の遅い獲物を選ぶ。だから足を遅くしない。歩く速さを変えずに、圏の外へ出るか、受けるに向いた場所まで持っていく。
開けた河原まで出て、そこで受けると決めて、隊は歩く速さのまま陣形だけを変えていった。
列の変わり方は、見事に静かだった。
声はほとんど出ない。ガッシュの顎と目配せだけで、盾が前に、弓が高みに、槍が脇に流れていく。
俺の持ち場は隊の背中側、荷を積んだ真ん中だ。
仕事はふたつ。荷を守ることと、背後の一頭を「来た」と叫ぶこと。
戦うことは仕事に入っていない。木札の下働きとはそういうものだ。
河原までの半刻は、生涯で一番長い半刻のひとつになった。
群れは藪の中を並走しながら、少しずつ距離を詰めてくる。
俺は列の真ん中で、荷の紐を握り直し、教わった掟を胸の中で唱えた。
列を離れるな。勝手に戦うな。荷を捨てるな。
掟が三つしかない理由が、いまなら分かる。頭に血が上った人間に、四つ目は覚えていられない。
河原に出た瞬間、群れが来た。
正面の戦いは、見事というほかなかった。
盾持ちが先頭の一頭を真っ向から受け止めて、受けた姿勢のまま半歩も下がらない。
槍が盾の脇から突き出て二頭目の出足を挫き、弓が三頭目の腿を射抜く。
ガッシュの斧は、それらが作った崩れの上にだけ振り下ろされた。
力任せに見えて、一撃も無駄がない。振るのは仲間が作った隙の上だけ。
四人が四人ぶんではなく、ひとつの生きものみたいに戦う。
爺の言った「皿の上に注ぐ剣技」の、そのまた上に「隊」という皿があるのだと、俺は荷の脇で目を見開いていた。
盾の受けの音は、想像と違った。
鈍い衝突音ではなく、乾いた短い音だ。真正面ではなく、ほんの少し斜めに受けて、牙犬の勢いを地面へ流している。
弓手は一の矢を外していた。
外して、外れた先に二の矢がもう来ていた。一の矢は当てる矢ではなく、走る線を絞らせる矢だったのだ。
斧の止めは一度きりで、二度目の振り上げがない。
二度目の要る一撃を、ガッシュは最初から振らない。
どれもこれも、荷の脇で見ているだけの俺の頭に、燃える速さで刻まれていく。
五頭目は、回り込んで俺に来た。
「後ろ、一頭」
叫びながら、体はもう半身になっていた。
飢えた牙犬。低い出足。三年前の冬の再演だ。
ただし今度の俺は、あの牙の速さを知っている。
間合いの消え方を知っている。恐怖の置き場所が決まっている。
半歩滑って、牙の線から軸を外す。
すれ違いの首筋に、短剣。
一合だった。
打ち終えた姿勢のまま、俺は次を待った。
六頭目。見えている五を五と思うな。
三つ数えて、藪が静かなのを耳で確かめて、それから構えを解いた。
あとで思えば、この三つ数える間が、あの冬の俺との一番の違いだった。
仕留めた直後がいちばん危ない。それを教えてくれたのは、戸板の上のロイクだ。
倒れた牙犬と俺を、振り向いた弓手が二度見した。
戦いが終わってから、ガッシュが河原の石を踏んで歩いてきた。
俺の足元の牙犬と、俺の顔と、抜き身の短剣を順に見た。
「……木札」
「はい」
「兎専門って聞いてたぞ」
「兎で稼いだ足です」
ガッシュは変な顔で笑って、俺の肩を分厚い掌でひとつ叩いた。
叩かれた肩が半日痺れた。あれがあの人の、上出来だという意味らしい。
夜営の火の脇で、ガッシュがひとつだけ訊いてきた。
「おまえ、叫んでから動いたな。逆じゃなく」
「持ち場の仕事が先だったので」
叫ぶのが仕事で、戦うのは仕事の外だ。だから叫びを先に済ませた。それだけのことだった。
ガッシュは、ふん、と鼻を鳴らした。
「戦える奴ほど、叫ぶのを忘れる。手が先に出て、口があとになる。……おまえのは逆だ。妙な躾のされ方をしてやがる」
褒められたのかどうかは、例によって分からない。
だが爺の稽古の一番深いところを、この人は一合見ただけで言い当てていた。
技より先に、順番を仕込まれた。皿より先に、皿の置き場所を躾けられた。
銀札の弟子というのは、そういうことなのだと思う。
群れの残りは、三頭を仕留めたところで散った。
深追いはしない。依頼は薬草で、討伐ではないからだ。
仕留めた分の尻尾だけ回収して、隊はもう歩き出していた。戦いの前とまるで同じ足取りだった。
戦いを日常の側に置いている人間の歩き方だと思った。
俺はしゃがんで、討伐の証の尻尾を切りながら、震えの来ない自分の手を眺めていた。
あの冬、雪の上で吐きながら仕留めた牙犬が、いまは一合になった。
三年ぶんの地力の高さは、こうして命のやりとりの場でだけ、目に見える形になる。
震えないことが、少しだけ寂しいような、それ以上に頼もしいような、妙な夕方だった。
◇ ◇ ◇
帰りの夜営で、焚き火の割り当てがひとつ増えた。
見張りの端ではなく、順番の中に入れられた。
誰も何も言わない。ただ順番の紙切れに俺の名が増えていた。
隊というものの返事は、こういう形で来るらしい。
俺は自分の番の火を守りながら、今日の勘定をした。
群れの追い方をひとつ。列の変え方をひとつ。隊の皿の形をひとつ。牙犬が一合になった物差しをひとつ。
どれも銅貨にならない。どれも銅貨より重い。
火の向こうで、ガッシュの寝息が岩みたいに響いていた。
◇ ◇ ◇
翌日の昼にドルンへ着いて、納品と報告を済ませた。
窓口のネラは、隊の報告書の討伐の欄を読んで、一度だけ顔を上げた。
牙犬五頭のうち一頭、木札ルド、単独一撃。
書いたのはガッシュだ。俺が頼んだわけではない。
「兎の次は牙犬かい」
「向こうから来たので」
「あんた、いつもそれだね」
ネラは笑って帳面を閉じた。
向こうから来たので。思えば牙犬も、一角兎も、この稼業そのものも、みんな向こうから来た。
こちらから取りに行くのは、毎日の稽古だけでいい。
取りに行った稽古が、向こうから来るものを迎え撃つ。この形は、たぶんこの先もずっと変わらない。
その晩は、久しぶりに独りの麦がゆだった。
三日ぶんの隊の飯のあとの独りの飯は、静かで、少しだけ物足りなかった。
物足りなさの正体を、俺は匙を置いて考えた。
背中を預ける相手のいる三日を、俺の体は思いのほか気に入ったらしい。
一人でやる稽古と、隊でやる稽古は、別の皿だ。
別の皿なら、両方に注げばいい。いつものやり方で、いつもの結論に落ちた。
尻尾の割り増しぶんの銅貨で、俺は翌朝、砥石のいいやつを買った。
初めての贅沢が砥石というのは、我ながらどうかと思うが、短剣は喜んでいる気がした。




