14 ロイクの傷
ロイクが担ぎ込まれたのは、雨の午後だった。
俺はたまたま組合の広間にいた。
雨で見回りが流れて、掲示板の前で明日の算段をしていたところに、戸が乱暴に開いた。
銅札の男たちが、戸板を運び込んできた。
戸板の上のものが誰なのか、最初は分からなかった。革鎧が血と泥で黒くなっていたからだ。
名を呼ばれて振り向いた受付の女たちの動きは早かった。
長卓がひとつ空けられ、湯と布が運ばれ、組合付きの薬師が二階から駆け下りてくる。
手慣れていた。手慣れているということが、そのままこの広間の歴史だった。
薬師は右手首の布を切って、傷を一目見て、運んできた銅札たちに短く訊いた。
噛まれてからどれくらいか。血はどれだけ出たか。気を失った時間はあるか。
答えを聞きながら、手はもう洗浄に動いている。
俺は広間の隅で、掲示板の紙を握ったまま立っていた。
手伝えることはない。素人が寄っても邪魔になるだけだ。
それでも目だけは逸らさなかった。傷の形。処置の順番。訊く事柄の並び。
いつか自分か、自分の連れがああなる日のために、見られるものは全部見ておく。
こんなときまで帳面をつけている自分に、少しだけ嫌気が差した。差したが、手は止めなかった。
西の森の奥で、岩犬の群れにやられたのだという。
木札のくせに、と誰かが言った。
銅札向けの駆除を、報酬に目がくらんで受けたわけではないらしい。
ロイクが受けたのは森の浅場の依頼で、群れのほうが浅場まで出てきていた。
運が悪かった、と言えなくもない。
だが浅場に出てくるほど群れが増えていた兆しは、その週の見回り報告に上がっていた。
掲示板の脇に貼り出される注意書きを、あいつが読む男だったかどうか。
注意書きは字が細かい。報酬も武勇伝もない、退屈な紙だ。
退屈な紙を読む稽古は、退屈な依頼でしか身につかない。
命は助かった。
だが右手の腱を噛み切られた。
治癒術というものはこの世界に確かにあって、金貨を並べれば腱もつながるらしい。
街の治癒院の術士は数えるほどで、順番は金貨の額で決まる。貴族と大商人の間に、木札の名前が割り込む隙間はない。
夜講習の婆さんの言葉を思い出した。回路は生まれつきの太さがあり、治癒の術は太い回路の中でも選ばれた者の芸だという。
選ばれた芸は高い。高い芸は、上から順に売れる。
理屈は分かる。分かることと、呑み込めることは別だった。
こういう世界なのだと、俺は帳面の世界の頁に一行書き足した。傷は、銅貨のうちに防ぐものだ。
木札の稼ぎに金貨はない。組合の取り決めで薬代の一部は出るが、出るのはそこまでだ。
ロイクの真新しかった剣は、その週のうちに武具屋の店先に並んだ。
あの登録の日、窓口で高らかに名乗っていた声を思い出す。
道場三年。役付きの父親。あの名乗りのどこにも、嘘はなかったはずだ。
嘘のない名乗りごと、この稼業は一枚の注意書きで足をすくう。
広間の空気で、いちばん怖かったのは静けさだった。
誰も騒がない。誰も驚かない。
気の毒にという顔はするが、それは雨の日に濡れた奴を見る顔で、事故に遭った奴を見る顔ではなかった。
半分は最初の冬で村に帰る。あとの半分のまた半分は、背伸びして森の奥で消える。
あの護衛の言葉は、脅しでも何でもなく、ただの天気の話だったのだ。
その晩、俺は壁の黒枠の貼り紙を、久しぶりに端から読んだ。
ロイクの名前がそこに並ばなかったのは、ただの上振れだ。岩犬の顎が、あと一寸ずれていたら並んでいた。
翌日から、掲示板の前の景色が少しだけ変わった。
注意書きの前に、足を止める木札が増えた。
西の森の依頼が、下段に残ったまま何日も動かなくなった。
三日で元に戻った。
四日目には、残っていた西の森の紙を、新入りが景気よく剥がしていった。
人の恐怖は三日で薄れる。薄れない帳面を持っているのは、この広間でたぶん俺だけだ。
薄れないことが、いつか俺の命を拾う。そう思って、俺は薄れない自分の頭に、あの戸板の景色を丁寧にしまい直した。
◇ ◇ ◇
数日して、俺は安宿に見舞いに行った。
ロイクは左手で芋をかじれる程度には戻っていた。右手は布で吊られたままだ。
俺の顔を見ると、あいつは笑おうとして、しくじって、天井を見た。
「……草むしりが、正解だったのかもな」
「正解はまだ分からない」
俺は持ってきた芋の袋を枕元に置いた。
「けど俺は、明日も草をむしる」
「変わんねえなあ、おまえは」
ロイクは天井を見たまま少し笑った。
「なあルド。俺は焦ったのかな」
焦ったのだと思う。
だがそれを俺が言うことに意味はない。
俺は代わりに、爺の受け売りをひとつだけ置いてきた。
戦いで出るのは積んだものだけで、火事場の力なんてものはどこからも湧かない。
だからやり直せる体が残ったなら、それは負けじゃない。
ロイクは長いこと黙っていた。
それから、掠れた声でぽつぽつと話した。
岩犬は三頭だと思っていたら六頭いたこと。逃げる方向を二度間違えたこと。剣を抜いたまま木に登ろうとして、右手を差し出す形になったこと。
聞きながら、俺は頭の中で群れの円を描いていた。
三頭に見えて六頭。見えている数を信じるなという、銅貨で買えない講義だった。
あいつの語りは、酒場の武勇伝のときと同じ癖で、細部がやたらに具体的だ。
その癖が、いまは武勇伝ではなく遺言みたいに聞こえて、俺は途中から芋を齧るのをやめた。
「なあ。俺の話、つまんねえだろ」
「いや。全部もらってる」
「……変わんねえなあ、おまえは」
帰り際、袋の芋をひとつ左手で取って、投げて寄越した。見舞いの返しだ、と言った。
受け取って、俺は宿を出た。それでいいのだと思う。同情は、あいつのいちばん嫌いな飯だろうから。
宿の階段を降りながら、あいつの右手のことを考えた。
腱は、繋がらなければそれきりだ。剣はもう握れないかもしれない。
だが左手は無事で、足も目も声も残っている。
打ち込む場所が変わるだけで、できなくなったわけではない。
俺がそう思うのは、俺の体質から出た理屈だ。あいつに通じる理屈かどうかは、あいつが決める。
だから言わなかった。言葉は、受け取る側の皿が向くまで注いでも、こぼれるだけだ。
芋の袋だけ置いてきたのは、我ながら正しかったと思う。
◇ ◇ ◇
帰り道の雨の中で、俺は自分の胸の内を確かめた。
彼を笑う気持ちは、どこを探してもなかった。
あるのは前世で嫌というほど見た光景の既視感だ。
焦って、無理をして、折れる。
期末の数字に追われて体を壊した同僚。届かない目標に届いたふりをして、帳尻の嘘で消えていった奴。
あの頃の俺に、焦るなと言ってくれる爺はいなかった。俺にはいた。それだけの差だ。
差は、俺の手柄ではない。ただの運だ。
運でもらったものは、せめて使い切る。それが筋というものだと思う。
納屋に戻って、俺は濡れた外套を梁に掛け、いつもの締めの勘定をした。
今日得たもの。岩犬は三頭に見えて六頭。傷の処置の順番。注意書きの読み方の重さ。
それから、焦りというものの形をひとつ。
焦りは、伸びの速い奴の病気だと思っていた。違う。焦りは、自分の物差しを人に貸した奴の病気だ。
ロイクは自分の速さを、酒場の目で測っていた。俺は俺の遅さを、去年の俺で測る。
この物差しだけは、誰にも貸さない。
納屋の屋根を、雨が夜まで叩いていた。
雨の日は雨の日の稽古がある。板敷きの上での、狭い足運び。濡れた革紐の結び直し。湿気た夜の呼吸の四半刻。
派手なことは何ひとつない一日の終わりに、俺は今日の三つを選んだ。
六頭の円。処置の順番。物差しの話。
三つとも、ロイクの血で購われた頁だ。無駄にはしない。それがたぶん、俺にできる唯一の見舞いの続きだ。
だから俺は明日も草をむしる。
焦らないことにも、稽古がいるのだ。




