第9話 意識してしまったら、日常は凶器になる
教室の入り口で、足が止まった。
理由は分かっている。
いつもの席に、いつもの角度で藤原咲が座っている。ただそれだけだ。それだけのことなのに、俺の脳が昨夜の情報を全力で引っ張り出してくる。
暗闇。
川の字。
シャンプーの匂い。
吐息に近かった声。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
学校だぞここは。朝のHR前だぞ。なんで教室の入り口で昨夜の布団の中を再生してるんだ俺は。
「青木? 入り口で突っ立って何してんの」
後ろから肩を叩かれた。田中だった。
「……いや、何でもない」
「顔赤いぞ」
「寒かった」
「五月だぞ」
田中を押しのけて教室に入る。席に向かう。咲が顔を上げる。
視線がぶつかった。
「あ……」
「あ……」
二人同時。
「……おは」
「……おは」
また同時。音の高さまで完璧に揃った。
「……よう」
「……よう」
一秒遅れた語尾まで揃ってしまい、俺は椅子を引く音を不自然に大きく鳴らして誤魔化した。咲がすぐにノートに目を落とす。その耳が、ものすごく赤い。
俺の心臓がうるさい。
朝から、うるさい。
頼む。頼むから今日一日、普通にさせてくれ。
一限。
教科書を開く。先生が板書する。当たり前の光景だ。
なのに、すぐ斜め前の咲の後ろ姿が、視界に入り続けている。
意識するな。
意識するな。
意識するな、と思うたびに、昨夜の暗闇が再生される。このシステム、完全にバグってる。
咲がシャープペンシルでノートを取る。その角度。その手首の動き。
昨夜、その手が耳たぶを、何度も何度も触っていた。
やめろ。板書をしろ、俺。
一限と二限の間の休み時間。
咲が椅子をこちらに寄せてきた。音もなく、自然に、まるで毎朝そうしているみたいに。
近い。
「……今朝、出る前に水やりしておいた。芽、二ミリくらい伸びてたよ」
近い近い近い。
「……ご、苦労」
声が変になったし、ご苦労ってどの口が言ってるんだ……。
「みくちゃん、今朝はパン一枚半。残りの半分は私が食べたから」
「わかっ……た」
「お醤油。昨日使い切ってたよね。今日帰りに買わないと明日の朝ごはんに使えない」
俺は一拍、返事に詰まった。
お醤油。
お醤油の話をしている。
なのになんで、夫婦の朝の会話みたいに聞こえるんだ。
「……なんで俺の家の調味料の在庫を、お前が把握してるんだ」
「把握というか。使い切ったの渡くんでしょ」
「……ごめん、反論できない」
「あと玉ねぎ」
「玉ねぎ」
「切らしてた」
「そうだった」
冷蔵庫の話をしている。俺と藤原咲が、教室で、朝の休み時間に、玉ねぎの話をしている。周りのクラスメイトが世界の終わりについて語っていたとしても今の俺より衝撃は少ないと思う。
咲がノートを閉じる。その動作で、わずかに身体が傾いた。肩の距離が縮まった。
昨夜の距離の方が近かった。
やめろ。比較するな。
「……昨日の夜」
咲の声が、少し低くなった。
「眠れた?」
一瞬、教室の音が遠くなった。
「……眠れた、とは言えない」
「……私も」
沈黙。
言わなくても分かった。昨夜の暗闇が、まだここまで付いてきている。俺たちの間の空気に、川の字の残滓がべったり張り付いたまま、朝の教室で普通の顔をしようとしている。
無理だろ。どう考えても無理だろこれ。
昼休み。
田中が俺の机に弁当を置きながら言った。
「青木。お前ら今朝から一度も目が合ってないだろ」
「……何の話だ」
「隠蔽の精度が逆に証拠。こんなに目を逸らし続けるって、逆に視線意識してるってことだからな」
「深読みしすぎだ」
「藤原さんの耳、二限からずっと同じ色してるし。お前は俺が話しかけるまでテキスト三回めくり直してたし」
田中が唐揚げを口に放り込む。
「あとな。今日、お前ら服から同じ洗剤の匂いするぞ」
「…………」
「コインランドリー一緒に使い始めたのか? それとも同じ洗剤を同じアパートで使ってる別の理由がある?」
「……お前は嗅覚に振りすぎだ」
「否定しないのが一番怖いんだよなぁ」
田中が遠い目をしたその瞬間、咲が静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「渡くん、肩のところ」
咲の指先が伸びてきて、白い糸くずを摘まみ取った。迷いのない、当たり前の動作だった。
俺は動けなかった。止める暇もなかった。というか——
なんで止めようとすら思わなかったんだ、俺。
一拍おいて、咲の手が止まった。
「……あ」
人に見られて初めて気づいた、という間があった。
「……ごめん。なんか、無意識で」
「……いや」
田中が唐揚げを持ったまま固まっている。
「……お前ら」
低い声だった。
「自分たちが思ってるより、全然隠せてないからな。念のため言っておく」
咲が俺から視線を外した。
俺も咲から視線を外した。
同時に。
田中が盛大にため息をついた。
放課後、スーパーの自動ドアが開く。ひんやりした空気が顔に当たった。
俺がカゴを持つ。咲が棚に沿って歩いて食材を手に取る。
いつからか、こうなっていた。どちらかが決めたわけじゃない。気づいたときには、この役割が完全に固定されていた。
これ、デートっぽくないか。
いや待て。デートじゃない。買い出しだ。みくのための。
みくのための買い出しを、俺と咲が役割分担して、スーパーの棚の間を並んで歩いている。
どう違うんだ。
「鮭、今日安い」
咲が精肉コーナーの手前で立ち止まって言った。
「……何を作るつもりだ」
「ちゃんちゃん焼き。野菜切るの速くなったでしょ、渡くん」
「……それはそう」
自分でも驚いた。速くなった、というのは本当で、それを当たり前に認めた自分に一瞬引いた。みくのご飯のために包丁の速度が上がっている高校二年の男子高校生。
咲がキャベツを手に取り、重さを確かめる。
「みくちゃん今日、ピーマン食べられるか試してみたいんだけど」
「……前回は端っこ食べて顔歪めてた」
「じゃあみじん切りにして混ぜる。気づかせない作戦」
「……賛成」
普通に答えた。
普通に答えてしまった。
みくのピーマン対策会議を、スーパーの野菜コーナーで普通にやっている。
咲が豆腐コーナーで絹か木綿か数秒眺めて、絹をカゴに入れた。みくが硬いのを嫌がるからだ、と俺は思った。理由が反射的に出た。
やばい。
俺、みくの食の好みを脊髄で把握し始めている。
「……渡くん」
咲が鶏肉のパックの前で足を止めた。
「なに」
「はい、お弁当」
正面を向いたまま言った。
「みくちゃんの夜ごはん作るとき、一人分増やしても手間ほぼ変わらないし。渡くんが昼に購買のパン食べてるの、なんか気になってて。みくちゃんと同じもの食べてる方が、なんとなく……揃う気がして」
揃う、という言葉を言ってから、咲がわずかに口を閉じた。
「……作るだけだから。いらないなら言って」
断れ。
断れ、渡。
でも喉の手前で言葉が止まった。断る理由が、ない。
「……卵焼きは、出汁多めで」
咲が短く息を吸った。
「……うん。覚えた」
そっと耳たぶに触れた。
その仕草を俺はもう知っている。意識しているときの、彼女の癖。昨夜の暗闇の中で、何度も見た。
俺は鶏肉のパックを見続けた。
俺たちは今、学校帰りに二人でスーパーで、弁当のおかずの話をしている。
これ、どう見ても——
考えるな。
冷凍食品コーナーを通ったとき、俺はみくの好きなアイスに無意識で手が伸びかけて止めた。
咲がすでにカゴに入れていた。
「おかえりーーー」
みくが飛んでくる。俺の腹に顔を埋めてぎゅっと腕を回してくる。
「ただいま」
俺は、自然にその頭に手を置いた。
咲が後ろから入ってきて、買い物袋を台所に運ぶために俺を追い越す。廊下の幅が狭くて、すれ違いざまに腕が触れた。
昨夜の距離より、全然遠い。
なのに心臓がうるさい。なんでだ。
みくが咲の後を追って台所へ走る。
「きょうのごはん、なに?」
「鮭。みくちゃん好きでしょ」
「すき! てつだう!」
「じゃあ野菜洗ってて。流水で三十秒ね」
「はーい」
俺はリビングのソファに座った。
台所から、水の音と包丁のリズムとみくの声が聞こえてくる。咲が何かをみくに教えている。みくが「むずかしい」と言っている。咲が笑う。
その音の中に、俺はいる。
居間から見える台所の光。二つの背中。
俺はしばらく、それを見ていた。
見ることをやめるきっかけが、なかった。
夕飯を食べ終えて、みくが眠った後。
咲が台所を片付けながら言った。
「お弁当、明日から持たせるね。タッパー、ある?」
「……あると思う。どこかの棚に」
「探しておく」
俺は急須にお湯を注いだ。
湯飲みを、二つ出した。
出してから気づいた。
一個でいい場面で、二個出していた。聞いてもいない。確認もしなかった。でも、出していた。身体が。
咲が「あった」と声を上げてタッパーを手に立ち上がった。湯飲みを見て、一瞬止まった。
「……ありがとう」
「……ああ」
二人で並んで、お茶を飲んだ。みくの寝息が奥から聞こえていた。
窓の外が暗かった。
俺はお茶を飲みながら、ここ一週間の夜が全部こんな感じだったことに気づいた。みくが眠って、台所を片付けて、二人で何か飲んで、咲が帰る。
それが、一日の終わり方として完全に定着している。
いつから。
いつからそうなったんだ。
「そろそろ帰る」
咲が立ち上がって鞄を持った。
「醤油、忘れないでね」
「……ああ」
「タッパー、棚の右端に戻した」
「……わかった」
「おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まった。
俺はしばらく玄関に立っていた。
部屋に戻ると、台所はきれいに片付いていた。排水口まで洗ってある。シンクに水滴が一つも残っていない。
俺はそれを見て、
「そうだよな」
と思った。
そうだよな、じゃない。
「そうだよな」って何だ。
いつからこれを「普通」だと思い始めたんだ。
明日の朝、咲がここに来る。弁当を作る。俺たちは三人で朝を過ごして学校へ行く。
それが来週の予定として、もう完全に頭の中に入っていた。
怖い、と思った。
思ったのに、止めなかった。
止め方が、もう分からなかった。
俺は電気を消した。きれいになった台所を、暗闇の中で一秒だけ見た。
誰かがいた証拠みたいに、きれいだった。
奥の部屋から、みくの寝息が聞こえていた。
明日も、こうなる。
明後日も、きっとこうなる。
それが、怖くて。
それが——なぜか、ちっとも嫌じゃなかった。
読んでくださってありがとうございます!
「ただいま」って言ったら、自分の家なのにクラスメイトから「おかえり」って返ってくる。普通に考えたらちょっとおかしい光景なんですけど、それがいつの間にか渡にとって一番ほっとできる「帰る場所」になってきてるんですよね。
「好き」って言葉より、一緒に暮らすことの方がずっと重かったりする。じわじわと逃げ場をなくしていく二人の静かなシンクロを、楽しんでもらえたなら嬉しいです!




