第10話 その写真の中で、俺たちは笑っていた
動物園の入口に着いたのは、十時を少し過ぎた頃だった。
チケット売り場に並んでいると、後ろからみくの手が俺のジャケットを掴んだ。引っ張るわけでもなく、ただ掴んでいる。
それだけで、俺の足が自然と短く、ゆっくりとした歩幅に変わった。
「ねえねえ、ぞうさんいる?」
「いると思うけど」
「きりんは?」
「多分」
「かばは?」
「……みく、お前は一体何が見たいんだ」
「ぜんぶ」
即答だった。俺は思わず小さく吹き出して、前を向いた。
窓口で「大人二枚、子供一枚」と頼む。おばさんがチケットを渡し、「いってらっしゃい」と笑顔で言った。
俺たちに向けて。三人まとめて。
俺はチケットを受け取り、そのままゲートをくぐった。
園内は、少し肌寒い秋晴れの中、家族連れで賑わっていた。
ベビーカーを押す夫婦。手を繋いで走る兄妹。父親の肩車に乗る小さな子。
どこを見ても、そういう景色だった。
みくが「わあ」と小さく声を上げ、目を輝かせる。
俺は少し前に出て、入ってすぐのマップ看板を確認した。咲が隣に並んで、同じ看板を見る。
俺と咲の肩が、微かに触れた。
どちらも、一歩引かなかった。
「……ぞうは奥の方だね」
「みくが真っ先に言ってたから、先に行くか」
「みくちゃん」
咲が振り返って声をかけると、みくがすっ飛んできた。
「ぞうさん、どっち行くか分かる?」
「わかんない!」
「じゃあ看板見て。この絵」
「あっちだ!」
みくが走り出そうとして、咲が首根っこを掴んだ。
「走らない」
「えー」
「えー、じゃない。迷子になるよ」
みくが不満そうな顔をして、でも大人しく立ち止まった。
俺は少し後ろから、そのやり取りを見ていた。
なんだか、ずっと前から知っている光景のようだった。
俺たちの存在が、周りの「家族連れの景色」に、音もなく溶け込んでいくような気がした。
ぞうのエリアに向かう途中で、みくが両手を広げた。
「て、つないで」
さらりと言った。何の照れもなく。
みくを真ん中に、左が俺で、右が咲だった。
最初、どちらも一瞬だけ動きが止まった。
みくの小さな手が空中に待機している間、俺は視線をどこへやるべきか分からなくて、正面の木を見た。咲も無言だった。
「はやく〜」
引っ張られた。俺は手を繋いだ。咲も繋いだ。
三人で、並んで歩いた。
みくがやたらと元気よく歩くから、腕がぶんぶん振られた。
途中でみくが急に「あ、きりん!」と叫んで走り出した。
その勢いで、みくの両手が前に強く引っ張られる。
俺と咲の手が、一瞬だけ、強くぶつかった。
どちらも何も言わなかった。
みくが「きりんだよきりん!」と叫んでいるので、そちらを向いた。
咲の顔は見なかった。見なかったが、咲も正面を向いているのは、隣の呼吸の気配で分かった。
ぞうのエリアに着くと、みくが柵の前に走り寄って、でかい背中をしばらく眺めていた。
「おおきい」
「そうだな」
「めっちゃおおきい」
「めっちゃ大きいね」
「ねえ、パパ、まねして」
「えっ!?」
みくが両腕を前に垂らして、のしのし歩き始めた。
「ぞうさんだよ。やって」
「……お断りだ」
「えー、けちー」
「ケチじゃない。俺は高校生だ」
「だから?」
みくの純粋な疑問に、言葉が詰まる。
俺は周囲をさりげなく確認してから、腕を二本前に垂らして、のしのし歩いた。
みくが「やったー!」と叫んだ。
咲が前を向いたまま、静かに言った。
「……けっこう似てるね」
「……否定できないのが腹立つ」
咲の肩が、小さく揺れた。声は出していないが、確かに笑っていた。
みくがさらに張り切って、今度は鼻まで付け加えた。腕を上に向けてぶらぶらさせながら歩くみくは、もはやぞうとは別の何かだったが、俺はつられてまた同じポーズをした。
咲が吹き出した。
ちゃんと声が出ていた。
俺は正面を向いたまま、少しだけ歩幅を大きくした。
チーターのエリアに来たとき、みくが「はやいー!」と歓声を上げた。
金網越しに、チーターがゆっくり歩いていた。速くはなかったが、みくには十分迫力があったらしい。
「チーターって時速百キロ以上出るんだぞ」
俺は思わず言った。
「えっ!? すごい!」
「百メートルを、三秒で走る」
「みくもはしれる?」
「そりゃ無理だな」
「パパは?」
「……頑張れば、十二秒くらいは出せる」
「それ、チーターより遅い」
「全然遅い。当たり前だろ」
みくが「じゃあ」と言って、俺の手を引っ張った。
「きょうそうしよう!」
「ここでか?」
「うん!よーいどん!」
みくが走り出した。俺も二、三歩ついていって、少し大げさに腕を振った。みくが大爆笑しながら振り返った。
「はやい!はやい!」
「チーターには負けるけどな」
後ろから咲の声がした。
「もぉ〜。危ないから!」
俺はピタリと止まった。
咲が足早にやってきて、みくの手を取った。
「柵のそばで走らない。転んだら怪我するでしょ」
「ごめんなさい」
「……渡くんも」
「……すいませんでした…」
咲が俺を見た。怒っているわけじゃない。困ったような顔で、でも少し笑っていた。
俺は視線を逸らした。
自分が今、完全に「怒られる父親」の立ち位置にいたことに気づいて、変に咳払いをした。
昼過ぎ、芝生のベンチで休憩した。
みくがアイスを両手で持って、足をぶらぶらさせながら食べている。
俺はペットボトルのお茶を飲んだ。咲がバッグからウェットティッシュを出して、みくの手を拭いた。
「くちびるにも」
「え~」
「え~じゃない、ほら」
みくが仕方なそうに口を差し出した。
俺はそれを横目で見てから、ペットボトルのキャップを閉めた。
ベンチの周りも、家族連れだった。となりでは父親がスマホで子供を撮っていた。
俺は、空を見た。
雲が多かった。でも雨にはならなそうな、白くて薄い雲だった。
爬虫類のエリアを出たところで、スタッフの若い女性に声をかけられた。
「よかったら、お写真撮りましょうか?」
みくが「やる!」と即座に言った。
俺と咲は、ほぼ同時に「あ」と言った。
女性が笑顔でスマホを受け取る。
「じゃあ、お母さんはみくちゃんのとなりで」
咲がみくの隣に立った。
「お父さんも、もう少し寄ってください」
俺は、動けなかった。
お父さん。
その声が、耳の中で不自然なほど長く響いた。
女性は何も変なことを言っていなかった。俺たちの並び方を見て、自然にそう言っただけだった。
だからこそ、胸が詰まった。
「パパ、はやく」
みくが俺の袖を引っ張った。
俺は咲の隣に移動した。みくが真ん中に入って、俺と咲の手をそれぞれ引っ張った。
「はい、こっち見て」
シャッターが鳴った。
三枚撮ってもらって、女性がスマホを返してくれた。
「かわいく撮れましたよ」
「……ありがとうございました」
咲が深く頭を下げた。
俺は、画面を確認した。
みくが真ん中で、思いっきり笑っている。咲がみくの手を持ったまま、柔らかく笑っている。俺が、みくの頭の上あたりを見ながら、少し笑っている。
どこからどう見ても、家族写真だった。
俺はスマホを胸ポケットにしまった。
息が、浅くなっていた。
出口近くのお土産ショップで、みくが「あっ!」と叫んだ。
陳列棚に、動物のキーホルダーが並んでいた。ぞう、きりん、チーター。三つ並んで飾られていた。
「みてみて!おそろい!」
みくが三つを両手で持ってきた。
「みくがぞう、さきちゃんがきりん、パパがちーたー!」
「……俺がチーター」
「だってはやいじゃん」
みくが期待した顔で俺を見ていた。
俺は一瞬、置こうとした。
でも咲が、みくのチーターのキーホルダーを、俺の手の上に静かに乗せた。困ったような顔で、少し笑いながら。
俺は何も言わずに、三つをまとめてレジへ持っていった。
夕方、出口に向かう頃、みくがだんだん無口になってきた。
俺が荷物を持った。気づいたら持っていた。
咲がみくの隣を歩きながら、乱れた前髪をそっと直した。みくが「ん」と言って、目を細めた。眠そうだった。
三人で、横並びで歩いた。みくが真ん中。俺と咲がその両脇。
みくの歩くペースに合わせて、俺たちも歩いた。
駐車場に向かうゆるい坂道を、ゆっくり下りた。
夕陽が、横から差してきた。
俺は、正面を向いたまま歩いた。
今日の光と、みくの重さと、咲の横顔と、三人の影が一つに見えるこの角度。
俺は、この景色をずっと覚えているだろう。
そう思った瞬間、少しだけ、胸の奥が痛くなった。
「……渡くん」
咲が、静かに言った。
「なに」
「今日、楽しかった」
俺は前を向いたまま、少し間を置いた。
「……まあ、な」
みくが「パパも!」と言って、俺と咲の手を、それぞれ掴んだ。
三人で、坂を下りた。
スマホの中に、家族写真がある。
胸ポケットの中で、それは静かに、確かにそこにあった。
読んでいただきありがとうございます。
スタッフさんの一言に、心臓が止まりそうになった二人。
けれど、写真の中の三人は驚くほど自然でした。
お揃いのキーホルダーを選んで、同じソフトクリームを分け合って、夕暮れの動物園を三人の歩幅で歩く。
本人たちは否定するかもしれませんが。
その日の写真を見た人のほとんどは、きっと同じ感想を抱くと思います。
……仲の良い家族だな、と。




