第11話 【咲視点】帰りたい場所が、わからなくなった
動物園へ行く朝、服を三回着替えた。
最終的に選んだのは、薄いブルーのシャツと、白いカーディガン。
鏡の前で、シャツの裾を引っ張ったり戻したりしながら、ぼんやり考えていた。
家族連れが多い場所。みくちゃんがいる。渡くんがいる。
三人で並んで歩いたとき、周りから見て——
……やめた。
考えかけた何かを、呼吸と一緒に吐き出す。カバンを手に取って、鏡を見ないで玄関へ向かった。
「かわいい?」
みくちゃんがピンクのパーカーを着て、両手を広げて待っていた。
「すっごく似合ってる」
「えへへ〜!やったー!」
飛び跳ねる頭を撫でながら、乱れた前髪を直す。
鏡の中に二人が映った。私と、みくちゃん。
……その隣の空白を、見なきゃよかった。
動物園なんて、いつぶりだろう。
小さい頃、来たことあったっけ。
思い出そうとしてみたけど、うまく浮かばなかった。
ただ、荷物を自然に分担している夫婦やウェットティッシュをサッと出すお母さん。子どもを肩車するお父さん。目の前には家族連れがいっぱいだ。
なんで、こんなに目につくんだろう。
みくちゃんが「わあ」と言って私の手を引いた。前を歩く渡くんが、マップ看板の前で立ち止まっている。
渡くん、マップを見ながら、ちょっとだけ眉間に皺寄せてた。
……あ。
なんか、少し安心した。
私だけじゃないんだ、って。
そう思った瞬間、変に力が抜けて、危うくみくちゃんに引っ張られそうになった。
ぞうのエリアで、渡くんがぞうのモノマネをした。
みくちゃんに「やってやって」ってねだられて、最初は「えっ、やだ」って断ってた。でも結局、周りをキョロキョロ確認してから、両腕をだらんと前に垂らして、のしのし歩き始めた。
なんか本気で笑ってしまった。
教室の渡くんじゃなかった。学校にいるときのあの人は、なんか、いつも少し斜めに構えてて、面倒くさそうで。
でも今の渡くんは、みくちゃんにぐいぐい引き回されながら、恥ずかしそうに、でも真面目に象になってた。
……知らなかった、こんな顔。
……ずるい。
そんな顔、学校じゃしないくせに。
手を繋いだのは、みくちゃんに引かれたからだった。
みくちゃんを真ん中に、左に渡くん、右に私。
最初、一瞬だけ、三人とも止まった。みくちゃんの小さな手が空中で待ってて、私は視線の置き場所がわからなくて。渡くんもたぶん、そうだったと思う。
「はやく〜」
急かされて、繋いだ。
しばらく歩いていたら——気づいたら、「手を繋いでいる」という意識が、消えていた。
なんでだろう?。
ただ、みくちゃんの手が温かくて、楽しそうで、ただそれだけを見て歩いてた。
途中でみくちゃんが走り出して、引っ張られた弾みに、渡くんの手が私の手に強くぶつかった。
そこで気づいた。
ちゃんと、繋いでたんだ、と。
前を向いたまま、何も言えなかった。渡くんも何も言わなかった。
でも手がぶつかったところの熱が、ずっと、消えなかった。
「お母さんはお子さんのとなりで」
スタッフの女性に言われて、みくちゃんの隣に立った。
「お父さんも、もう少し寄ってください」
渡くんが一拍遅れて動く気配がした。
正面を向いたまま、シャッターを待った。
『お母さん』。
その言葉が、耳の中でおかしいくらい長く、響いてた。
……否定しなかった。
否定どころか——本当にそう見えたんだ、って、少しだけホッとしてる自分がいた。
なんで。
「はい、チーズ」って声がして、笑った。
撮り終わった写真を見た。
みくちゃんが真ん中で笑ってる。渡くんが照れくさそうに笑ってる。私が、笑ってる。
なんだろう。今日はよく笑う。
自分の家で親の顔色を窺うときの顔でも、学校で空気を読むときの顔でもなかった。
ただ——安心してた。
その顔が、一番意味わかんなかった。
出口近くで、みくちゃんがキーホルダーを持ってきた。
ぞう、きりん、チーター。「おそろい」って言って、きりんを私に差し出す。
ちょっと迷った。
お揃い、って言葉が、なんか、怖かった。何かに形を与えてしまう気がして。
でも渡くんがみくちゃんのチーターを私の手に乗せて、三つまとめてレジへ持っていった。
あの自然さ。
まるでずっとそうしてきたみたいな背中。
断れなかった。
帰り道、夕陽が横から差してきた。
みくちゃんがだんだん無口になって、足が遅くなる。
気づくと渡くんが、みくちゃんのリュックと私のエコバッグを持っていた。私はみくちゃんの前髪を直す。
何も言わなかった。言わなくても、なんか、役割ができていた。
三人の影が、駐車場の坂道に長く伸びてた。
帰りたくない、って思った。
どこに?
自分の家に?
それとも——
声には出さなかった。答えがわからなかったから。ただ、この坂道がもう少しだけ続けばいいと思ってた。
家に帰って、一人になった。
冷たくて、静かすぎる部屋。
カバンを置いて、スマホを取り出して、写真を開いた。
光の中に、三人。
しばらく見てた。
閉じた。
また開いた。
消そうかな、と思った。
……消せなかった。
きりんのキーホルダーを取り出して、スクールバッグのファスナーにつけた。カチャリって音がした。
ベッドに倒れて、天井を見た。
写真の中の三人は、ほんとうにどこにでもいる家族みたいだった。
でも浮かんだのは「家族」じゃなかった。
帰りたい場所みたいだった。
……やば。
右の耳たぶが、熱かった。
スマホの画面を消した。目を閉じた。
なんで今日こんなに苦しいんだろう、って思いながら——でも口の端が、少し上がってた。
最悪。
読んでいただきありがとうございます。
お揃いのキーホルダーを選んで、写真を撮って、たくさん笑った一日でした。
帰宅してからも、咲は何度もバッグについたキーホルダーを見てしまいます。
それはきっと、楽しかった今日を少しだけ長く持っていたかったから。
本人はまだ気づいていませんが。
どうやら、帰りたくなる場所が一つ増えてしまったみたいです。(笑)




