第8話 川の字の夜、否定できない未来
ミントの香りが、狭い洗面所にこもっている。
みくが「できたぁ」と声を弾ませてリビングへ戻っていく。
鏡の下、プラスチックのコップには、俺の地味な紺色の歯ブラシと、咲が持ってきた景品のピンク色の歯ブラシ。
あの日からずっと、二本は寄り添うように定位置を占めている。
……待て。
いや、待て。
なんで俺、これを「そういうもんだ」として受け入れてるんだ。
胃の奥で何かがずん、と重く沈む。異物だと認識する前に、俺の脳がすでに「正しい風景」として処理している。その無自覚な順応に気づいたとき、喉の奥が張り付くように乾いた。
リビングに戻ると、咲が膝をついて、みくのパジャマのボタンを留めていた。
小さなボタンを一つずつ、丁寧にはめ直していく咲の指。みくはされるがまま、おとなしく立っている。
背後ではテレビのキャスターが、明日の晴天を告げていた。
俺は口元を拭きながら、その背中を見ていた。
一ミリも。
一ミリも、警告音が鳴らなかった。
どうしてそんなに自然なんだ、この光景。
「ねむい……」
夜の十時。みくが目をこすりながら、俺のジャージの裾をきゅっと握りしめた。
「寝ようか。布団、敷いてやる」
「……パパ」
みくが上目遣いに俺を見上げる。
「今日は、三人でねんねしたい」
部屋の空気が、真空になった。
「……パパとお姉ちゃんの間がいいの」
ソファに座る咲の肩が、ぴくりと跳ねた。
「みく、あのな。俺とお姉ちゃんは、その、ほら、一応」
「一人は、こわい」
裾を握る力が、ぐっと強くなる。
みくの瞳に、じわじわと涙の膜が張っていく。
俺は横にいる咲を盗み見た。
彼女はうつむいたまま、スカートの生地を指先で白くなるほど強く絞っている。言葉はなかった。
でも、否定もしなかった。
……なんで否定しないんだ。
咲。頼むから否定してくれ。
俺には無理だった。
リビングに、三組の布団が並ぶ。
みくを真ん中に。左に、咲。右に、俺。
川の字。
その配置が物理的に完成した瞬間……。
やばい。
やばいやばいやばい。
これ、まずくないか。
「……ちゃんと、目、閉じるんだよ」
咲の声が、かすかに震えている。
「はーい」
満足げなみくの返事。数分もしないうちに、真ん中から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
カチッ、と電気が消える。
暗闇が降りた。
眠れるわけ、ないだろ。
背中から伝わる畳の硬さ。エアコンの乾いた空気。毛布が擦れるわずかな音。
そして、みくの向こう側にいる、咲の気配。
少し手を伸ばせば、彼女に触れてしまう。
同い年の女子が、そんな距離にいる。
ちょっと待ってくれ。
冷静になれ、俺。
でも暗闇のせいで、視覚以外のすべての感覚が異常に鋭くなっている。シャンプーの匂いが鼻に届く。みくの寝息の合間に、咲の呼吸音が混じる。
同い年の女子の呼吸音が、こんな近くで聞こえている。
心臓がうるさい。
うるさすぎる。
頼むから、もう少し静かにしてくれ、俺の心臓。
俺は、自分の心拍音が響かないように、浅く、ゆっくりと呼吸することだけを考えた。そう、考えようとした。
でも、咲がわずかに寝返りを打つ気配がして、布団が擦れる音がして
意識するな。
意識するなよ、渡。
でも意識するな、と思えば思うほど、意識する。
みくが寝返りを打った。
ぐい、と布団が引っ張られて。みくの小さな身体が、ほんの少し咲の方へ転がった。
それに引きずられるように、布団の端が咲の腕に重なる。
暗闇の中で、咲が短く、鋭く息を呑んだ。
俺も呑んだ。
聞こえてた。その息の音。ばっちり聞こえてた。
動けない。
変に動いたら、それはそれで意識してるのがバレる。
動けないまま、俺は天井の見えない暗闇を凝視した。
「……ママ……」
みくの唇から、零れた。
世界から、音が消えた。
エアコンの低い駆動音が、どこか遠くへ消えた。
「……だいすき」
その一言が、暗闇に物理的な質量を持って落ちてきた。
息ができなかった。
いや、息の仕方を、一瞬忘れた。
ママ、って。
みくは今、誰に向かって言ったんだ。
それが咲に向けられた言葉だとしたら。
それが、今の俺たちの関係を「未来の家族」として固定してしまうとしたら。
そのとき、みくの反対側の手が、俺の袖を掴んだ。
小さな指先が、ぐい、と俺を引き寄せる。
「パパ……」
微かな、祈るような声。
「いっしょに……いてね……」
頭の中で、何かがぐらりと傾いた。
この感覚、なんだ。
嬉しい——じゃ、ない。
怖い。
この子が「ママ」と呼んだ人間と「パパ」と呼んだ人間が同じ布団で並んでいる。
それを、みくは当たり前として受け入れている。
未来の俺たちが、もし——。
思考がそこで、完全に止まった。
脳が全力で先を拒否している。
考えてしまえば、「ただのクラスメイト」という最後の防波堤が、完全に決壊してしまう。
俺は、ゆっくりと顔を向けた。
暗闇の中で、視線がぶつかった。
みくの寝顔の向こう。咲の瞳が、外灯の微かな光を反射して揺れていた。
彼女の右手が、耳たぶを触っていた。何度も、何度も。
「……聞き間違い、だよな」
自分の声が、他人のもののように掠れて響いた。
「……うん」
咲の返事は、吐息に近かった。
「きっと、昨日の、続き。刷り込み、だよ……」
「そうだな。……そうだよな」
「……うん」
そうだよな。
そうに決まってる。
でも、なんで俺たちは二人とも、こんなに必死に言い訳を並べてるんだ。
否定しようとすればするほど、みくの指先の熱が腕を通して全身に回っていく。
咲が、ゆっくりと顔を伏せた。
暗闇でも分かった。彼女の肩が、微かに震えているのが。
耳たぶを触る指が、止まらないのが。
沈黙が続いた。
長い、長い沈黙。
俺は動けなかった。
変に動いたら何かが壊れる。変に喋っても何かが壊れる。
ただ、この「詰み」の状態を、夜が終わるまで保持し続けるしかなかった。
深夜。
「……渡くん」
湿り気を帯びた声がした。
「なに」
「……起きてた?」
「……ああ」
眠れるわけ、ないだろ。
それを口にしなかった俺を、少し褒めてやりたかった。
「……明日、晴れるって」
「ああ」
「水やり……放課後、三人で、やろう」
「……そうだな」
また、生活の話だった。
俺たちは「明日も続く生活」を約束することで、ようやく呼吸を繋いでいる。
この暗闇から逃げるための言葉が、生活の話しかない。それが唯一の、共通の逃げ場だった。
「……咲」
「なに」
「……みくのこと、好きか?」
長い沈黙があった。
「……好きだよ」
咲の声が、暗闇の中で揺れた。
「すごく、大切。……もう、いない毎日なんて、考えられない」
「……俺もだ」
口にしてから、自分でも驚いた。
その言葉は、みくに向けたものなのか。
それとも——。
俺はそれ以上考えるのをやめ、ただみくの小さな手を、布団の上からそっと包み込んだ。
咲が、短く息を吸った。
何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
朝の薄い光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
みくはまだ、俺の袖を握ったまま眠っている。
咲は横を向き、みくの髪を守るように、丸まって寝ていた。
川の字。
俺は、そのまま天井を見た。
眠れなかった夜の息苦しさは、朝日とともにどこかへ消えていた。
代わりにあるのは、どうしようもなく重たい、明日の予定だった。
今日、学校へ行く。夕方には咲が来て、水やりをする。冷蔵庫の卵を確認して、夕飯の献立を考える。
俺の明日の生活には、最初から彼女が組み込まれている。
誰が決めたわけでもない。
でも、そうなっている。
それが、怖い。
怖いのに、どうやって壊せばいいのかが、もう分からない。
ベランダの外で、鳥が鳴いた。
新しい朝が、始まった。
俺は、自分の呼吸が、隣の二人の寝息のペースと完全に一致していることに気づいて。
一人きりのあの静かすぎる部屋に、もう二度と戻れないことを。
嬉しいとも、悲しいとも思えないまま、ただ静かに——
悟った。
読んでくださってありがとうございます!
「パパ」「ママ」って呼んじゃったあの瞬間、二人の関係がなんか一気に進んじゃいましたよね。「偶然だし!」って必死に言い訳しながらも、暗闇の中でお互いの息遣いをなんとなく意識してしまう、そんな絶妙にぎこちない距離感……。
認めたら何かが変わってしまう。でも、もう元には戻れない。そんな「幸せなのに苦しい」沼にハマってしまった二人を、これからもあたたかく(そしてニヤニヤしながら)見守ってもらえると嬉しいです!




