第7話 芽吹き
夜の十一時を過ぎた頃、俺はスマホを伏せてソファに転がった。
みくはもう寝ている。
部屋は静かだった。
前なら、この時間が好きだったはずなのに。
なんとなく落ち着かなくて、俺はカーテンを開けた。
街灯の薄い光が、ベランダのプランターをぼんやり照らしている。
網戸を開ける。
十月の夜風が、パジャマ越しに肌へ刺さった。
プランターの真ん中。
黒い土を押し上げるようにして、小さな緑が顔を出していた。
「……出た」
声が、夜気に溶ける。
その瞬間、頭に浮かんだのは、みくでもなく、未来の話でもなく。
――教えなきゃ。
そう思った瞬間、俺の手はポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開いていた。深夜十一時過ぎ。非常識な時間だ。明日学校で言えばいい。頭では分かっていても、指が止まらなかった。
『芽、出た』
送信ボタンを押した直後、画面に
『既読』がついた。
――速すぎだろ。
『え!! 写真送って!』
『暗くて見えない』
『フラッシュ炊いて! 角度変えて!』
『ピント合わないって』
『ちょっと待って、今から行く』
「……は?」
冗談だろ、と思って、でも指が勝手に返していた。
『今から来るか』
送信してから、疑問符を付け忘れたことに気づいた。誘っているような、あるいは「来るのが当然だ」と言っているような文章。
『行く』
即答だった。俺はスマホを握りしめたまま、数秒間、ベランダで立ち尽くした。
十分後、ドアが小さくノックされた。
鍵を開けると、廊下の冷たい空気を背負って咲が立っていた。
制服のスラックスに、急いで引っ掛けたらしいベージュのカーディガン。髪は少し乱れ、頬は夜風のせいか、それとも走ってきたのか赤みを帯びていた。
「……来るの、早すぎだろ」
「近いから。……それ、理由になってる?」
「なってない」
「だよね。……お邪魔します」
咲は当たり前のように靴を脱ぎ、俺も当たり前のように道を開けた。
咲からは、外の冷たい空気の匂いと、微かに、いつもより濃いシトラスの香りがした。
「みくちゃんは?」
「ソファで爆睡中だ。……お前、家は大丈夫なのかよ。こんな時間に」
「……廊下の電気、人感センサーなんだよね、私の家」
咲が、靴を揃えながらぽつりと言った。
「誰も起きてないから、私が出ていっても、センサーが勝手に点いて、勝手に消えるだけ。……静かなの、あそこ」
その言葉の裏にある「温度のなさ」を、俺は聞かなかったことにした。
「……そうか。外、出ていいぞ。踏むなよ」
「分かってるってば」
狭いベランダに、二人で並んでしゃがみ込んだ。
咲がスマホのライトを点け、プランターの土を照らす。白い光の輪の中に、小さな緑の芽が浮かび上がった。
「……ほんとに出てる」
咲の声が、深夜の静寂に溶けるように低くなった。
「小さいな。光に透けそうなくらい」
「ちゃんと咲くかな。……ブルースター」
「咲くよ、きっと。俺たちが、毎日ここにいるんだから」
俺の言葉に、咲がふっと顔を上げた。ライトの反射で、瞳が潤んでいるように見えた。
「……そうだね」
俺たちの肩が、自然に触れ合う。避ける理由も、避ける空間もなかった。
深夜、狭いベランダ。スマホのライトが照らす、半径三十センチの二人だけの世界。
付き合ってもいないし、告白もしていない。なのに、この「完成された空気」に、俺は恐怖に近い安堵を感じていた。
室内に戻り、俺はキッチンで湯を沸かした。
「お茶、飲むか。ハーブティーしかないけど」
「うん、もらう。……渡くんがハーブティーなんて、意外だね」
「みくが喜ぶから、お前が置いていったんだろ。忘れたのか」
「あ……そういえば、そうだったね。……もう、私の部屋みたい」
咲はそう言って、自分のマグカップ――俺の棚に馴染みすぎているやつ――を両手で包んだ。
「……学校で芽の話をしたら、田中がまた騒ぐだろうな」
「内緒にすればいいじゃない」
「そうだけど、あいつの勘はもう霊能力の域だし」
「ふふっ。確かに。……でも、渡くん」
咲が、温かいカップから立ち上る湯気越しに俺を見た。
「普通じゃないのは分かってるんだけど……変な感じはしないね、私たち。むしろ、こっちの方が『普通』な気がして、ちょっと、怖い」
俺は答えなかった。否定したかったが、身体がそれを拒絶した。
深夜、狭い部屋で二人。この「異常」に、脳が、生活が、すでに順応してしまっている。
その時、ソファでみくが寝返りを打った。毛布がずれたのを、咲が反射的に立ち上がって掛け直す。
みくが眠ったまま、満足そうに口元をゆるめた。
「……パパ」
消え入りそうな寝言が、静かな部屋に落ちた。
「ママ……。いっしょに、見たんだね……。よかった……」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
隣に立つ咲の指が、ぴくりと跳ねる。
静寂が、さっきよりもずっと濃くなる。咲がゆっくりと顔を上げた。彼女の指が、右の耳たぶをこれ以上ないほど強くつまんでいた。
「……パパ、だって」
「……寝ぼけてるんだろ。……帰れよ。もう遅い」
「……うん。そうだね」
咲の声は震えていた。だが、彼女の口元は、どうしようもなく幸せそうに綻んでいた。
「じゃあね、渡くん」
「……ああ。明日、学校で」
「うん。学校で」
ドアが閉まる。足音が廊下を遠ざかり、やがて消えた。
一人になったリビング。
テーブルには、まだ温かさを残した咲のマグカップ。窓の外には、暗がりの中で懸命に背を伸ばす小さな芽。
俺はソファに座り、自分の手を見つめた。咲の指先の熱が、まだ残っている気がした。
もう、一人で芽が出るのを待つ夜には、戻れない。
静かすぎて、自分の呼吸音しか聞こえないあの一人暮らしには、どうしても戻りたくなかった。
俺はスマホを取り出し、最後に届いていた咲からのメッセージを見返した。
『帰り道、空気が気持ちよかった。明日、水やり楽しみだね』
俺は、短く返した。
『ああ。おやすみ』
既読は、また一瞬でついた。
俺はスマホを胸の上に置き、目を閉じた。
部屋にはみくの寝息と、冷蔵庫の低い唸りだけ。
けれど、もう一人じゃなかった。
この部屋に、彼女の生活が。逃げ場のない未来の気配が、決定的な重さを持って居座っていた。
俺の城は、今夜、芽が出たのと同時に、完膚なきまでに陥落したのだ。
読んでいただきありがとうございます。
ついにブルースターの芽が……。
深夜なのに飛んできてしまう人と、
それを当たり前のように迎え入れてしまう人。
二人とも、もう少し自覚を持った方がいいと思います(笑)




