第6話 教室に持ち込まれた生活の匂い
席についてカバンを下ろすと、咲がすでに隣にいた。
ノートを開いてシャーペンをくるくる回しているが、その視線はどこか遠い。俺が座った気配に気づくと、彼女は弾かれたようにこちらを向き、コンマ数秒遅れて「普通」を装った。
「おはよう」
「……おはよ」
今日は声が裏返らなかった。
それだけで、ちょっと安心する。
次の瞬間、咲の視線が俺の襟元で止まった。
「渡くん、ネクタイ少し曲がってる」
「……あとで直す」
「今直しなよ。……あ」
咲が手を伸ばしかけて、ピタッと止まった。
教室。近い席。周りの視線。
たぶん、それを思い出したんだと思う。
白い指が、行き場をなくしたみたいに空中で止まっていた。
耳、赤い。
……たぶん、昨日のせいだ。
ベランダ。
麦茶。
みくの寝息。
俺の部屋に、当たり前みたいに咲がいた。
思い出した瞬間、変な熱が喉の奥まで上がってくる。
俺は誤魔化すみたいに教科書を机へ置いた。
少し強めの音が鳴る。
「ねえ、渡くん」
咲が机に伏せるようにして、声を低くした。
「今朝、出る前に水やりしておいたから。……芽は、まだだった」
俺の防壁が、音を立てて崩れた。
「土、ちょっと乾いてたから。あと、麦茶。新しいの作って冷蔵庫入れといたから。帰る頃には冷えてると思う」
「……学校で言うことか、それ」
「だってみくちゃんに頼まれたんだもん。パパにちゃんと報告してって」
報告先が俺なのはいいとして、呼び方! と喉まで出かけた声を、俺は必死に飲み込んだ。
「……しーっ」
咲が人差し指を口に当てて俺を制す。
周りのクラスメイトはまだホームルーム前のざわめきの中にいて、俺たちの会話には気づいていない。
今朝、俺の部屋のキッチンで麦茶を作り、ベランダで水をやってから登校してきた女が、平然と数学の教科書を開いている。
学校という俺の「聖域」に、あのアパートの湿った生活感が、彼女の吐息と一緒に漏れ出している。なんなんだ、この空間は。
「放課後、サミット寄れる?」
一限休みのチャイムが鳴るなり、咲が俺の机に肘をついてきた。
「寄れるけど。……何買うんだ」
「卵と人参。渡くん、昨日オムレツにしたから、もうストックないでしょ。あとお醤油。詰め替え用がもうすぐなくなる」
「なんで俺より在庫に詳しいんだよ」
「合理的だからだよ。……それから、みくちゃん。昨日の肉じゃがの人参、やっぱりちょっと残してたでしょ」
咲が少しだけ、困ったように眉を下げた。
「今日はもっと細かく刻んで、鶏つくねに混ぜようかなって。……誰かのために献立考えるのって、意外と……意外と嫌じゃないかも。」
「……あ、別に深い意味じゃないけど」
と、少しだけ早口で付け足した。
その言葉に、なんかモヤモヤした。
彼女がなぜ俺の冷蔵庫の在庫を完璧に把握し、栄養バランスに執着するのか。
「……咲」
「なに?」
「俺たち、今、完全に主婦の会話をしてるよな」
咲がきょとんとした。
「主婦って、どういう意味?」
「食材の在庫とお醤油の残量と子供の野菜嫌い対策を同時にこなす人間のことだよ」
「……管理してるのは私だけど、渡くんもちゃんと『お醤油少ない』って思ってたでしょ? 今朝、シンクの下チラって見てたし」
「…………」
見られてた。
いや、違う。
問題はそこじゃない。
醤油の場所を自然に把握してたこととか。
残量を気にしてたこととか。
それを咲に当たり前みたいに見抜かれてることとか。
なんかもう、完全に駄目な気がする。
「なあ青木」
三限の前、田中が俺の机の前に立った。
「最近、藤原とずっと小声で話してるよな。……お前ら、まさか」
「違う。親戚の子の話だ」
「いや、なんか……隠せてるつもりかもしれないけど、すごく……『生活』が漂ってんだよな。俺の親父がオフの日にスーパーで母親の後ろ歩いてる時と同じオーラを感じる」
田中の直感は、暴力的に鋭かった。
「青木が否定する時ってだいたい——」
「田中くん」
咲の声が、田中の後ろからした。
咲はごく自然な動作で、俺の制服の肩に手を伸ばした。
糸くずが一本、ついていたらしい。
咲の指先がそれをつまんで、ふっと息を吹きかけて払った。
新妻が、出勤前の夫を送り出す時にやる、あの仕草。
それを、三十人がひしめく教室の真ん中で、あまりにも「日常」としてやってのけた。
「渡くん、これついてたよ」
「……あ、ああ。サンキュ」
受け取ってしまった。
「何すんだよ」と避けることもせず、俺はそれを「当然のケア」として、肺の奥まで吸い込んでしまった。
田中が、俺と咲を交互に見て、三秒ほど沈黙した。
「……ごめん。俺、邪魔したわ。末永く爆発しろ」
田中はそれだけ言って、自分の席に戻った。
咲は「何の話?」と小首をかしげ、耳たぶを指先でそっとつまんだ。
放課後、スーパーの入り口で合流する。
俺は自然に買い物カゴを手に取り、咲の隣に立った。
「鶏肉、今日は挽き肉でいいね」
「ああ。……それから」
「なに?」
「……明日のお弁当、渡くんの分も作ってこようか?」
咲の言葉に、俺の手が止まった。
「お弁当?」
「うん。みくちゃんの晩ごはん作る時に、一緒に渡くんの分も作っちゃえば効率的かなって。……渡くん、お昼いつも購買のパンでしょ。野菜、全然足りてないし」
「それは……」
「嫌? 藤原さんの手作り弁当、迷惑かな」
咲が、下から覗き込むように俺を見た。
迷惑なわけがない。
夕飯を共にし、歯ブラシを並べ、種を植え、そして今度は学校での昼食まで、彼女の彩りに染まる。
「学校」という、俺の最後の一人きりの聖域が、彼女の作るおかずの匂いで塗りつぶされていく。
それが、恐ろしいほどに甘い誘惑に聞こえた。
「……嫌じゃない。……頼む」
絞り出した声に、咲はパアッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「よし。じゃあ、卵は特売の十個入り買わなきゃ。卵焼き、甘いのと出汁巻、どっちがいい?」
「……どっちでもいい。咲が作るなら、どっちでも」
「じゃあ、明日は出汁巻。みくちゃんもその方が好きだし」
エコバッグを指に食い込ませながら、俺は咲の半歩後ろを歩いた。
このまま、どこまでも流されていける気がした。
一人でいることの気楽さを、俺はもう、思い出せなくなっていた。
帰り道、夕焼けが俺たちの影を長く引き伸ばす。
アパートの階段を上り、俺はいつものように鍵を差し込む。
ドアを開ける前から、確信していた。
この重いドアの向こうには、待っている誰かがいる。
「ただいま」
俺が言うより先に、ドアが内側から開いた。
「おかえりーーー!!」
みくが弾丸のように飛び出してきた。
「パパ! ママ! おかえりなさーい!」
全力の笑顔で放たれた「パパ」と「ママ」の二重奏に、俺と咲は玄関先でフリーズした。
「……み、みく。さっきもお兄ちゃんとお姉ちゃんって……」
「だって、お外じゃないもん! お家は、パパとママでしょ!」
みくが咲の手を引き、俺の腕を引っ張る。
咲は顔を真っ赤にしながら、でも、繋がれたみくの手を離さなかった。
それどころか、俺の方をちらっと見て。
「……ただいま、渡くん」
小さく、震えるような声で、彼女はそう言った。
俺の家で。俺の目の前で。
彼女はもう、自分の帰る場所を、ここだと決めてしまったみたいだった。
俺は、彼女にだけ聞こえるような声で、返した。
「……ああ。おかえり、咲」
もう、後戻りはできない。
一人暮らしの静寂なんて、どうやって保っていたのかも思い出せない。
キッチンから聞こえ始めた水の音。みくの笑い声。
俺は、陥落した城の中で、これ以上ないほど幸福な絶望に浸っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しずつですが、三人の日常が形になってきました。
渡はまだ認めませんが、渡の家での生活が少しずつ賑やかになっています(笑)
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