第5話 【咲の視点】ブルースターの種と、幸福な陥落
自分の家のドアを開けた瞬間、耳が痛くなるような静寂に包まれた。
広いリビングには誰もいない。
ダイニングテーブルの上には、母が置いていった千円札と、「適当に食べて」のメモ。
さっきまで、あの狭いアパートで。
味噌汁の湯気の匂いと、
みくちゃんの笑い声と、
渡くんの「走るな、危ないだろ」という呆れた声の中にいたはずなのに。
靴を脱ぐ音だけが、やけに大きく響く。
冷蔵庫のモーター音。
壁掛け時計の秒針。
この家って、こんなに静かだったっけ。
私は制服のまま、ソファに座り込む。
……みくちゃん、寂しがってないかな。
そう呟いてから、
私は意味もなく、ソファのクッションを抱きしめた。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
理由は分からない。
きっと、雨のせいだ。
【渡の視点】
「おはよう」
「お、おはよ」
声、裏返った。
終わった。
咲がピタッと固まる。
それから視線をノートに落として、耳たぶを触った。
赤い。
なんかもう見てるこっちが無理だった。
昨日のこと、絶対思い出してる。
狭い廊下。
洗面所の水の音。
『同棲みたいだね』
あの声。
しかも今朝、普通に三人分のマグカップ並んでたし。
なんなんだよ、あれ。
変に静かになった。
俺はシャーペンを持ったまま、ノートの端を意味もなく擦る。
「……今日、ホームセンター行けそう?」
先に口を開いたのは咲だった。
正直助かった。
「みくちゃんの種、早めに植えてあげたいし。……土とか、プランターとか、重いから。私一人じゃ無理だし」
「あ、ああ。放課後、行こう」
彼女は「私一人じゃ無理」と理由を添えた。
俺も「重いからな」と自分に言い訳をする。
「……あ、あと」
「なに?」
「今夜、米、三合でいいか?」
「…………」
咲は一瞬だけ俺を見て、それからさらに耳を赤くして頷いた。
「……三合。みくちゃん、おかわりするだろうし」
会話の内容は、あまりに、救いようがないほどに家庭的だった。
裏返った声も、耳の赤みも、この際全部「みくのため」という建前の下に押し込んで、二人して「今日の生活の予定」を組んだ。
駅前のホームセンター。
みくが、自動ドアが開くのと同時に弾かれたように走り出した。
「ひろーい! パパー、こっち!」
「走るな。迷子になったら一生ここ暮らしだぞ」
俺は入り口近くに並んだ大型のショッピングカートを一台引き抜いた。
「……押すよ」
「あ、ありがとう。……じゃあ、私はこっち持つね」
咲が自然な動作で、カートの持ち手の右側を握った。俺が左側。
二人で一台のカートを操り、タイル張りの床をガラガラと音を立てて進む。
横並びではなく、三人で一つのユニットとして移動するこの感覚。
これを「家族」という単位で呼ばずになんと呼ぶのか、俺にはまだ分からなかった。
園芸コーナーに着くと、咲の「生活への執着」が遺憾なく発揮された。
「プランターは、こっちの素焼き風にしよう。渡くんの家のベランダ、手すりがアイアンでしょ? そっちの方が色が馴染むから」
「俺は、安いやつでいいんだけど」
「だめ。毎日見るものなんだから、妥協したら幸福度が下がるよ」
咲は俺の意見を聞くふりをして、着々と「渡の家」に最適化されたアイテムを選んでいく。
それはまるで、俺の生活の空白を自分の色で埋めていく作業のようにも見えた。
「ジョウロ。緑色の、これにしよう。……これ、私の部屋のとお揃いなの」
咲はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
俺の家にある緑色のジョウロと、咲の家にある緑色のジョウロ。
そんな目に見えない繋がりを、彼女は無意識に求めているのかもしれない。
プランター、土、スコップ、そしてジョウロ。
それらは全て、明日からも咲が俺の家に来ることを前提としたアイテムだ。
今日で終わりじゃない。明日も、その次も、君は来る。
その約束の重みが、ホームセンターの無機質な蛍光灯の下で、妙に温かく胸に沈んだ。
夕暮れ時の、四畳半のベランダ。
俺と咲は、膝を突き合わせるようにして座り込み、プランターに土を流し込んでいた。
「みくちゃん、種、出して」
「はーい!」
みくがポシェットから、あの不思議な水色がかった薄紫の種を取り出した。
小さな、命の粒。
咲が指先で土に小さな穴を開ける。その時、彼女の細い指に黒い土がついた。
「あ……」
俺は、制服のポケットからハンカチを取り出し、彼女の手をそっと取った。
「……汚れ、取れたぞ」
「……ありがと」
指先を通して、咲の鼓動が伝わってくるような気がした。
咲は伏せ目がちに呟き、すぐさま右の耳たぶを指先で強くつまんだ。
みくが、その種を穴にそっと落とし、上から優しく土を被せる。
「ちゃんと咲くかな。ブルースター」
「咲くよ。私たちが、ちゃんと水をあげるから」
「ねえ、お姉ちゃん。ブルースターの花言葉、知ってる?」
みくの問いに、咲が少し驚いたように顔を上げた。
「……知ってるよ。信じあう心、でしょ?」
「うん。あとね、『幸福な愛』なんだよって、未来のパパが教えてくれた」
みくが屈託のない笑顔で言い放つ。
俺と咲は、同時に凍りついた。
未来の、パパ。
論理的に考えればありえない話だが、このベランダに流れる、夕飯の支度の匂いと、使い込まれたジョウロの質感が、その言葉に奇妙な真実味を与えていた。
「……未来でも、この花、咲いてたのか?」
俺が掠れた声で聞くと、みくは大きく頷いた。
「うん! ベランダいっぱい。お空と同じ色の花。……パパとママが、いつも笑ってお水あげてた。ここ、大好きだって言いながら」
その瞬間、風が吹いた。
オレンジ色に燃える夕焼けが、俺たちの影をベランダの床に長く伸ばす。
俺と咲の影は、境界線が溶け合うように、重なり合っていた。
まるで、その未来がもう始まっているかのように。
作業を終えて、三人で麦茶を飲んだ。
みくはソファで俺のジャージを握りしめたまま、眠りの中に落ちていた。
リビングには、冷蔵庫がカチッと鳴る音だけが響く。
「……明日から、大変だね」
咲が、窓の外のベランダを見つめたまま言った。
「水やり、忘れたら芽が出ないし。夏場は土が乾きやすいから、毎日様子を見ないと」
「……そうだな」
「だから、また夕方来るね。渡くんだけに任せるのは、どうしても不安だし」
咲は、なんでもないことのように、明日も来る理由を口にした。
「みくちゃんのため」という口実に、「花のため」という新しい理由が積み重なる。
俺は、飲みかけの麦茶を眺めた。
液面が小さく揺れている。本当は、彼女が来る理由が一つ増えたことに、救われている自分がいるのを認められなかった。
「……分かった。……待ってる」
「……うん。よしっ」
咲が帰った後。
一人になった部屋は、驚くほど静かだった。
だが、かつての「自由で快適な静けさ」とは、決定的に何かが違っていた。
キッチンには、咲の形跡。
洗面所には、咲の歯ブラシ。
そしてベランダには、明日を待つプランターと、咲とお揃いのジョウロ。
暗い土の下で、未来の種が眠っている。
俺の一人暮らしの城は、ブルースターの芽が出る前に、とっくに陥落していた。
明日も、彼女は来る。
その「当たり前」という名の猛毒に、俺はもう、全身を浸してしまっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
第1話で突然「パパ」と呼ばれた渡ですが、気づけば少しずつ三人の距離が近づいてきました。
この物語は、
「未来の娘」
と
「隣の席の女の子」
と
「まだ何も知らない主人公」
が、少しずつ家族みたいになっていくお話です。
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