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未来の娘がやってきて、隣の席の美少女が『通い妻』になった〜青い花が咲く日まで、俺たちはまだ気づかない〜  作者: リディア


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第4話 歯ブラシと雨と、侵食される一人暮らし

 昼休みの教室。


 窓から差し込む午後の光が、机の上に置かれた数学のノートを照らしている。藤原咲ふじわらさきがそのノートを俺の机にスッと滑り込ませたのは、体裁としては「ノートの貸し借り」だった。


「ねえ、渡くん」


 隣から、小さい声。


「……なに」


「昨日の残りの肉じゃが、今朝みくちゃんが食べた?」


「食べた。卵かけごはんに混ぜて『肉じゃが丼』にしてやったら、完食してたぞ」


「よかった。あの角切りにした人参、みくちゃん苦手だったはずだけど、混ぜちゃえば食べるんだね。……じゃあ、今日のごはんは三合でいい?」


「……三合にしとけ。最近、俺の食欲もバグってる気がするし」


「了解。じゃあ、サミットの特売で卵買い足しておくから。冷蔵庫、あと二個しかなかったでしょ?」


 咲は答えを待たず、当然のことを言ったまでだと言わんばかりに自分の席に戻る。

 三つ隣の席で牛乳を飲んでいた田中が、盛大にむせた。


 反射で否定した。


 でも横を見ると、咲が耳たぶをめちゃくちゃ引っ張っていた。


 田中は「うわぁ……」みたいな顔をしている。


 なんなんだよ。

 ただ昨日の残りの話しただけだろ。


 ……いや、でも。


 昨日の残りがどうとか、みくが朝ちゃんと食べたかとか。

 そういう会話を普通にしてる時点で、なんかもう距離感がおかしい気もした。


 アパートのドアを開ける。

 炊きたての匂いがする。

 あと、出汁の匂い。


 玄関に咲のローファーが置いてある。

 それ見た瞬間、なんか変に安心した。


「おかえりー!!」


 廊下の向こうから、みくが全速力で突っ込んでくる。


「ただいま。……咲は?」


「キッチン! お姉ちゃん、お歌うたいながらごはん作ってるよ!」


 リビングに入ると、咲が俺のダサいエプロンをつけて、慣れた手つきで鍋を振っていた。


「あ、おかえり渡くん。三合、ちょうど炊けたよ」


「……俺より先に帰宅して俺の米炊くの、もう普通になってんな」


「合理的でしょ。その分早く食べられるし」


 咲が、花柄のマグカップに麦茶を注ぐ。


 いつの間にか、俺の黒いマグの隣に、その白い花柄が並ぶのも普通になっていた。


 洗面台にはハンドクリーム。


 ソファの端には、昨日忘れていった茶色のヘアゴム。


 前はこんなの無かったはずなのに。


 なのに今は、あるのが普通みたいになってる。


 三人で飯を食う。


 ニュースが流れていて、みくが「にんじんおいしい!」って騒いでいる。


 咲が、自然に俺の茶碗へおかわりをよそう。


 俺も普通に受け取った。


 ……なんか、変だ。


 前まで、一人で適当にコンビニ飯食ってたのに。


 今はこのうるさい感じの方が、落ち着く。


 そこまで考えて、なんか怖くなってやめた。


 ――どっ、と。


 暴力的なまでの雨音が、マンションの外壁を叩き始めた。


「わ、すごい雨……」


 咲が手を止めて窓を見る。空は完全に墨色に染まり、視界を遮るほどの豪雨が降り注いでいる。


「……折り畳み、持ってないのか」


「朝は晴れてたし。……渡くん、傘借りてもいい?」


「いいけど。……駅までの道、冠水しやすいだろ。その靴じゃ無理じゃないか?」


 咲が自分のスニーカーを見て、少し困ったように眉を下げた。

 みくがすかさず、咲のスカートをきゅっと掴む。


「お姉ちゃん、かえっちゃやだ。今日はお泊まりして!」


「えっ、でも、みくちゃん。私、着替えもなにも……」


 そう言いながら、咲は一瞬だけ窓の外を見た。


 雨はまだ止みそうにない。

 暗いガラスに映った横顔が、ほんの少しだけ強張って見えた。


 俺は押し入れに目を向けた。


「……布団の予備、上の段にある。雨やむまで、いていいぞ」


 言ったあと、自分でも少し驚いた。


 咲が目をぱちくりさせる。


 数秒遅れて、視線を落とした。


「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 それは雨を理由に、彼女がこの場所に留まることを選んだ、初めての明確な意思だった。


 みくがソファでぐっすりと眠りに落ちた後、リビングの空気は一変した。


 テレビのボリュームを極限まで下げ、雨音だけが部屋を支配している。


 俺は咲の隣、クッション一個分だけ開けた場所に座った。


 同じ部屋で、雨音を聞きながら、二人で夜を過ごす。

 高校生という肩書きを剥ぎ取れば、それはもう、ひとつの完成された「生活」だった。


「……私、渡くんの家の調味料の配置、もう完璧に覚えちゃった。自分の家より、使いやすいかも」


 咲がくすっと笑う。その笑顔が、あまりにも無防備で。


「合理的だから、いいでしょ」


 彼女は自分に言い聞かせるように

「合理的」という言葉を繰り返す。

 そうでもしないと、この幸福の理由を説明できないからなのだろう。


「……咲。これ」


 俺は洗面台の引き出しから、景品でもらった未開封の歯ブラシを取り出した。

 咲に差し出す。


「歯ブラシ。……使えよ」


 咲が、その歯ブラシを両手で受け取った。

 視線が、一本の歯ブラシに集中する。


 使い捨ての安物ではない、自分専用としてここに置かれることになる、物理的な「居場所」。


「……ありがとう。……あの、渡くん」


「なに」


「……これって、なんか」


 咲の声がやたら小さい。


「……すごく、同棲みたいだね」


 頭の中で、何かが爆発した。


「……は?」


 いや待て待て待て。


 同棲って、お前。


 歯ブラシ。

 パジャマ。

 風呂上がり。

 俺の部屋。


 今それ言う!?

 しかもいい匂い…。


 急に色んな情報が頭に入ってきて、心臓が意味分からん速度で暴れ始めた。


「……俺はなんも言ってないぞ」


 声がちょっと裏返った。


「わ、分かってる! 分かってるけど、でも……!」


 咲が真っ赤な顔のまま、歯ブラシを握って洗面所へ逃げ込む。


 バタン、とドアが閉まった。


 水の音。


 俺はその場でクッションに顔を埋めた。


 どうしよう…。無理だろ、これ。


 俺のHP、もうゼロなんだけど……。


 翌朝。


 包丁の音で目が覚めた。


 トントン、トントン。


 寝ぼけたままリビングに出る。


 カーテンの隙間から朝日が入っていた。


 昨日の雨、もうやんでるらしい。


 キッチンでは、咲が普通にエプロンをつけて味噌汁を混ぜていた。


「おはよ、渡くん」


「……おはよ」


 昨日、「同棲みたい」とか言って真っ赤になって逃げたやつと同一人物とは思えないくらい普通だった。


「トーストもう焼けるよ。みくちゃん、先に座ってる」


 テーブルを見る。


 俺の黒いマグ。

 咲の花柄のマグ。

 みくの小さいコップ。

 三つ並んでるのが、なんかもう自然すぎた。


 俺は黙って椅子に座る。

 一人だった頃の朝って、どんな感じだったっけ。

 そこまで考えて、途中でやめた。


「……ねえ、パパ」


 みくが、ジャムを塗ったトーストを頬張りながら、不意に言った。


「この朝ごはん、未来でもパパが『これが一番落ち着く』って言ってたよ」


「……え?」


 咲の手が、ピクリと止まった。


「パパが焼いた焦げたトーストより、お姉ちゃんのこのお味噌汁が、世界で一番好きって」


 未来。


 その単語が、温かなリビングに、小さな針のように刺さる。

 咲が耳たぶを触りながら、顔を赤くして、でもどこか嬉しそうに俯いた。


「……未来でも、私はここにいるんだね」


 咲が小さく呟いたその言葉に、俺は答えられなかった。


 ただ、自分のコーヒーが、驚くほど俺の好みの濃さで淹れられていることに気づいて。


 俺は、もう元の一人暮らしには絶対に戻れない。

 この温もりに慣れてしまった俺にとって、一人で食べる朝食は、きっともう、何の味もしないだろうから。


 その確信だけが、胃の奥に心地よく、そして少しだけ重く、沈んでいった。


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