第3話 合い挽き肉と、疑似家族のサイクルと、俺の心臓の残機
昼休みの教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
以前の俺なら、この騒がしさがちょうどよかった。一人暮らしの、あの耳が痛くなるほどの静寂を忘れさせてくれるから。
だが今は、少し違う。窓際の席でコンビニのパンを開けようとしていた俺の隣に、藤原咲が極めて自然な足取りで近づいてきた。
「ねえ、渡くん。合い挽き肉、ちゃんと特売の方チェックした? 今日、駅前のサミットで百グラム九十八円だよ」
「……学校で肉の相場の話をわざわざしに来るな」
「安いよ? 二パック買っとけば足りるかな。みくちゃん、よく食べるでしょ?」
「俺に聞かれても」
「みくちゃん、昨日のお肉すごく美味しそうに食べてたし……あの子、お肉があると、ちゃんと野菜も食べてくれるから」
咲の声が、ふっと柔らかくなった。
彼女は自分の机に座り、弁当の蓋を開けながら、内緒話のようなトーンで続ける。
「玉ねぎ、みじん切りにしておきたいから。みじん切り器、出しといてね」
「だから、俺んちの在庫と設備の把握をやめろ。……怖いから」
「あったよね? シンク下の二段目」
「……あったとしてもだ! なんでお前が俺の城の構造を知ってるんだ!」
「えー。だって、渡くんが使いやすそうにしてたから、そのままにしただけだよ?」
咲が何気なく放った言葉が、胸の奥を小さく突いた。
俺の生活が、誰かの視点によって「整えられて」いく。それが、あんなに大切にしていた「一人の自由」を少しずつ、けれど温かく侵食していく。
「なあ青木ー」
田中の声に、俺の肩が跳ねた。
「お前らさ、なんか……夫婦みたいな空気してない?」
「してない」
俺はコンマ一秒で即答した。自意識を守るための、防衛本能だ。
「……してないよ」
咲も否定した。だが、その指先が右の耳たぶを強くつまんでいるのを、俺は見逃さなかった。
田中が去った後、俺はぬるくなった麦茶を飲み込んだ。
冷蔵庫の在庫を共有する。そんな、家族しか持たないはずの特権を、俺たちは学校というパブリックな場所で、危ういバランスで共有してしまっていた。
「あっ」
スーパーの精肉コーナーで、俺と咲は同時に声を上げた。
別々に学校を出て、時間をずらして帰ったはずだった。それなのに、夕暮れのサミットで遭遇するのは、もはや事故というより「帰る場所」が同じ人間の必然のように思えた。
「なんで来てんの」
「ハンバーグ、二回分は取れるかなと思って」
咲はすでに、特売の合い挽き肉のパックを二つ、買い物かごに入れていた。
「一人で買うより、相談しながら選ぶ方が……なんか、献立が決まるのが早くて助かるね」
咲がふっと目を細めて、並んだ肉のパックを見つめた。
その顔は、世話焼きなクラスメイトのそれではなく、ただ純粋に、この「誰かと夕飯を相談する時間」を噛み締めている一人の少女の顔だった。
「……にんじん、一本買っとくか。みく、ハンバーグなら食べるだろ」
「あ、それいいね。天才かも」
俺の提案に、咲が弾けるように笑う。
カゴの中ににんじんが一本放り込まれる。ケチャップとデミグラスソースの棚の前で、俺たちは立ち止まる。
「ケチャップ、まだ残ってたっけ」
「半分くらいかな。デミグラスも混ぜる? みくちゃん喜ぶから」
俺はソースの棚を眺めながら、ふと、強烈な違和感に我に返った。
俺たち今、スーパーでどういう会話をしてる?
高校二年生の男女が。家にいる幼女の好みを最優先にして、夕食の味付けを相談している。
この光景が、かつての「もやし炒めだけで済ませていた夕暮れ」より、一億倍くらい「正しい」気がしてしまうのが、たまらなく怖かった。
「渡くん、どうしたの。顔、すごい赤いけど」
「健康です!! 細胞の隅々まで、絶好調に健康です!!」
咲がくすっと笑い、カゴを持ってレジへと向かう。
俺はその背中を追う。一歩後ろを歩きながら、俺は「戻れない」という予感に足を震わせた。
マンションの廊下を歩き、鍵を差し込む。
深く息を吸う。以前の俺にとって、このドアを開けることは「完全な沈黙」への帰還だった。
だが、ノブを回した瞬間。
「パパー!! お姉ちゃん!! おかえりーーー!!」
弾丸のようなみくが、廊下を駆けてくる。
俺の腰に激突する熱量。咲がその背中を優しく撫でる。
「ただいま、みくちゃん。いい子にしてた?」
「うん! えへへ〜」
みくが照れたみたいに、自分の耳たぶをちょんと触る。
二人の「えへへ」がシンクロする。
静かだった部屋が、一瞬で「生活」の音に塗り替えられた。
みくが俺を見上げる。
「ねえパパ! みく、おなかすいた!」
「帰ってくるなりそれかよ」
「だってスーパーの袋あるもん!」
みくがえへへ〜と笑う。
キッチンから、トントンと包丁の音が聞こえる。
咲が、俺のみじん切り器を勝手に使っていた。
「それ、俺のなんだけど」
「知ってる」
なんか腹立つ返事なのに、少し笑いそうになった。
ついこの前まで、一人で適当にコンビニ飯食ってた部屋なのに。
今は、普通にうるさい。
包丁の音とか、みくの声とか、咲の鼻歌とか。
でも、そのうるささが、なんか落ち着いた。
……変なの。
まあ、そんなことより、テーブルに並んでるハンバーグが、めちゃくちゃ美味しそうだった。
「いただきます!」
みくが元気よく手を合わせる。
咲が隣で、切り方を丁寧に教えている。
「上手だね、みくちゃん」
「おいしい!! お姉ちゃんのごはん、世界一おいしいー!」
咲の頬が、嬉しそうに上気する。
俺もハンバーグを口に運んだ。
肉汁が溢れ、ソースのコクが舌の上で踊る。
……完敗だ。なんてうまさだ。
「渡くん、どう?」
「……普通。普通に、完敗」
「最初からそう言えばいいのに」
咲がいたずらっぽく笑う。
みくが寝る前に言った。
「三人で、動物園行きたい」
俺と咲は、同時に固まった。
咲が、上目遣いで俺を見る。
「……渡くんがいいなら、私も、行ってあげてもいい、けど」
赤くなった耳たぶを触りながら、咲が言葉を紡ぐ。
俺は、お茶の入った湯飲みを持ったまま黙った。
……いや待て。
三人で動物園って…。
それって、ほぼデートじゃないか?
みくを喜ばせたいとは思う。
でもなんか変に緊張する。
動物園なんて、小学校の遠足以来だし。
「……だめ?」
みくが、不安そうに俺たちを見た。
その顔を見た瞬間、なんかもう断れる空気じゃなくなった。
……もう知らん。
「……別に、いいけど」
一拍遅れて、咲が小さく頷く。
「……私も、大丈夫」
「やったー!!」
みくがペンギンみたいにバタバタ跳ね回る。
咲が「危ないよ」と笑いながら、その肩を押さえた。
俺は湯飲みを持ったまま、その様子を見ていた。
なんかもう、普通だった。
三人でこうやって飯食って、笑って、次の休みの話して。
少し前まで、こんな生活してなかったはずなのに。
もしこれが急になくなったら、俺、どうなるんだろう。
そこまで考えて、なんか嫌になってやめた。
咲が、空になった俺の湯飲みにお茶を注ぐ。
「冷めないうちに飲んでね、渡くん」
「お……おう」
湯気が、やけに近く感じた。
俺の家で。俺の湯飲みに。
それが、どんな告白よりも深く、俺の孤独を抉り、そして埋めていった。




