第2話 通い妻の足音と、潰れた俺の理性
「……親戚だ」
みくの無邪気な顔を見下ろしながら、俺は一人で強引な結論を出した。
「そうだ。絶対そうだ。親戚の子だ。どっかの遠い親戚の、ちょっと癖が俺の知ってる奴に似てるだけの、迷子の女の子だ。以上。解散。証明終了」
「パパが、なんかぶつぶつ言ってる」
「独り言だ。大人の階段を登るための、必要な精神統一だ。気にするな」
俺は立ち上がって、ズキズキと痛むこめかみを両手でぐりぐりと揉みほぐした。
タイムトラベルとか、未来の子供とか。そういう夢見がちな話は、中学生が深夜のテンションで書くノートの落書きの中だけにしておいてくれ。
現実的に考えろ、青木渡。俺は一応、理系の端くれだ。科学的思考を尊ぶ現代の高校生だ。
相対性理論だのタイムパラドックスだのといった非科学的な仮説より、「俺の親戚がやばい教育をしている」という親戚ヤバイ仮説の方が、まだ一億倍くらい現実的でマシだった。
「みくちゃん。あのさ、お母さんやお父さんの連絡先とか分かる? 携帯番号とか、お家の住所でも——」
「えへへ〜」
「えへへじゃなくてさ!!」
みくはソファの上から、俺が愛用しているクッションを当然のように引きずり下ろして抱え込み、ぺたんとフローリングに座り込んだ。
なんかもう完全にくつろいでいる。まるで、ここが自分の家であるかのように。
いや、彼女の主張が正しければここは未来の彼女の家なのかもしれないが、断じて今は俺の一人暮らしの城――世界で一番静かで、誰にも邪魔されないはずの場所なのだ。
「お腹すいたー。パパー、ごはんー」
「だからパパって呼ぶな! 俺はまだ高校生だ! 扶養家族を養う経済力はない!」
「おにいちゃん、ごはんー」
「……ああもうっ、分かったよ! ちょっと待ってろ!」
俺は盛大にため息をついて、玄関の床から、さっき落としたコンビニのレジ袋を拾い上げた。
中を覗き込む。
賞味期限は明日までの絹ごし豆腐。
パッケージに破れはない。だが、落とした衝撃で、中身は無惨に崩れていた。白い四角だったはずのものは、もう原型を保っていない。
しばらく、それを見下ろした。
……どう調理すればいいんだ、これ。
咲には「肉と一緒に炒めればいい」と言われたが、ここまで崩れていると、最初から麻婆豆腐の成れの果てにしか見えない。
まあ、一人で食うなら別にいいか。
冷蔵庫が、低く唸っていた。
——その時だった。
ピンポーン。
無機質なチャイムの音が、静かすぎる部屋に響いた。
みくがぱっと顔を上げ、玄関を指差す。
「だれか来た!」
「……俺に聞かれても」
ネット通販で頼んだ荷物はない。近所付き合いなんて皆無だ。
こんな夕暮れ時に、わざわざ俺の部屋を訪ねてくる人間なんて、俺の狭い交友関係の中にはたった一人しかいない。
嫌な予感と、それ以上の、得体の知れない期待感が背中を走った。
恐る恐るチェーンをかけたまま扉を少し開けると、ドアの隙間から、見慣れたセーラー服が視界に入った。
エコバッグを手に下げた、藤原咲だった。
「ちゃんと豆腐、買ってきた?」
「……なんで来た」
「心配だったんだもん。渡くんのことだから、途中でめんどくさくなって『やっぱりもやしでいいや』とか言い出して絶対忘れると思って。ほら、開けて」
咲がずいっとドアを押し開けようとする。俺は慌てて体でドアを押さえた。
「買った! ちゃんと買ったぞ! だから帰っていいぞ!」
「えっ、何その態度。せっかく様子見に来てあげたのに」
「買った。買ったが、俺の手元が狂って床にダイブして、見事に潰れた! だから見せられない! 女子にぐちゃぐちゃの豆腐は見せられない!」
「なんで豆腐が潰れてんのよ、意味わかんない。いいから開けなさい」
咲は「はあ」と呆れたように長いため息をつくと、俺の脇のわずかな隙間から、部屋の奥の廊下を覗き込んで——
ピタリと、動きを止めた。
「……ねえ、渡くん」
「……な、なんでしょう」
「今、あそこに」
咲の視線の先。リビングのドアの隙間から、見知らぬ幼女がこっちを覗いている。
「親戚の子です」
「嘘くさ」
俺の渾身の言い訳は、一秒も間を置かずに切り捨てられた。
「ほんとに! 遠い親戚の子! さっき急に預かることになって!」
「連絡もなく? そもそも渡くん、こっちに親戚いないって言ってたじゃん」
「いやそれが向こうの複雑な事情で! 親の急な出張とか、なんかそういう社会的なアレで急に!」
「急にって何が急に——」
咲が俺を問い詰めようとした、その時。
みくが、ぱたぱたと足音を立てて廊下に出てきた。
そして咲の顔を見た瞬間、みくの目が星のようにぱあっと輝いた。
「あっ——マ——」
「マァアアア! 前から言ってた親戚の! みくちゃんです!!!」
俺は音速でみくの背後に回り込み、小さな口を両手でガバッと塞ぎ、喉から血が出そうな大声で叫んだ。
咲がビクッと肩を震わせる。
「……渡くん、声デカい。びっくりしたんだけど」
「み、みくちゃん! ほら、ご挨拶は!? 変なこと言っちゃダメだよ!?」
俺がそっと手をどけると、みくは不思議そうに首をかしげてから、にっこりと笑った。
「お姉ちゃん、だあれ?」
セーフ。
俺は心の中で静かに十字を切り、神に感謝した。俺の寿命は確実に五年縮んだが、なんとか最大の危機は耐え凌いだ。
「お姉ちゃん、かわいい!」
「……っ! もう、合格」
みくの無邪気な一撃に、咲の表情が一瞬でとろけた。
咲は手に持っていたエコバッグを床に置き、靴を脱ぐのももどかしそうに上がり込むと、みくの前にしゃがみ込んだ。その表情は、俺に向ける呆れた顔とは別人のように優しい。
「こんにちは。お姉ちゃんはね、藤原咲っていうの。お名前は?」
「みく!」
「みくちゃんかぁ、可愛い名前だね。お洋服もすっごく似合ってる」
「えへへ〜」
あっ、咲も「えへへ」って笑った。
なんだこの、パズルのピースが完璧にはまっていくような既視感の塊は。
咲はみくのふわふわの茶髪をそっと撫でてから、ゆっくりと立ち上がり、ビシッと俺の方を指差した。
「とりあえず夕飯、作ろっか」
「……え、いや、それは悪いし——」
「豆腐、潰れてるんでしょ。このままじゃ炒め物には使いにくいし、麻婆豆腐にすれば形なんて関係ないから。ほら、そこどいて。みくちゃんもお腹すいてるでしょ?」
「うん! すいてる!」
外堀を完全に埋められた。
咲はエコバッグを拾い上げると、俺の制服の袖を掴んでキッチンへと追いやり、迷いなくシンク下の引き出しを開けた。
そして、一枚の布切れを取り出す。
俺が家庭科の授業で作らされた、絶妙にダサい無地のエプロンだった。
「……お前、なんで俺んちのエプロンの場所知ってんの。俺、教えた覚えないんだけど」
「この引き出しにしまうのが合理的でしょ、コンロの横なんだし」
「いや、合理性の話じゃなくて! 俺のプライベート空間の防壁の話をしてるんだけど!」
「でも渡くん、いつも洗い終わったエプロン、ソファに丸めて放置してるじゃん。だから私が前回片付けておいたの。ほら、シワになってないでしょ」
「…………」
ダメだ。正論かつ女子力の暴力で殴られた。俺の心の防壁はすでに更地だった。
咲は慣れた手つきでエプロンの紐を背中で結ぶと、今度は躊躇なく冷蔵庫の扉を開けた。
「昨日の豚肉、まだあるじゃん。これも使おう。みくちゃん、ピーマン食べられる?」
「たべられない!」
「そっかぁ。じゃあ今日はピーマン入れないでおくね。今度、お姉ちゃんが細かく刻んでハンバーグに入れてあげるからね」
「うん! たべる!」
「えらいえらい」
なんだその、実の親みたいな完璧なやり取りは。俺はもう立ち尽くすことしかできない。
咲が当然のように、俺のキッチンを「自分たちの場所」に書き換えていく。
「渡くん、豆板醤どこ?」
「……一番下の棚の、左から二番目」
「ありがと。あ、そうだ。この青いお皿、こないだ端っこ欠けてたから奥にやったのに、また手前に出してる。危ないから捨てなって言ったのに」
「お前は小姑か」
「怪我したらどうすんの」
咲が当然のように動き始める。
冷蔵庫の野菜室からネギを取り出し、みじん切りにしていく包丁の音が、狭い部屋に心地よく響く。
いつもは静かすぎて、自分の咀嚼音すら耳障りだったこの部屋が、今は生活の音で満たされている。
「お姉ちゃんのお料理、いい匂いする!」
「まだ作り始めたばっかりだよ」
「いい匂いするー! お姉ちゃん、お料理じょうずだね!」
「ふふっ。……かわいいな、もう」
咲の声が、俺には絶対に向けないような、柔らかくて甘いものに変わっていた。
俺はリビングの入り口に突っ立ったまま、エプロン姿の咲の背中をただ呆然と眺めていた。
おかしい、全部おかしいはずなのに。
この光景が、何年も前から続いてきた日常のように、俺の心にすとんと落ちてしまうのが、何より怖かった。
三人で小さな食卓を囲んだのは、それからたった二十分後のことだった。
炊飯器から立ち上る湯気。
大盛りの白飯と、とろみのついた麻婆豆腐、そして豚肉とキャベツの炒め物。
咲が当然のように三人分よそって、みくの前に置いて、それから「はい、大盛り」と言って俺の前にも置いた。
俺はよそられた白飯を受け取りながら、なんだか急に顔が熱くなるのを感じた。
別に、手と手が触れたわけじゃない。ただ、当たり前のように自分の分をよそってくれるその動作が、あまりに自然すぎて。
「いただきます!」
みくが元気よく小さな手を合わせて、スプーンで麻婆豆腐を一口食べた。
ぱあっと、顔が輝く。
「おいしい! いつもとおんなじ味!」
俺は盛大にむせた。
「げほっ! いつもと!?」
「えっ?」
咲が不思議そうに首をかしげる前に、俺は咳払いを三連発かました。
「んんっ!! いつもってなんだろうな〜! みく、いつもって、どういう意味かな〜!?」
「んー……えへへ」
「えへへじゃなくてさ!!!」
「渡くん、なんで一人で怒ってんの。うるさいんだけど」
咲はきょとんとした顔で俺を見てから、「変な人」とつぶやいてまた箸を動かした。
みくはそんな俺たちのやり取りを交互に見て、にっこり笑っていた。
麦茶を飲む。
さっき、咲が勝手に冷蔵庫から出してきたピッチャーの麦茶が、キンキンに冷えていて、身体の芯に染み渡るようにうまかった。
「……咲、麦茶、勝手に出すな」
「渡くんが喉渇くと思って。ほら、やっぱり一気飲みした」
「喉が渇いてなくても問題なんだよ、プライバシー侵害の観点から」
「なんで。麦茶くらいで大げさな」
咲は涼しい顔で首をかしげながら、みくの空いたコップにお茶を注いでいた。
俺は黙って、自分の分の麻婆豆腐をスプーンですくって口に運んだ。
豆板醤の香りがするのに、どこかまろやかで、ほんのり甘めの味付けだった。
「……なんか、甘くない? これ」
「渡くん、辛いのあんまり得意じゃないでしょ。だからお味噌多めにして、みくちゃんも食べられるようにしたの」
「…………」
俺の好みを、ピンポイントで撃ち抜かれていた。
胃袋を掴まれる、とはよく言うが。
このままじゃ、胃袋ごと俺の人生の主導権まで完全に握られるような気がして、それが少しだけ、いや、本当は猛烈に、心地よかった。
夜の九時を過ぎた頃。
食器の片付けを済ませた咲が、エプロンを外してカバンを手にした。
「そろそろ帰るね。親も心配するし」
「あ、うん。……今日は、サンキュ」
俺が素直にお礼を言おうとした、その時。
「やだ」
みくが、咲の制服の裾をつかんだ。小さな両手で、きゅっと、しがみつくように。
「やだ。お姉ちゃん、いかないで」
「みくちゃん……」
「あした、ごはん、また作って……?」
上目遣いでそう言われて、
咲は困ったように笑った。
「……もう」
そう呟いたのに。
みくに掴まれた制服の裾を、咲は最後まで離さなかった。
「…………」
咲は困ったように、助けを求める視線を俺に向けた。俺は即座に目を逸らした。
「ちょっと、渡くん!」
「俺に振るな。お前の心はもう決まってんだろ!」
咲は観念したように深呼吸をして、みくの前にしゃがみ込んだ。
みくはまだ、ぎゅっと咲の服を握ったまま、うるうるした瞳で見つめている。
咲は、ちょっと照れたように笑って――。
右の耳たぶを、そっとつまんだ。
「……しかたないな」
その声は、昼間俺に向ける声よりもずっと低くて、ひどく優しかった。
「渡くんだけじゃ、みくちゃんの栄養偏りそうだし。明日も、様子見に来てあげる」
「やったー!!」
みくが弾かれたように咲に抱き着いた。
咲が「もう」と笑いながら、その小さな背中をぽんぽんと優しい手つきで叩いた。
俺はその光景を、台所の入り口からただ呆然と眺めていた。
必死に現実逃避しようとした。でも、できなかった。
藤原咲が、明日もここに来る。
明日も俺の家に来て、勝手に俺の冷蔵庫を開けて、俺のエプロンをつけて、俺とみくの分の夕飯を作る。
そういう明日からの日常が、今この瞬間、完全に確定してしまった。
「(俺の通い妻が、定期契約で確定したぁああああああああああああああああああああ!?!?)」
みくは咲の腕の中で、こちらをちらっと見て。
にっこりと、勝ち誇ったように、小さな指でピースサインを作った。
「あ、そうだ渡くん」
玄関に向かいかけた咲が、くるりと振り返る。
「明日は、渡くんが好きって言ってたハンバーグにするから。ちゃんと合い挽きのひき肉、買っておいてね」
「……はい」
「よしっ。じゃあね、また明日」
パタン、と静かにドアが閉まる。
みくの鼻歌だけが響く部屋で、俺は潰れた豆腐の空きパックを見つめながら、明日のひき肉の特売情報をスマホで検索し始めていた。
一人暮らしの静寂が、もう懐かしい。
俺はもう、手遅れなのかもしれない。
第2話まで読んでいただき、ありがとうございます!
未来の娘を名乗るみく。
怪しい。
でも、完全に嘘とも言い切れない。
渡も読者の皆さまと同じ気持ちかもしれません。
ここから少しずつ、
三人の日常が始まっていきます。




