第36話 花火の夜
駅前の時計塔の下。
人混みの中で、水色の甚平を着た小さな後ろ姿がピョンピョン跳ねていた。
「みく」
「あ! パパ!」
みくが振り返り、弾丸のように突っ込んでくる。俺は腰を落として、その小さな体を受け止めた。
「おそいよ! まちくたびれた!」
「五分前だぞ。お前らが早すぎるんだ」
「だって、おまつりだもん!」
みくは満面の笑みで、首から下げた小さなポシェットを叩いた。中には、数日前から一生懸命書いていた「おまつりでやることリスト」が入っているはずだ。
「……お待たせ」
みくの背後から、少し遠慮がちな声がした。
俺は顔を上げた。
紺色を基調とした、朝顔の柄の浴衣。髪は後ろでまとめられ、うなじが見えている。
「…………」
「……変かな」
咲が、少し不安そうに浴衣の裾を直した。
「……いや」
俺は視線を逸らした。
「似合ってる」
早口で言って、歩き出した。
「行くぞ。人が増える前に」
背後で、咲が小さく笑う気配がした。俺は足早に駅の階段を下りた。
河川敷までの道は、屋台がずらりと並び、祭りの熱気に包まれていた。
「りんごあめ! パパ、りんごあめ!」
みくが屋台の赤い林檎を指差して叫ぶ。
「はいはい」
俺は財布から小銭を出し、りんご飴を一つ買った。
「やったー!」
みくはりんご飴を受け取ると、ポシェットから折り畳んだ紙を取り出した。広げると、クレヨンで書かれた文字と絵が並んでいる。鉛筆を取り出し、真剣な顔でチェックを入れた。
「りんごあめ、クリア!」
「次は?」
咲が覗き込む。
「きんぎょすくい!」
金魚すくいの屋台で、みくはポイを片手に水槽を睨んでいる。
「みくちゃん、そーっとね」
「わかってる!」
三匹すくって、おまけでもう一匹もらった。
「きんぎょ、クリア!」
その後も、わたあめ、たこ焼き、かき氷と、みくのリストは順調に消化されていった。口の周りにソースをつけたまま「おまつりだもん!」と胸を張るみくを、咲がウェットティッシュで拭く。
「渡くんも、たこ焼き食べる?」
「……もらう」
爪楊枝に刺さったたこ焼きを口に放り込む。熱い。
うまかった。
俺たちは人の波を縫うようにして、河川敷へ向かった。
河川敷の土手に着いたところで、みくが思い出したように声を上げた。
「しゃしん! リストのさいご!」
みくがリストを広げる。下手くそな字で「さきちゃんとしゃしん」「パパとしゃしん」「みんなでしゃしん」と書かれていた。
「じゃあ、まず私からね」
咲がスマホを取り出し、みくと並んで自撮りをする。
「はい、チーズ」
みくが満面の笑みでピースをする。
「次、パパ!」
俺はみくの隣にしゃがんだ。咲がカメラを構える。
「笑って、渡くん」
「……笑ってるだろ」
「もっとちゃんと笑って」
「これが俺の顔だ」
咲が、堪えきれずに少し笑った。シャッター音が鳴った。
「さいごは! みんなで!」
みくが近くを通りかかったおばさんに声をかけた。
「しゃしん、とってください!」
「あらあら、いいわよ」
おばさんがスマホを受け取る。俺と咲の間にみくが立った。
「もっとこっち!」
みくが両手を伸ばして、俺と咲の袖をそれぞれ引っ張る。
「近い近い」
「近くない! もっとくっついて!」
「お前な……」
「はい、いくわよー」
おばさんが構えた。
俺は半歩だけ寄った。咲も、同じくらい寄った。
みくが、満足そうに「えへへ」と笑った。
シャッターが切れた。
おばさんにお礼を言い、スマホを受け取る。画面の中には、朝顔の浴衣の咲と、りんご飴を持ったみくと、少し表情が硬い俺が並んでいた。
「みんなでしゃしん、クリア!」
みくが、リストに最後のチェックを入れた。
花火の時間が近づき、河川敷はさらに人で溢れかえっていた。俺たちは見晴らしのいい芝生の上にレジャーシートを広げた。
「パパ、まだかなぁ」
みくがソワソワと夜空を見上げている。
「もうすぐ始まるよ」
咲がみくの隣に座って空を指差す。俺も二人の隣に腰を下ろした。
ドーン。
腹の底を叩かれるような音だった。
一瞬遅れて、夜空いっぱいに金色の光が広がる。
「わあぁぁっ!」
みくが立ち上がりそうな勢いで声を上げた。
咲が慌てて肩を引く。
「みくちゃん、転ぶよ」
「すごい! すごい!」
次の花火が上がる。
赤。
青。
金。
光が散って、消える。
また夜が戻る。
その数秒後。
次の花火。
みくが両手を挙げて歓声を上げる。赤、青、緑、金色の光が次々と打ち上がり、夜空を彩る。
みくの口が、ぽかんと開いていた。
「綺麗だね」
隣で、咲が呟いた。
「……ああ。本当に綺麗だ。」
俺は少し遅れて答えた。
次の花火が、夜空に咲いた。みくがまた歓声を上げた。咲が、その肩に手を置いた。みくが、咲の腕を掴んだ。
ドーン。
今度は、夜空いっぱいに金色の花が広がった。
光の粒が枝みたいに伸びて、ゆっくり落ちていく。
「おおー……」
みくが小さく声を漏らした。
さっきまで大騒ぎしていたのに、今は見入っている。
その横顔が、花火の光に照らされる。
次の瞬間。
連続で花火が上がった。
夜空が昼みたいに明るくなる。
「すごい!」
みくが咲の腕を掴んだ。
咲も笑っている。
「本当だね」
光が消える。
一瞬だけ、静かになる。
また音が響く。
また光が咲く。
その繰り返しだった。
なのに、全然飽きなかった。
花火が終わり、帰路につく。
人混みは凄まじかった。少しでも気を抜けばはぐれてしまいそうで、みくの手を握ったまま歩いた。
しかし十分も経たないうちに、みくの足取りが怪しくなった。
「……ねむい」
「歩くぞ」
「あるけない」
「さっきまであんなに元気だったろ」
「もうない」
俺はため息をついて、しゃがんだ。
「わかった。しょうがない。乗れ」
みくが、よいしょと背中に乗ってくる。金魚の入った袋は咲が持った。
「重くない?」
「……平気だよ」
みくの小さな寝息が、すぐに耳元で聞こえてきた。呆れるくらい早い。
駅へ向かう人の波を、咲と並んで歩く。
「……ねえ、パパ」
背中から、みくの寝ぼけた声がした。
「ん」
「またらいねんも、三人でこようね」
みくの声は、半分寝言みたいだった。
俺はすぐに返事をしなかった。
前を見る。
駅の明かり。
人混み。
金魚袋。
浴衣。
背中の重み。
全部そこにある。
「……そうだな」
やっと答える。
咲は何も言わない。
ただ金魚袋を持つ手が少しだけ揺れた。




