第31話 幸せの積み立て
休日の午後。
アパートのリビングには、みくの声が響き渡っていた。
「あ! パパ、このしゃしん!」
みくが俺のスマホの画面を指差して、声を弾ませる。
ソファの真ん中にみく。右に俺、左に咲。三人で一つの画面を覗き込む、いつもの定位置だった。
「これ、どうぶつえんでチーターさんと走ったときだ!」
「……お前が勝手に走り出したんだろ」
「パパ、おそかったもんねー」
「うるさい。手加減してやったんだ」
「えー? ぜったいほんきだったじゃん」
みくが疑わしそうに目を細める。
「渡くん、あの時すごい顔してたよね」
咲が隣でくすっと笑った。
「……お前も走ればよかっただろ」
「私は危ないから止めてたの。保護者として」
「どっちが保護者だよ」
「みく、チーターさんより速かったもん」
「お前、チーター本物じゃないからな。ぬいぐるみだからな」
「しってる! でもはやかった!」
みくがスワイプする。
次に出てきたのは、植物園の温室での一枚。俺と咲の手を、みくが両手で引っ張っている写真だった。
「ここ、むちゃくちゃあつかったよね。パパ、汗びっしょりだった」
「お前も汗びっしょりだっただろ」
「みくはへいきだもん。でも、おはなきれいでしょ」
「そうだな」
「咲ちゃんが名前ぜんぶおしえてくれた。えーと、ラン……なんとか」
「蘭?」
「それ!」
「絶対覚えてないだろ」
「でもきれいだったもん」
「それは否定しない」
咲が苦笑した。
「みくちゃん、花の名前より色とか匂いの方を覚えてたもんね」
「うん! むらさきのやつ!」
「よく覚えてたな」
「だって咲ちゃんが何回もいってたもん」
咲が「ちゃんと聞いてたんだね」と笑った。みくが「えへへ」と照れた。
スワイプ。
文化祭の写真だった。
教室の前で撮った集合写真。クレープを持ったクラスメイトたちが笑っている。
「これ、ぶんかさい?」
「そう」
「いいなぁ」
みくが画面を覗き込んだ。
「みくもクレープやさんやりたい」
「お前まだ小学生でもないだろ」
「じゃあおおきくなったらやる!」
「気が早すぎる」
「チョコいっぱいのせる!」
「絶対赤字になるな」
咲が吹き出した。
「えー。じゃあ来年行く!」
スワイプ。
キッチンで撮った写真。みくがエプロンをつけて、ボウルをかき混ぜている。
「ハンバーグ作ったとき! みくが全部まぜたんだよ」
「咲が八割やってたぞ」
「みくもまぜた!」
「最初の三回だけだろ」
「さんかいでも、まぜたもん!」
「みくちゃん、上手だったよ。肉を混ぜるのって結構力いるんだよね」
咲がフォローする。みくが「でしょ!」と胸を張った。
スワイプ。
公園のブランコ。みくが「もっとたかく!」と叫んでいる瞬間だった。
「これ今日じゃん」
「そう! すごいたかくいったんだよ。パパ、こわがってた」
「こわがってない。安全確認してただけだ」
「おなじじゃん」
「全然違う」
「咲ちゃんもいればよかったのに」
みくが画面から顔を上げて、咲を見た。
「今日も来ればよかったじゃん」
「今日はちょっと用事があったの。ごめんね」
「じゃあ次は来て。一緒にブランコする」
「うん。行く行く」
「約束ね。ゆびきりする」
みくが小指を立てる。咲が「約束」と言って、小指を絡めた。
「ねえねえ!」
みくが突然、スマホから顔を上げた。
「つぎ、どこいく?」
「……急だな」
「すいぞくかん! おさかな見たい! でっかいやつ!」
「水族館か」
「いいね」と咲が言った。「イルカのショーとかあるといいね」
「イルカ! みるみる! あとペンギンも! 動物園でもペンギン見たけど、また見たい!」
「ペンギン好きだな、お前」
「だってかわいいもん。よちよちしてる」
「まあ、そのうちな」
「そのうちっていつ!?」
「……落ち着いたら」
「えー、パパのけちー。じゃあえいがは? ポップコーン食べたい。バターのやつ」
「映画館は静かにしなきゃだめだぞ」
「できるもん。しずかにできるもん」
「本当か」
「……たぶん」
「たぶんかよ」
咲が笑いをこらえている。
「あとうみ! うみでちゃぷちゃぷしたい!」
「まだ寒いだろ」
「じゃああったかくなったら。なつになったら」
「夏になったらな」
「やくそく?」
「……まあ」
「やった! あとおまつりも! わたあめとりんごあめとたこやきとかきごおり!」
「全部食べたら腹壊すぞ」
「こわさない! みくのおなかはつよい!」
「どうだろうな」
「つよいもん! 咲ちゃん、おまつりいったことある?」
「あるよ。去年、浴衣着て行ったよ」
「ゆかた!? みくも着たい! ゆかた着ておまつりいく!」
「似合いそうだね」
「でしょ! パパも着る?」
「俺はいい」
「えー、なんで! 三人でそろいにする!」
「俺は浴衣とか着ない」
「かっこいいのにー。咲ちゃんもそういってあげて」
咲が俺をちらっと見た。
「……渡くん、たぶん似合うよ」
「いらんフォローだ」
「そんなことないよ」
「みくのためにきてよ! パパ!」
「……考える」
「やった! 考えるってことはきてくれるってこと!」
「そうは言ってない」
みくがソファの上で小さくガッツポーズをした。
夕方。
三人でベランダのガラス戸の前にしゃがみ込んだ。
「あ!」
みくが声をあげた。
「ちっちゃいの、ある! ぽこってなってる!」
俺と咲が顔を近づける。
ブルースターの緑の葉の間に、小さな蕾がいくつか顔を出していた。
「本当だ」
咲が息をのんだ。
「蕾だ」
「もうすぐおはな、さく?」
みくが俺たちを交互に見上げる。
「ああ。もうすぐ咲く」
「やった! なにいろ?」
「たぶん、水色だ」
「みずいろ! えへへ、たのしみ! ねえ咲ちゃん、水色だって!」
「うん。きれいだよね、水色のお花」
「さいたら写真とる! スマホで!」
「撮ろうね」
「三人で撮る! お花と三人!」
「……わかったわかった」
みくがプランターの周りをぴょんぴょんと跳ねる。咲が「転ばないでよ」と言った。みくが「転ばないもん」と返した。
俺はしゃがんだまま、蕾を見ていた。
夜。
遊び疲れたみくが、ソファで丸くなっていた。
「……ねむい」
「もう寝ようね」
咲がタオルケットを持ってきて、そっと掛ける。みくが目をこすりながら「んー」と言った。
「……また、どこかいこうね」
「うん。行こうね」
「水族館」
「行こう」
「うみも」
「夏にね」
「……ゆかたも」
「着ようね」
みくの声が、だんだん小さくなっていく。
「……お手伝い終わったらな」
俺が言うと、みくは「えー」とかすかに声を出した。それきり、静かになった。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
咲がかがんで、ずれたタオルケットをそっと直した。
俺はダイニングチェアから、それをぼんやりと見ていた。
立ち上がって、ベランダのガラス戸を開けた。
夜風が入ってくる。
咲が隣に来た。
二人で、暗闇の中のプランターを見た。
葉の間に、小さな蕾がいくつも息づいている。
みくの寝息。
冷蔵庫の低い唸り。
俺は何も言わなかった。咲も何も言わなかった。
もうすぐ、咲きそうだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます
種だったブルースターは、いつの間にか蕾になっていました。
水をあげて、見守って、気付けば少しずつ育っていたものがあります。
もうすぐ咲きそうです。




