第29話 依存の自覚、あるいは咲のいない一日
文化祭の翌日。
教室の隅には片付けきれていない段ボールが積まれていて、黒板の端には模擬店のメニューがうっすらと残っていた。昨日あれだけ賑やかだった空間が、普通の教室に戻りつつある。でも完全には戻りきっていない、その半端な空気が、なんとなく落ち着かなかった。
「いやー、昨日は疲れたけど楽しかったな!」
前の席の田中が、くるりと振り返る。
「お前はサボってばっかりだっただろ」
「失礼な。俺は全体の士気を高めるという重要な役割を担っていた」
「どこで担ってた」
「……色々なところで?」
「一ヶ所も思い出せないんだが」
「細かいことを気にするなよ!」
田中が机を叩いて笑う。その賑やかさが、教室の空気を少しだけ昨日に引き戻した。
「それにしても青木さー」
「なんだ」
「お前、昨日ずっと藤原さんと一緒にいなかった? お化け屋敷でしがみつかれてたとか、クレープあーんしてたとか」
「……どこ情報だそれ」
「あちこちからな。文化祭の口コミは速いんだよ」
俺は目を逸らした。写真部のやつ、何か余計なこと言ったんだろうか。
「で、肝心の藤原さんは?」
田中が教室を見渡す。隣の席が、空だった。
「実行委員の片付けがあるって」
「へえ。青木くん、寂しいねえ」
「お前はどうなんだよ」
「俺?」
「部活の田村がいなかったら、どうするんだって話だ」
「俺は寂しい」
「即答かよ」
「だって本当のことだもん」と田中はあっさり言った。「田村いないと練習メニュー何も決まんないし、ラインも既読つかないし、昼飯食う相手いないし。あいつがいるの当たり前になってる」
田中が少し笑う。
「お前も、そういうことだろ」
俺は何も言わなかった。
ただ、隣の席を見た。
誰もいない。当たり前だ。
実行委員だって言っていた。
……知ってる。
知ってるのに、なんで見たんだ。
昼休み。
購買でパンを買って、席に戻る。
包みを開けながら、気づいたら隣を見ていた。
弁当箱がない。
……ああ、そうか。今日は実行委員か。
パンをかじる。
別に味が悪いわけじゃない。ハムチーズ、いつも通りの味だ。
なのに、なんか、パサパサしている気がした。
手に持ったまま、次の一口がなかなか出てこない。
俺は窓の外を見た。中庭には昨日の名残でモニュメントの飾りがまだ残っていた。あそこで写真を撮った。咲が耳まで赤くなっていた。
……別に。それだけだ。
パンをもう一口かじる。
飲み込む。
水が欲しくなった。
……こんなパンだったか。
やっぱりパサパサしている。
放課後になっても、咲は教室に戻ってこなかった。
俺はカバンを持ち、一人で廊下に出た。
昨日はここで咲と並んで歩いて、どっちが先にアパートに帰るかで言い合いになった。くだらない話だ。でも、なんとなく覚えている。
一人で校門を出る。
人が多いな、と思ったが、昨日より少ないのは当たり前だ。文化祭は終わった。
真っ直ぐアパートへ向かった。
帰り道の途中にある自販機で、缶コーヒーを買う。
ちょうどそこへ、部活帰りらしい田中が来た。
「お、青木。帰り?」
「ああ」
「藤原さんは?」
「まだ仕事」
「そっかー」
田中がコーラを買う。プシュッと開けて、一口飲んだ。それから少し間があって。
「なあ青木」
「ん?」
「仮にだぞ」
「何が」
「仮に——藤原さんいなくなったら、お前どうすんの?」
缶コーヒーを持つ手が、止まった。
「……は?」
「いや、なんか最近、お前ら二人で一セットみたいな感じじゃん。だから仮に、転校とか、親の都合でとか、そういうことになったら」
「ない」
「仮にって話だって」
「……ないだろ、そんなこと」
田中がコーラを飲む。
「まあ、そうかもな。でも当たり前にあるものほど、なくなった時のがデカいんじゃないかと思って」
「……なんだよ急に」
「昨日の文化祭の後夜祭の時、みんなで後で『楽しかったな』って話してたらさ、お前と藤原さんの話になって。なんか青木、変わったよなって。前はもっと一人でいたじゃん。それが今は……まあ、いい意味でって話なんだけど」
田中は残りのコーラを飲み干して、缶をゴミ箱に入れた。
「じゃあな、明日」
「……ああ」
田中の足音が遠ざかっていく。
俺は缶コーヒーを持ったまま、その場に立っていた。
仮に。
……いや。
なんでそんなこと考える。
転校?
ないだろ。
そんな話聞いてない。
じゃあ親の都合?
いや知らない。
そもそもなんで俺が考えてるんだ。
……意味が分からない。
なんでそんなこと聞く。
転校? 親の都合?
いや、ない。そんな話、聞いてない。
でも仮に。
仮にって、なんだ。
考える必要あるか?
……ない。
でも、なんで今、夕飯のこと考えてんだ俺は。
咲がいなかったら夕飯どうなる。いや、作れる。俺だって作れる。今日も作った。野菜炒め、作った。
別に困らない。
困らないが。
缶コーヒーが、指先から冷たかった。
何も答えが出ないのに、頭だけがぐるぐると回り続けた。
「パパ、おかえりー!」
アパートのドアを開けると、みくが駆けてきた。
「ただいま」
「咲ちゃんは?」
「学校の仕事で遅くなる」
「えー、ざんねん」
みくは少しだけ肩を落としたが、すぐに「ねえパパ、今日ね!」と話し始めた。
俺はみくの話を聞きながら、冷蔵庫を開ける。昨日の食材が残っている。玉ねぎ、もやし、豚肉の薄切り。野菜炒めでいいか。
まな板の上で玉ねぎを切る。
包丁の音が、やけに響く気がした。
いつも、この時間は咲が隣で味噌汁を作っている。俺が炒め物担当で、咲が汁物担当。なんとなくそう決まった。いつから決まったのかは覚えていない。気づいたらそうなっていた。
今日は一人分の音しかしない。
野菜炒めが完成した。
みくと二人で食べる。
「パパ」
「ん?」
「元気ない」
「あるよ」
「なんか難しい顔してる」
みくが、小さな手で俺の頬をつついた。
「咲ちゃんいないから、さみしいの?」
「……違う」
「みくはさみしいよ。咲ちゃんいないとご飯の味も違う気がする」
俺は何も言わなかった。
野菜炒めの味が、うすかった。味付けは間違っていない。いつも通りの分量だ。
ただ、何かが足りない。
夜。
みくを寝かしつけた後、ベランダに出た。
初夏の夜風が生温かい。
プランターのブルースターを見る。まだ花は咲いていない。でも緑の葉の間に、小さな、本当に小さな蕾が見えた。咲が毎日水をやっている。俺も時々やる。そのうち咲くと、咲が言っていた。
田中の声が、頭の中で鳴る。
仮に、いなくなったら。
俺は欄干を握った。
別に。
ただ今日いなかっただけだ。
明日はいる。
隣の席に座って、「おはよう」と言う。弁当を広げて、みくの話をして、帰りにスーパーで何を買うか言い合いになる。
いるに決まってる。
……そうだろ?
夜風が吹いて、ブルースターの蕾が小さく揺れた。
俺は、その揺れが止まるまで、目を離せなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!!
今日は珍しく咲の出番が少なめでした。
でも、一番咲のことを考えていたのは間違いなく渡だった気がします。
本人はまだ認めないでしょうけど(笑)




