第28話 お祭り騒ぎと、静かなる陥落
文化祭、当日。
校門をくぐった瞬間、空気が変わった。
焼きそばのソースの匂い。どこかのクラスが爆音で流す流行りのJ-POP。「いらっしゃいませー!」「お化け屋敷はこちらでーす!」と叫ぶ声が重なり合って、校舎全体が一つの大きな生き物みたいにうねっている。
「すごい……」
隣で、咲が小さく声を漏らした。
「人多いな」
「うん。なんか、テレビで見る文化祭みたい」
咲は、目をきらきらさせながらあちこちを見回している。その顔が、俺より明らかに楽しそうで、少しだけ悔しかった。
「はぐれないようにね、渡くん」
そう言って、咲が俺のジャージの袖をきゅっと掴む。
「……子供じゃないんだが」
「だって渡くん、ふらって行っちゃいそうなんだもん。なんか野良猫みたいで」
「野良猫って何だよ」
「褒めてるんだよ?」
咲がけらけら笑う。その笑い声が、周りの喧騒に混ざって消えていった。
まずは自分たちのクラスの模擬店へ向かう。
クレープとタピオカドリンクの店は、俺の予想の三倍は混んでいた。
「うわ、やばい。ちゃんとやってる」
感心しながら近づくと、ドリンク担当の田中が俺たちに気づいた。
「おーっ、青木! 藤原さん! ちょうどよかった、見てこれ!」
田中が、自分の首から下げたPOPを誇らしげに見せてくる。手書きで「本日のイチオシ★タピオカミルクティー」と書いてあった。
「……どうした、それ」
「俺が描いたんだよ。どう? うまくない?」
「字が斜め四十五度になってるぞ」
「味があるだろ、いいんだよ! っていうか青木、お前が作った看板の方が傾いてたからな。あれ直すの大変だったんだよ?」
「……知らん」
隣で咲が、くっくっと肩を揺らして笑っていた。
「藤原さん、見ててくださいよ、こいつ看板が曲がってても『雰囲気だろ』って言ったんですよ」
「言ってない」
「言った!」
「藤原さん、こっちの言ってること信じてくださいよ」
咲が俺を見る。俺は目をそらした。
「……少しだけ言ったかもしれない」
「少しどころじゃなかったよ!」
田中が机を叩いて笑う。周りの客が何事かとこちらを見た。
その騒ぎに乗じて、クレープ担当の女子——確か三組で一番テキパキしてる橘さん——が俺たちに顔を向けた。
「二人とも、せっかくだから食べてく? イチゴと生クリームの、今ちょうどできたばっかり」
「いいんですか?」
「材料ちょっとしか余ってないんだけど、まあ二人で一個で許してね」
咲が受け取って、俺の方を向いた。
「渡くん、食べる?」
「俺、甘いの得意じゃないんで」
「一口だけ。せっかく橘さんが作ってくれたんだよ?」
咲が、クレープをそのまま俺の口元へ差し出す。
田中が、明らかにわかりやすくにやついていた。橘さんも口元を手で覆っている。
……そういう雰囲気にするのやめてくれ、と思いながら、俺は一口かじった。
「どう?」
「……うまい」
「でしょ!」
咲が、屈託のない笑みを浮かべた。
「みくちゃんも一緒にいたら、きっと大はしゃぎだっただろうね」
「ああ、あいつは甘いものには目がないからな」
「後で、今日撮った写真を見せてあげようよ」
「……そうだな」
「絶対に地団駄踏むよ。『パパとママだけでずるい!』ってさ」
「……目に見えるようだ」
その光景は、驚くほど容易に脳裏に浮かんだ。
ぷいっと横を向いて、全力で抗議するみくの姿。
「なんだか、置いてけぼりにされた子供みたいになりそう」
「現状、もうそうなってるけどな」
俺たちは顔を見合わせて、小さく吹き出した。
お化け屋敷は二年四組の企画で、理科準備室を丸ごと使った本格的なものだった。
入り口に並びながら、前の客が中から叫ぶ声を聞いて、咲の顔色がみるみる変わっていく。
「……行かなくてもいいんじゃないか」
「行く。絶対行く」
「怖そうじゃないか」
「大丈夫。私、ホラー得意だから」
その五分後。
「いやあああっ!」
咲の悲鳴が、廊下まで響いた。
俺の腕に両手でしがみついた咲は、真っ暗な通路の壁沿いをほぼ目をつぶって進んでいた。
「さっき得意って言ってましたよね」
「……苦手でした」
「知ってた」
「知ってたなら言ってよ!」
出口の直前、何かが飛び出してきた瞬間、咲がぎゅっと俺に顔を押しつけてきた。
ジャージ越しに、体温が伝わってくる。
……心臓が、うるさい。
「……出たよ、出口」
「ほんと?」
「ほんと」
咲がそろそろと顔を上げると、出口の光が見えた。
「生きてた……」
「生きてました」
外に出ると、受付の男子が「お疲れさまでした! よかったら感想書いてください!」と紙を渡してきた。咲は「とても怖かったです」と几帳面に書いて返した。
その字が、少し震えていた。
射的の屋台は、ちょうど三組の男子グループが盛り上がっているところだった。
「青木、やってみろよ」
横を通りかかった時に、見知った顔の奴が俺を呼んだ。確か名前は宮本。
「はぁ? なんで俺が」
「景品のクマが取れなくてさ。コルク弾んだりしてうまくいかないんだよ。青木、帰宅部じゃん、コントロールあるだろ」
「帰宅部は全く関係ないだろ」
「まあまあ、渡くん、せっかくだし」
咲が俺の背中を押す。
「……一回だけ」
銃を手に取る。的は小さなクマのぬいぐるみで、台の端に乗っている。狙いを定めて、引いた。
カン、と乾いた音がして、クマが落ちた。
「おお!」
宮本が声を上げる。屋台担当の女子が「すごい、一発で!」と驚いたように言った。
「渡くん、すご!」
咲が目を丸くして俺を見ている。
俺は、そのクマを受け取って、咲に渡した。
「……いらないなら返すけど」
「いる! 絶対いる!」
咲がクマを抱えて、ぱあっと顔が明るくなる。
「ありがとう、渡くん。大事にする」
そういう顔で言われたら、こっちはどうしたらいいんだ。
「宮本たちの分取れなかったけどな」
「それはしゃあない! でもうちのクラスメイトがいい仕事したから許す!」
宮本が俺の背中を叩いて笑った。
中庭のモニュメント前は、写真を撮りたいグループが列をなしていた。
「はい、チーズ!」
写真を確認すると、俺が少し眉間に皺を寄せていて、咲が嬉しそうに笑っていた。
「渡くん、顔怖い」
「……いつもこうだろ」
「もう一枚! 今度はちゃんと笑って」
「笑ったらもっと怖いかもしれないぞ」
写真部の生徒が、こらえきれずに笑っていた。
「みくちゃんに見せたら、なんて言うかな」
咲がスマホを見ながら呟く。
「たぶん、『パパ笑ってない!』だな」
「あー、言いそう」
咲が吹き出した。
「それか『もう一回撮って!』かな」
「撮り直しさせられるな」
「絶対させられる」
二人で笑う。
写真部の生徒が、不思議そうな顔をした。
「妹さんですか?」
「あ、えっと……」
咲が言葉に詰まる。
俺も説明に困った。
「……まあ、そんな感じです」
「ふーん」
写真部の生徒はよく分からないまま頷いた。
「いいですね、二人。仲良いですね。付き合って長いんですか?」
屈託のない質問だった。
「えっ、あの……」
咲が耳まで赤くなる。
俺も、すぐに否定の言葉が出てこなかった。
以前なら即答していただろう。
でも今は、その否定がひどく嘘くさく感じる。
「……色々と、長いです」
俺は曖昧にそう答えた。
夕方。
後夜祭の準備の声が遠くから聞こえてくる頃、俺たちは人が少なくなった屋上にいた。
下の方からは、まだ音楽と笑い声が上がってくる。文化祭は終わっていない。ただ俺たちだけが、少し早く喧騒から外れていた。
「楽しかったね、今日」
咲が、手すりに寄りかかりながら言った。クマのぬいぐるみを腕に抱えたまま。
「ああ」
「お化け屋敷、ちょっと泣きかけた」
「知ってる」
「言わないでよ」
咲が頬を膨らませる。俺は少し笑った。
「田中くん、賑やかだったね」
「あいつはいつでもあんな感じだ」
「いいね。渡くんの周り、なんか、あったかいね」
俺は何も言わなかった。
否定できなかった、というのが正確かもしれない。
夕陽が、校舎の端を赤く染めていく。咲の横顔が、その色を受けて、少し眩しかった。
「……また来年も、こうやって回れるといいね」
咲が、独り言みたいに言った。
俺は、その言葉の重さをちゃんと受け取りながら、ただ「ああ」とだけ返した。
来年。
その言葉が、夕陽の中でひどく遠くて、でも今だけは嘘みたいに近かった。
遠くで、後夜祭のカウントダウンが始まる声が聞こえた。
俺たちの影が、オレンジ色の地面に、一つに重なって伸びていた。
文化祭当日のお話でした。
賑やかな一日の中で、二人とも色々なものを見て、笑って、少しだけ距離が縮まった気がします。
そして、みくがいたらきっと一番騒いでいたと思います(笑)




