第27話 咲がいない夜
文化祭まで、あと三日。
クラスの模擬店の準備は佳境に入り、放課後の教室は段ボールや絵の具、模造紙が散乱して足の踏み場もない。
「ごめん、渡くん。今日、実行委員の仕事でちょっと残るかも」
俺がカバンに教科書を突っ込んでいると、咲が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「文化祭?」
「うん。シフトの最終調整と、買い出しの精算があって」
「了解。みくには言っとく」
「遅くなると思うけど、終わったら行くね。晩ごはん、冷蔵庫の残りで何か作っといて」
「わかった」
咲がバインダーを抱えて、足早に教室を出ていく。
俺は一人で校門を出た。
別に、どうってことはない。
もともと、俺とみくだけの生活だった。たまには咲が来ない日があってもいい。むしろ静かで気楽だ。
そう思いながら、真っ直ぐアパートへ向かった。
「おかえりー! パパ、咲ちゃんは?」
玄関を開けるなり、みくが走ってきて俺の後ろを覗き込んだ。
「今日は遅いってさ。文化祭の準備」
「えー。じゃあ、ごはんどうするの?」
「俺が作る。冷蔵庫に肉があったはずだ」
みくは少し不満そうに口を尖らせたが、すぐに「パパのごはん!」と元気を取り戻した。
俺は制服を脱いで、キッチンに立った。
壁のフックを見る。
いつもなら、ここに掛かっているはずのエプロンがない。
キッチンは、やけに広く、静かだった。
「よし、やるか」
俺は気合を入れて冷蔵庫を開けた。
豚肉。キャベツ。卵。
肉野菜炒めと味噌汁だ。
……が、うまくいかない。
キャベツを切りすぎた。フライパンからあふれそうになっている。
油がはねて、手首に飛んだ。
「あつっ!」
味噌汁は顆粒だしを使ったら妙に薄い。卵を割ろうとしたら、殻がボウルに落ちた。
「パパ、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「パパのごはん……ちょっとだけ楽しみ!」
「ちょっとだけってなんだ。その言い方、不安しかねえな」
「えへへ」
なんとか完成した肉野菜炒めと味噌汁をテーブルに並べる。
「いただきます」
肉野菜炒めは、味が濃かった。味噌汁は、逆に薄い。
「……パパ、お肉硬い」
「よく噛め」
「……うん」
みくが、不満そうに肉を咀嚼している。
俺も無言で食べる。
箸が皿に当たる音と、テレビの音だけが、虚しく響いていた。
食後、食器を洗い終えた。
時計を見る。
19時半。
まだ早い。遅くなるって言ってたんだから、これくらい普通だ。
みくがソファでアニメを見ている。
俺はスマホを取り出した。
咲からの連絡はない。
置いた。
テレビを見た。
お笑い番組をやっていた。何が面白いのか分からない。
時計を見る。
19時45分。
まだ十五分。
嘘だろ。一時間くらい経った気がした。
俺は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
別に喉は渇いていないが、麦茶をコップに注いで飲んだ。
冷たかった。
それだけだった。
ソファに戻る。
テレビ画面を見る。
内容が、頭に入らない。
時計を見る。
19時58分。
まだか。
……いや、何が「まだ」なんだ。
遅くなるって、最初から言ってたじゃないか。
俺は脚を組み直し、スマホを手に取った。
画面をつける。
通知はない。
置いた。
ベランダのガラス戸を見る。
外は暗い。
……もう終わってるかな。
いや、終わってても連絡くらいくるだろ。
でも、終わってたら一人で帰るのか。
夜道、一人で。
……迎えに行くか。
と考えて、すぐに首を振った。
何言ってんだ。
学校まで迎えに行く?
小学生じゃあるまいし。
そもそも、何時に終わるかも分からない。校門の前でずっと待つのか。
いや、何を考えてんだ俺。
絶対変だろ、それ。
俺はスマホを裏返しにして置いた。
「パパ」
みくが、クッションを抱きしめたまま俺を見た。
「咲ちゃん、まだかな」
「知らん。遅くなるって言ってただろ」
即答した。
みくが「そっか」と呟いて、テレビに視線を戻した。
俺はふと、みくの手を握った。
なんとなく。特に理由はない。
「……パパ?」
みくが、少し嬉しそうに耳たぶを触った。
「なんでもない」
「ふーん」
みくがもたれかかってきた。
俺は、テレビを見るふりをしながら時計を見た。
20時15分。
また立ち上がった。
台所に行って、シンクを見た。
特に用事はない。
水道を少し出して、また止めた。
ベランダのガラス戸に近づいて、外を見た。
真っ暗だ。
道沿いの街灯が、ぽつぽつと並んでいる。
夜道は暗い。
…………。
俺は踵を返した。
ソファに戻る。
時計を見る。
20時28分。
テレビを見る。
内容が頭に入らない。
スマホを見る。
通知はない。
……。
何やってんだ俺。
みくがうとうとし始めた。
「眠いなら寝ろ」
「……まだ、咲ちゃんきてない」
「来てから起こしてやるから、寝ろ」
「……うん」
みくが俺の膝に頭を預けて、目を閉じた。
俺は、みくの頭の上をぼんやりと見た。
部屋が、変だ。
いや、部屋はいつも通りだ。
たぶん。
でも、なんか足りない。
たったそれだけのことなのに。
なんでこんなに、落ち着かないんだ。
21時過ぎ。
みくはすっかり眠っていた。
俺は、テレビの画面をただぼんやりと眺めていた。
何も頭に入らない。
ガチャ。
玄関の方で、小さな音がした。
鍵が回る音。
「……ただいまー」
少し疲れたような、でも聞き慣れた声。
その瞬間。
俺の肩から、スッと力が抜けた。
「あ」
声が漏れた。
張り詰めていた何かが、風船がしぼむようにゆっくりと消えていく。
「咲ちゃーん!」
みくが目を覚まして、ソファから飛び降りた。
廊下をぱたぱたと走っていく音。
「ごめんね、遅くなっちゃって。みくちゃん、いい子にしてた?」
「うん! パパのごはん、お肉かたかった!」
「ふふっ、そっか。明日美味しいの作るね」
廊下から聞こえる、二人のやり取り。
俺は、長く息を吐いた。
それから立ち上がった。
特に理由はない。
ただ、その声のする方へ、足が動いた。
今日は珍しく、咲がいない夜のお話でした。
当たり前になっていたものは、なくなった時に初めて気付くことがあります。
本人はまだ気付いていないようですが、渡の心は思った以上に忙しかったみたいです。
ニヤニヤしてくれると嬉しいです(笑)




