第24話 便利だから、じゃない
文化祭の準備が本格的に始まってから、教室はずっと騒がしい。
俺たちのクラスの出し物は模擬店。クレープとタピオカドリンクという、いかにも高校生らしい安直なやつだ。
俺はダンボールを切って小道具を作る、裏方の地味な作業を担当していた。目立たず手を動かしていれば時間が過ぎる。嫌いじゃない。
「藤原さー、この買い出しリスト確認してもらっていい?」
「あ、うん。見せて」
「藤原! このポスター、どっちがいいと思う?」
「こっちの方が目立つかも」
「咲ちゃん、シフトここ代わってくれない?」
「うん、その時間空いてるからいいよ」
教室の前方で、咲が常に誰かに囲まれていた。
リストの確認、ポスターのチェック、シフトの穴埋め。実行委員がやるべき雑務が、なぜか全部咲に流れていく。
「藤原マジ助かるわー」
「ほんとそれ。藤原いなかったら終わってたわ」
咲は「ううん、全然大丈夫だよ」と笑っている。
悪意はない。俺も分かってる。
でも、なんか腹立つ。
カッターを動かす手が、少し乱暴になる。なんでこんなに腹立ってるのか、うまく説明できない。咲は嫌がってないし、笑って引き受けてるし、俺が口を挟むことじゃない。そう分かってる。
でも……。
目が、勝手に咲の方を向く。
買い出しリストを見る咲の目が、一瞬だけ細くなる。疲れたみたいに。
「大丈夫」と言う前の、ほんの一拍の間。
昨日の夜、咲は俺の家で声が震えていた。
「藤原、ごめん。放課後の買い出し、お願いしていい? 俺、部活のミーティング入っちゃって」
申し訳なさそうな声だった。でも、どこか「藤原なら断らないだろう」という感じがした。
咲が、一瞬止まった。
放課後は、スーパーに寄って、みくが待っている。
咲は、引きつった顔のまま、頷こうとした。
「あ……うん、いい——」
ガタン。
俺は、自分が立ち上がっていることに気づいた後だった。
ダンボールの切れ端が床に落ちる。
教室が、しんとした。
俺は咲のところへ歩いた。
「……青木?」
頼んできた男子が、不思議そうな顔で俺を見た。俺はそいつを見て、普通の声で言った。
「それ、自分で行けよ」
しん、とした。
「いや、俺ミーティングが……」
「終わってから行けばいいだろ」
「明日までに必要で」
「なら部活休むか、他のやつに頼め」
俺は咲を見た。
咲は目を丸くして俺を見ている。
教室が静まり返った。
咲は、俺を見たまま動かなかった。
男子は視線を泳がせて、
「……わりぃ。俺、なんとかするわ」
と、自分の席に戻っていった。
教室がざわめく。
俺は席に戻った。
心臓がうるさい。
やりすぎたかもしれない。
でも、なぜか後悔がなくて、それが少し怖かった。
帰り道。
俺と咲は、一言も話さなかった。
何か言おうとはした。
したんだけど……。
『悪かった』
いや違う。別に謝ることじゃない。
『ああいうの嫌だったんだろ』
それも違う。そもそも嫌だったのか?
分からない。
咲は俺の少し後ろを、俯いたまま歩いていた。
さっきから一度も目が合わない。
やりすぎたかもしれない。
でも……。
あのまま見てる方が、もっと嫌だった。
あーくそ。
気づけば、アパートの階段を上っていた。
結局、何も言えないまま玄関の前まで来てしまった。
俺が鍵を回す。
隣で、咲が小さく息を吐いた気がした。
ドアを開ける。
「おかえりー!」
みくが走ってくる。
「ただいま」
「ただいま、みくちゃん」
咲の声が、いつもより少し小さかった。
みくが、俺と咲の顔を交互に見て、首を傾げた。
「今日ね、みくね、お絵描きしたの! パパと咲ちゃんの絵も描いたんだよ! 見る?」
「おう」
「見せて」
みくが引き出しからぐちゃぐちゃの絵を持ってくる。確かに三人らしき何かが描いてある。
「これ、パパ。これ、みく。これが咲ちゃん」
みくが一生懸命説明する。俺と咲は並んでそれを覗き込んだ。
少しだけ、息ができた気がした。
夕飯の支度。
包丁の音と、お湯が沸く音だけが響いていた。
いつもなら何か話しながらやるのに、今日は二人とも黙って手を動かすだけだった。
食事中は、みくが中心だった。
テレビで見たアニメの話、ベランダの花に虫が来ていた話、隣の部屋からピアノの音が聞こえた話。みくが次々と話す。俺と咲は短く相槌を打った。
みくの声だけが、食卓を埋めていた。
みくがソファで寝落ちした。
俺はベランダに出た。
六月の夜風。ブルースターの葉が、少し大きくなっている。
背後のガラス戸が開いた。咲が出てきて、手すりに寄りかかった。
しばらく黙っていた。遠くで車の走る音がした。
「……なんであんなこと言ったの」
咲の声が、少し震えていた。
「腹立ったから」
「空気、悪くなったよ?」
「ああ」
「私が断らなかったから、私のせいで——」
「お前のせいじゃない」
俺は咲を見た。咲は夜の街に目を向けたまま、手すりを握っている。
「……でも」
「ずっと我慢してただろ。笑って、大丈夫って言って、全部引き受けて」
咲が、息を呑んだ。
「……それを見てるのが、腹立ったんだよ。俺は」
自分でも、なんでこんなことを言ってるのか分からなかった。うまく整理もできてない。ただ、見ていられなかった、それだけだ。
咲は何も言い返せなかった。
「……私は」
絞り出すような声だった。
「役に立ちたかっただけなのに」
「頼まれなくても、お前には——」
言いかけて、止まった。
なんか、言いすぎな気がした。咲の顔を見て、やめた。
沈黙。
「……バカ」
咲が、小さく言った。
「……悪かったな」
「ほんと、バカ」
咲の声は泣きそうだったけど、横目で見ると、少しだけ笑っていた。
さっきまでの引きつった顔じゃない。
咲は耳たぶを触りながら、夜の街を見ていた。
俺は前を向いて、息を吐いた。
ブルースターの葉が、夜風に揺れた。
俺は何も言わなかった。
でも。
今日だけは、それで良かった気がした。
今回は、渡が初めて「見ていられない」と行動した回でした。
誰かを心配することと、誰かのために動くことは少し違います。
そして咲もまた、自分でも気づいていない本音を少しだけ見せ始めています。
ブルースターの花が咲く日まで、もう少し三人を見守っていただけたら嬉しいです。




