第23話 【咲視点】だいじょうぶ、じゃない
植物園に行った日の夜から、ずっと、胸の奥が少しだけ重い。
楽しかった。本当に、楽しかったのに。
みくちゃんがはしゃいで、渡くんがそれに付き合って、私も一緒に笑って。帰り道、渡くんの背中でみくちゃんが眠っていて、夕日の中を三人で歩いていて。
あの時間が、ずっと続けばいいと思った。
だから、怖くなった。
これ以上、ここを好きになったら。この居心地の良さに、慣れてしまったら。
そう思うたびに、胸のどこかがひゅっとする。
……分かってる。分かってるんだけど。
放課後。いつものようにスーパーに寄り、いつものように渡くんのアパートへ向かう。
「ただいまー!」
「おかえり、みくちゃん」
「咲ちゃん、見て! 昨日の夜、パパとおりがみやってたの!」
みくちゃんが折り紙らしき何かを差し出してくる。鶴、のつもりだと思う。だいぶ歪んでいる。
「上手だね」
「パパが教えてくれたの。でもパパの方が下手だった」
「そうなんだ」
私はうんうん頷きながら、エプロンをつけた。
いつも通りの光景。いつも通りに笑って、いつも通りに夕飯の支度をすれば、この胸の重さもそのうち消える。そう思っていた。
でも今日は、なんだか少し変だった。
ネギを切ろうとして、手が止まる。冷蔵庫を開けて、何を取り出そうとしたか忘れる。お味噌汁を味見して、なんにも分からない。
「……咲」
渡くんの声に、肩が跳ねた。
「え、なに?」
「お玉、ずっと持ったままだぞ」
見ると、コンロの前でお玉を持ったまま突っ立っていた。
「あ。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「……そうか」
渡くんは少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
よかった、と思った。
深く聞かれても、何を答えればいいか分からない。大丈夫だよ、と笑って誤魔化すのは得意だ。ずっとそうやってきたから。
でも、この部屋でその「大丈夫」を言うと、なぜかひどく嘘くさく聞こえる気がして……。
夕飯が終わって、渡くんが「コンビニ行ってくる、洗剤切らしてた」と言って出て行った。
リビングには、私とみくちゃんの二人だけ。テレビが何かのアニメをやっている。
私はシンクで食器を洗いながら、ふう、と息を吐いた。
手を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。
「……ねえ咲ちゃん」
後ろから声がした。振り返ると、みくちゃんがクッションを抱えて、じっと私を見ていた。
「どうしたの?」
「……なんか今日の咲ちゃん、へん」
私は少し笑った。「そう? 大丈夫だよ」
「……さっきから、だいじょうぶしか言わない」
手が、止まった。
「そんなこと……」
「今もゆった。三回目」
みくちゃんは、責めているわけじゃない。ただ、不思議そうに首を傾けている。それが逆に、胸に刺さった。
「みくね、本当にだいじょうぶな時は、そんなに言わないよ」
みくちゃんが、静かに言った。
「なんでそう思うの」
「なんか……むりしてるみたい」
「むりしてないよ」
「でも、なんか、へん」
みくちゃんには、うまく説明できる言葉はない。それでも、何かを確かに感じている。その目がまっすぐすぎて、私は視線を逸らした。
「……みくちゃんの気のせいだよ」
「ちがう」
静かだけど、はっきりした声だった。
「パパもね、黙ってる時あるの。そういう時、みく、なんかこわい」
「……」
「咲ちゃんも、なんか同じ顔してる」
ぽつり、と。
それだけ言って、みくちゃんはまたテレビに目を戻した。
私は、食器を洗うふりをして、ただ立っていた。
耳たぶが熱かった。右手でそこに触れる。無意識に。
分かってる。みくちゃんの言ってること、分かってる。
でも、じゃあどうすれば、が出てこない。
ガチャ、と玄関が開いた。
「ただいまー」
「おかえり、パパ」
みくちゃんが、少し静かな声で言った。
「……なんか変な空気だな」
渡くんが、リビングを見回す。
「ううん、何でもないよ」
私は振り返らずに、できるだけ明るい声を出した。
皿を洗う音だけが、しばらく続いた。
洗い物を終えて、エプロンをフックに掛ける。カバンを持って、玄関へ向かった。
「じゃあ、帰るね」
靴を履く。みくちゃんはソファでうとうとしていた。
渡くんが、玄関まで来た。
「……ああ」
ドアノブに手をかける。
早く帰ろう。今日はもう、これ以上ここにいたら何かが溢れそうだった。
「……咲」
背後から、声がした。
「ん?」
振り返らずに、少しだけ顔を向ける。笑った。大丈夫な顔で。
渡くんは、何か言おうとして、少し黙った。宙を見て、また私を見た。
「その……無理、すんな」
心臓が、跳ねた。
「……え?」
「だから……大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって、言えばいいから」
ぶっきらぼうで、言葉足らずで、それしか出てこなかったんだろうなと分かる言い方だった。
でも。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「……うん」
声が出た。震えていたかもしれない。
「ありがとう」
渡くんは何も言わなかった。何か言いたそうだったけど、言葉が見つからない顔をしていた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
ドアを開けて、出た。
階段を降りながら、なんで涙が出てるのか分からなかった。
泣くつもりじゃなかった。全然。
夜道に出ると、六月の湿った風が頬に当たった。拭っても、また出てくる。意味が分からない。
渡くんの言葉を、頭の中でもう一回再生した。
大丈夫じゃない時は、言えばいい。
分かってる。言った方がいい、そんなの分かってる。
でも言えなかった。今日も、結局、何も言えなかった。「うん、ありがとう」しか言えなかった……。
それが、余計に苦しい……。
言えない。頼れない。なのに、頼りたいとは思ってる。
その全部が同時に胸の中にあって、どこにも行けなかった。
「……もう。なんなの……」
誰もいない夜道で、小さく言った。
自分に向けた言葉なのか、渡くんへの言葉なのか、自分でも分からない。
街灯の光の下で、私の影が長く伸びていた。
泣き止めなかった。泣きたいわけでもないのに、止まらなかった。
お読みいただきありがとうございます。今回は咲視点のお話でした。
楽しい時間ほど、失うのが怖くなることがあります。
咲にとって今の居場所は、少しずつそんな存在になってきているのかもしれません。




