第21話 言わなきゃ、分かんない
教室の窓から差し込む朝の光が、机の上に落ちている。
俺が席に着くと、隣の咲がカバンからノートを取り出した。
「……これ、昨日の現代文のノート。写し終わったから」
「……あ、サンキュ」
スッと差し出されたノートを受け取る。
指先は触れなかった。でも視線は一瞬だけ合った。
数日前のあの、壁みたいな冷たさはない。挨拶も、ちょっとしたやり取りも、なんとかこなせるようにはなってきた。
「……あと、先生、あのプリントの三問目、テストに出すって言ってたよ」
「……まじか。見とくわ」
「うん」
それだけ言って、咲は前を向いた。
最近、咲と喋ると変に疲れる。一個喋るたびに、「今の変じゃなかったか?」って後から気になって、なんか落ち着かないからだ。
「お前らさ」
斜め後ろから田中がニヤニヤしながら首を突っ込んできた。
「なんか最近、逆に初々しくね? 見ててむず痒いわ」
「はあ? 違うし」
「どう見ても違わねえよ」
ケラケラ笑われて、俺は口をつぐんだ。
何か返そうとして、横を向いて。
咲が、ノートの端を指先でなぞりながら、少し顔を赤くしていた。
咲の顔が赤くなったら、もう何も言えないよ。
放課後。
スーパーを経由して、咲と一緒にアパートへ帰る。
ドアを開けるなり、みくが「おかえりー!」と飛びついてきた。
「パパ! 咲ちゃん! 今日ね、みく、お絵描きしたの!」
「そうか、後で見せてくれ」
靴を脱ぎながら答えると、咲も「ただいま」と小さく言いながら上がってくる。
その「ただいま」が妙に耳に残った。いつから普通に言うようになったんだろう、と思って、でもそれ以上は考えないようにした。
咲がキッチンに立って、夕飯の準備を始める。
俺はリビングをうろついた。ソファに座っても落ち着かなくて、立ち上がって、キッチンの入り口のところに来て、止まった。
「……何か手伝うか」
「ううん、大丈夫。今日は簡単なやつだから」
「……そっか」
引き下がる。ソファに戻る。
咲に全部やらせてるみたいで、なんか落ち着かない。
スマホを開く。閉じる。また開く。
ニュースの文字、全然頭に入ってこなかった。
みくが、いつもの笑顔でなく、ソファの端から真剣な顔でこっちをじっと見ていた。
大きな目で、俺を見て、キッチンの咲を見て、また俺を見る。
なんか、いつもと違うがどうしたんだ?
夕飯のあと、咲が「お手洗い借りるね」と洗面所へ消えた。
リビングに、俺とみくだけが残る。
テレビがついている。でも何が映ってるか、全然分かってなかった。
「……ねえ、パパ」
みくが、クッションを抱えたまま口を開いた。
「ん?どうした?」
「パパ、また黙ってた」
「……夕食の時も話ていたし、別に黙ってないだろ」
「黙ってたもん。ご飯の時も」
反論しようとした。でも言葉が出てこなかった。
みくはいつになく真剣な顔で俺を見てくる。それがなんか、ちょっとだけ痛かった。
「何考えてるか、分かんない」
みくが、クッションに顎を乗せながら言った。
「……別に、何も考えてないよ」
「ほんとに?」
「……」
うそだ、と自分でも思った。
何考えてるか分かんないのは俺も同じで、でもそれを「何も考えてない」って言えば誤魔化せると思ってた。
「咲ちゃんも分かんないと思う」
「何が?」
「パパのこと」
冷蔵庫の低い唸り音が、やけに大きく聞こえた。
なんかムカついた。
俺のこと何も知らないくせに。……でも。
みくが不安そうな顔してるのが見えて、急に何も言えなくなった。
咲のこと、分かってるつもりだった。
甘い卵焼き好きなとことか。
耳たぶ触る時とか。
そういうの、なんとなく知ってる気でいた。
でも逆は?
咲は、俺のことを、どう思ってるんだろう。
俺が黙るたびに、咲は何を感じてたんだろう。不安だったんだろうか?自分がそうされたら俺はどう思うんだろう?
「みくも分かんない時、ちょっと不安」
俺は、その言葉でようやく、みくをちゃんと見た。
その真剣な顔は、怒ってるんじゃない。拗ねてるんでもない。ただただ、不安そうだった。
こんな顔、いつからしてたんだろう。
俺は、気づいてなかった。
ずっと、この子の隣で黙って、「余計なことを言わなければ波風立たない」とか思いながら座ってて、その間ずっと、この子はこういう顔をしてたのかもしれない。
胸のどこかが、じわっと痛んだ。
なんで今更。なんで今、これが痛いんだ。
自分が情けないのか、鈍いのか、何なのか。よく分からない。こんなの誰も教えてくれない。
ガチャ、と洗面所のドアが開いた。
咲が、リビングに戻ってくる。
近くを通った瞬間、変に甘い匂いがして、なんか落ち着かなくなった。
「……ごめん。どうかした?」
「別に」
俺は短く返した。
またいつもの感じになる。咲がキッチンで何か飲み物を取って、みくに何か話しかけて、みくが笑って、俺だけがソファで取り残される感じ。
いつも通り一言だけの返事だ。
いつも通りなのに、なんで今日はこんなにざわざわするんだろう。
みくの「分かんない」って顔が、頭から離れなかった。
別のことを言わなきゃいけないのか。
何を?
好きとか、そんなのは無理だ。絶対に言えない。言い方も分からないし、言ってどうなるかも分からない。
じゃあ何なら言える?
俺は、立ち上がった。
ドキドキと心臓がうるさい。
「……咲」
咲が不思議そうにこっちを向く。
俺は何か言わなきゃと思って、でも何を言えばいいか全然まとまってなくて、結局。
「……今日、疲れてないか」
死ぬほどしょうもない一言が出た。
言った瞬間に後悔した。なんだそれ。こんな言葉のどこに意味があるんだ。
「え?」
「いや、なんか。最近、いろいろあったし。毎日弁当も……作ってくれてるし。無理してないかと思って」
言いながら、顔が熱くなった。
引かれる。絶対に「何それ」ってなる。余計な一言だった。黙ってればよかった。
でも咲は、少し視線を逸らして。
「……別に、普通だよ」
と、小さく言った。
声が、少しだけ揺れてた気がした。
「そっか」
俺は短く返して、逃げるようにソファに戻った。
また失敗したかもしれない。でも咲の顔を確認する勇気がなくて、ただ膝に肘を置いてうつむいた。
これで良かったのか、全然分からない。
横目でちらっと見ると、咲が顔を逸らすようにキッチンへ向かっていた。横顔しか見えなかったけど、なんか少しだけ顔が赤い気がした。
気のせいかもしれない。
でも。
なんか、ちょっと違う感じがした。
何が違うのかは、うまく言えない。
すっきりもしないし、解決した感じも全くない。むしろなんか、胸のあたりがぐるぐるして、苦しくて……。
何でこんな苦しいんだろう。さっきみくが言った「何考えてるか、分かんない」がよぎる。
……なんか、このままは嫌だった。
ソファの端でみくが「……ぱぱ、さきちゃん……おやすみ……」とつぶやいて、クッションを抱えたままコトンと寝落ちした。
どうしようもないさっきの一言のせいか、さっきまでの不安そうな、みくの顔が、少しだけ緩んでいるような気がした。
俺は、ブランケットをそっとみくに掛けながら、また咲の方をちらっと見た。
咲は、キッチンで湯呑みを洗っていた。後ろ姿しか見えない。
何考えてんだろう。
分かんない。
……俺、自分のこともよく分かってないけど。
言えばよかったのか。言えてたのか。「疲れてないか」なんてそれで正解だったのか。
全部、分かんない。
ただ、なんか。
今日の咲の「別に、普通だよ」っていう声が、頭から消えなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます
今回は、みくの「分かんない」という一言が、渡の心を少しだけ動かした回でした。
大きな変化はなくても、「疲れてないか」という言葉は、きっと今の渡に言える精一杯だったのだと思います。
少しずつ近づいていく三人を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。




