第19話 近すぎる
朝の教室。席に着く。カバンを下ろす。
隣の咲が、こっちを向く気配がした。
「……おはよ」
「……ああ」
それだけだった。
前は、ここから「今日の弁当なんだっけ」とか「冷蔵庫の豆腐そろそろ使った方がいい」とか、なんかしら続いていた。
なんか変に緊張して、黒板を見た。
一限目の数学。ノートに式を書き写そうとして、消しゴムを取ろうとした。
白い指とぶつかった。
「あ……」
「……悪い」
「ううん、こっちこそ」
咲がシュッと手を引っ込めた。
俺は消しゴムを使うのを諦めて、斜線で式を消した。
なんでだろう?
そんなに強くぶつかったわけでないのに指先がジンジンして変だった。
咲は前を向いたまま、ノートの端をシャーペンの先でなぞっている。咲は気にならないのか?
斜め後ろから、田中のため息が聞こえた。
休み時間、田中が俺の机に寄りかかってきた。
「お前ら、最近静かだな」
「……別に」
「まあ、静かな方が俺はパンの味に集中できるからいいけど」
田中はそれだけ言って、購買のパンの話を始めた。
放課後。アパートに帰ると、みくが走ってきた。
「パパ、咲ちゃん! 今日ね、三人でトランプしよ! ばばぬき!」
どこから引っ張り出してきたのか、トランプの箱を振っている。
「……ご飯の前に少しだけね」
咲がエプロンをつけながら言った。俺も頷く。
ローテーブルを囲んで三人で座る。みくが真ん中。俺が右、咲が左。
ババ抜きが始まった。
みくは手札にジョーカーが来ると、分かりやすすぎる顔をした。眉間にシワが寄って、カードを握る手に力が入る。俺と咲は目を合わせないまま、交互にそれを引いてやった。
「やったー! パパのまけ!」
みくが大口を開けて笑った。-
二回戦。
みくの手札が残り一枚になって、俺と咲がババを押し付け合う展開になった。
咲がカードを引こうとして、手を伸ばしてきた。俺もカードを差し出した。
咲の指が、俺の指に触れた。
カードが一枚、テーブルに落ちた。
「えへへ、咲ちゃんのまけー!」
みくだけが笑っていた。
俺は手元のカードを見た。咲がどこを見ているかは分からないっていうか、なんかこないだからまともに顔を見るのがなんか恥ずかしいんだよな。知らんけど……。
夕飯を食べて、みくが寝落ちした。
咲がシンクでグラスを洗っている。俺はソファに座って、何も映っていないテレビ画面を見ていた。手伝いたいけど、口に出せない。みくと一緒だったら自然に言えるだろうに、俺一人だとなんか言えないのがもどかしい。
咲がグラスを棚に戻す音がした。
俺は、なんとなく口を開いた。
「……数学のプリント」
「……え?」
咲が振り返った。
「今日の朝の。……ありがと」
咲が少し目を丸くした。
「……ううん。別に」
咲が視線を逸らした。
俺も前を向いた。言いたいことと違ったけど、なんか一歩進めた気がする。
エプロンをフックに掛けて、カバンを持ち、咲が帰り支度をしている。
俺は玄関まで出た。
咲が靴を履いて、ドアノブに手をかけた。
「……じゃあ、帰るね」
「……ああ」
なんか、言った方がいい気がしたが、いっぱい言葉が浮かんできて、何を言えばいいかは分からなかった。
「……また明日」
咲がドアを開けようとした手を止めた。
一秒、二秒。
「……うん。また明日」
振り返らないまま、出ていった。ドアが閉まった。
リビングに戻ると、テーブルにグラスが二つ残っていた。
壁のフックに、咲のエプロンが掛かっていた。
冷蔵庫が低く唸っていた。
俺はソファに座って、眠っているみくの頭を見た。
なんか、変な感じだった。




