第18話 【咲視点】言えたら、こんなに苦しくない
朝、制服のボタンを留めながら、なんか頭の中で声が再生された。
『また明日』
やめて。
別に大した言葉じゃない。普通に言う言葉だし。でもなんで朝から。
ボタンを留め間違えて、やり直した。
教室に入る。
自分の席に座って、ノートを出して、なんとなく入り口の方を見てしまった。
渡くんが来て目が合った。なんか恥ずかしくなって、手元のノートに視線を落とした。
「咲〜、おはよ」
美香たちが来た。
「おはよ」
「昨日さ、青木くんと走ってたって聞いたんだけど」
肩がビクッとした。
「駅前の方で、二人で走ってるの見たって」
「……ああ、うん。みく——親戚の子が迷子になりかけて、探してただけだよ」
「そっかー。仲直りしたのかと思った」
「仲直りって、喧嘩とかしてないし」
「ほんとにー?」
笑い声。私も笑った。
何でもないよ。普通だよ。みんなが笑っているからとりあえずね。
それより、みくちゃんが花壇の前で泣いてたこと、言えるわけがないよね。
放課後。アパートのドアを開けると、みくちゃんが飛んできた。
「咲ちゃん! おかえり!」
「ただいま」
しゃがんで頭を撫でると、みくちゃんがにこーっと笑った。それから後ろから入ってきた渡くんの方を見て、また私を見て。
目が、忙しなく行き来する。
「今日ね、テレビで——」
みくちゃんが話し続ける。私と渡くんの両方に向かって、交互に交互に。
私はうんうんと頷きながら、エプロンを取り出した。
「……牛乳、買ってきた」
渡くんがスーパーの袋をキッチンに置いた。
「あ、ありがとう」
「昨日忘れてたから」
「冷蔵庫入れとくね」
袋を受け取る。牛乳を取り出す。冷蔵庫を開ける。
それだけ。
だけど、言いたいことは、もっと違うこと。
昨日、一緒に探してくれてありがとうとか……。
みくちゃん見つかってよかったねとか……。
怖かったねとか……。
全部、喉のところで止まった。
とりあえず、包丁を取り出し、キャベツを半分に切る。芯が硬くて、変なところに力が入った。
夕飯後。みくちゃんがソファのクッションをポンポン叩いた。
「パパ! 咲ちゃん! ここ座って! テレビ見るの、三人で!」
みくちゃんが私の袖と渡くんの袖を引っ張る。ソファの真ん中にみくちゃんが座って、左に私、右に渡くん。みくちゃんがいるから座るけどなんかモヤモヤする。
みくちゃんが両方の手をぎゅっと握ってきた。
「えへへ、おんなじだね」
テレビを見るみくちゃんの横顔が、満足そうで私もすごく嬉しい。
私は自分の手を見た。みくちゃんの小さい手に包まれている。
嬉しい。あったかい。
でもなんか、苦しい。
なんで苦しいのか、うまく分からなかった。分かりたくもなかった。
テレビの音だけが続いているけど、何も頭に入ってこないや。
みくちゃんが疲れたのか寝落ちした。
渡くんがシンクでコップを洗っている。私はエプロンを外してフックに掛けた。カバンを持つ。
水の音が止まった。
渡くんがシンクに寄りかかって、こっちを見ていた。
何か言いそうな顔だった。
私も、言わなきゃと思った。昨日ごめん、感情的になって。見つかってよかったね。怖かったよね。
口を開きかけた。
渡くんが、スッと視線を逸らした。
私も床を見た。
「……じゃあ」
「……ああ」
玄関で靴を履く。ドアを開ける。
「おやすみ」
「……おやすみ」
私はそのまま、しばらくドアノブを握ったままだった……。
自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
暗い部屋。
今日はなんか疲れた。
スマホを取り出す。写真フォルダ。動物園で撮ってもらった写真が出てきた。
画面の中で私が笑っている。みくちゃんを見て、渡くんを見て。
すごく気の抜けた顔だった。
……なにこれ。
枕に顔を埋めた。
ブーッ、とスマホが震えた。
渡くんから。
『ブルースター、少し戻ってた』
起き上がった。
『よかった』と打った。消した。
『明日また水やりしようね』と打った。長い気がして消した。
『枯れてなくてよかった』と打った。なんか違う気がして消した。
何回打っても変な感じで、でもなんか返したくて。
結局送ったのは、
『ほんと?』
それだけだった。
既読がついた。
スタンプが来た。花のやつ。
私はスマホを胸の上に置いて、天井を見た。
なんか変な顔になりそうだったので、もう一回枕に顔を埋めた。
読んでいただきありがとうございます。自分でも見たことがないような「気の抜けた顔」で笑っていた、動物園の写真。咲にとってあの三人で過ごした時間は、もう無理に自分を飾らなくていい、唯一の「居場所」になっていたんだと思います。
少しずつ、でも確実に変わっていく三人の日常を、これからも温かく見守っていてください。気に入っていただけたら、★やコメントもいただけると、とても励みになります!




