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未来の娘がやってきて、隣の席の美少女が『通い妻』になった〜青い花が咲く日まで、俺たちはまだ気づかない〜  作者: リディア


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第17話 いなくならないで

 教室の空気が、昨日より少しだけ軽かった。


 席に着いたら、咲がプリントを一枚スッと回してきた。


「……数学の小テスト、範囲ここだって」

「……ん。サンキュ」


 目は合わない。でも声が出た。


 それだけで、なんか少し息ができた。


 斜め後ろの田中が頬杖をついて、ニヤニヤしていた。


「お、氷河期終わった?」

「……終わってない」

「でもマシじゃん」


 田中はそれ以上何も言わず、購買のパンの話を始めた。

 放課後。スーパーに寄ってから三人でアパートに帰った。

 ドアを開けた瞬間、みくが廊下を走ってきた。


「パパ! 咲ちゃん! 今日ね、テレビでお花見たの! すごくきれいで、あと絵も描いたの、見せてあげる! あとね——」


 みくのテンションがおかしい。


 廊下と、リビングと、キッチンの間を何度も往復して、俺と咲の両方に話しかけ続ける。


 俺が靴を脱ぐ。咲がエプロンを取り出す。それだけの動作の間も、みくはずっと喋り続けていた。


 夕飯の準備中。咲が冷蔵庫を開けて、少し止まった。


「……渡くん、牛乳」

「あ」

「昨日、買っておくって」

「……忘れてた」

「……いいよ、麦茶あるし」


 咲が冷蔵庫を閉めた。


 まただ。俺は何も言えなかった。「買ってくる」って言えばよかった。でも言い出せなかった。タイミングを逃した。


 黙ったまま、俺も包丁を持った。

 リビングでテレビを見ていたみくが、音を立てずにこっちを振り返った。


 みくの顔から、笑顔が消えていた。

 夕飯の支度が終わる直前だった。


「みく、ご飯——」


 リビングに誰もいない。

 トイレのドアは開いている。


 玄関を見ると、みくのサンダルがなかった。ドアチェーンが外れている。

 頭が、一瞬真っ白になった。


「咲! みくいない!」

「え——!?」


 咲がエプロンのまま飛び出してきた。顔が蒼白だった。


「俺、表の通り行く! 咲は裏の公園!」

「わかった!」


 スニーカーを踵で踏み潰して、ドアを蹴って外に出た。


 走った。


 アパートの階段を二段飛ばしで降りて、大通りへ出た。車が何台も通る。横断歩道。コンビニの前。自販機の陰。


 水色の服が見えない。


「くそっ——」


 呼吸が荒い。肺が痛い。

 考えるな。走れ。

 スマホが震えた。


 咲から。


『駅前の小さい公園、こっちに向かってる』


 返信もせずに方向を変えた。

 駅前の、すべり台とベンチだけの公園。

 隅にある花壇の前。青い小さな花が咲いていた。

 その前に、水色の服の小さな背中がしゃがみ込んでいた。


「みく——」


 声をかけると、みくがビクッと肩を揺らした。


 泣いていなかった。


 俺の顔を見た瞬間、目からポロポロと涙がこぼれた。


「……パパ」


 俺はみくの前に膝をついた。


「なんで一人で——」


 怒るつもりじゃなかったのに声が少し荒くなった。みくがジャージの袖をぎゅっと掴んだ。


「……けんかすると、みんないなくなるから……っ」


 胸が、変なふうに痛んだ。


「パパも、ママも……いつも、そうだったから……っ」


 言葉が出なかった。

 後ろから、息を切らした咲が走ってくる音がした。

 俺は、何も考えずにみくを抱き寄せた。


「……悪かった」


 それだけ言った。


「もう、あんなふうにしない」


 みくが俺の胸に顔を埋めて、わーっと泣き出した。


 俺はただ、その背中を撫で続けた。



 帰り道。


 すっかり日が落ちた歩道を、三人で歩いた。

 みくが真ん中。俺と咲がその両脇。

 みくが俺の右手と咲の左手を、ぎゅっと握って離さなかった。

 俺も咲も、黙ったまま歩いた。

 みくの歩幅に合わせて、ゆっくり。


 アパートに帰ると、みくはソファに座った途端にこくこくと舟を漕ぎ始めた。

 咲がタオルケットを持ってきて、そっとかける。


「……よかったぁ……」


 みくが目を閉じたまま、寝ぼけたみたいに呟いた。

 俺と咲の動きが、同時に止まった。

 しばらくしてから、俺は咲を見た。


 咲も俺を見た。


 すぐに、二人とも視線を逸らした。


 冷蔵庫の音だけが、部屋に響いていた。

 読んでいただきありがとうございます。「買ってくる」のたった一言が言えなかっただけで、大切なものを失いかけた渡。公園で見つけた小さな背中にかけた「悪かった」は、みくちゃんへの言葉であると同時に、咲さんへの精一杯の謝罪でもあったんだと思います。


 ラストシーン、冷蔵庫の音だけが響く静寂が、昨日までよりもほんの少し温かく感じてもらえたなら嬉しいです。気に入っていただけたら、ブックマークや評価もしていただけると励みになります。

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