第16話 枯れないで
朝。教室の空気が、昨日とほんの少しだけ違った。
席に着く。咲がノートを開く手を、一瞬だけ止めた。
「……おはよ」
「……おはよ」
声のトーンは低い。目は合わない。でも昨日みたいに「完全にそこに壁がある」感じとは、少しだけ違う。
ちょっと間があって、咲がカバンから紺色の包みを取り出した。
「……お弁当。今日、卵焼き甘めにしたから」
「……ん。サンキュ」
受け取る。
それだけだった。それ以上は続かなかった。
俺は包みを机の中に入れて、前を向いた。
一限と二限の間。田中が俺の席に肘をついた。
「お、今日は少しマシじゃん」
「……何がだよ」
「いや昨日のお前ら、俺まで息詰まるかと思ったから」
「……うるさいよ」
「まあまあ。まだ溶けてないっぽいけどな」
田中はそれ以上何も言わず、「購買のカレーパン今日品切れだったんだけど」とか言いながら自分の席に戻った。
俺はボールペンのノックを親指で三回押して、止めた。
放課後。アパートのドアを開ける。
「ただいま」
あれ?返事がない?
胸の奥が、少しだけ嫌な音を立てる。
靴を脱いでリビングへ向かうと、みくがベランダの前に座り込んでいた。
小さな背中が震えている。
「……みく?」
振り返った顔を見た瞬間、心臓が掴まれた。
ぐしゃぐしゃだった。
涙で濡れた頬。
しゃくり上げる呼吸。
必死に我慢して、それでも止まらなかったみたいな顔。
「パパ……」
「どこか痛いのか?」
みくは首を振る。
小さな指が、ベランダのプランターを指した。
「……かれちゃ、だめ……っ」
そこでようやく気づいた。
土が乾ききっている。
ブルースターの芽が、力なく倒れていた。
昨日、水やりを忘れていた。
――俺のせいだ。
あの空気の中で、全部抜け落ちた。
「っ——」
俺がベランダに出ようとしたとき、玄関の鍵が開く音がした。
「お邪魔します……」
咲だった。
「咲、水! ペットボトルに水入れてきてくれ!」
「え?」
「早く!」
咲が靴を脱ぎ捨てて、キッチンへ走った。ペットボトルに水を入れて戻ってくる。
「どうしたの……あ」
咲もしおれた芽を見て、息を止めた。
みくがタイルに座り込んだまま泣き続けている。
「だめ……ブルースター、だめ……! なくなったら、だめなの……!」
俺は咲から水を受け取って、芽の根元にそっとかけた。
「大丈夫だ、みく。まだ枯れてない。水やれば元気になる」
「……だめなの」
みくが首を振る。
「なくならないで……。パパとママの……大切な、お花なのに……」
俺の手が、少し止まった。
隣で、咲も動かなくなる。
みくは泣きじゃくりながら、プランターをじっと見ている。
俺たちの顔じゃなくて、しおれたブルースターだけを。
「……咲」
「うん」
咲がしゃがみ込む。
「日差し、強すぎたのかも。日陰に移した方がいい」
「……俺が持つ。どこ置けばいい」
「あそこ。ベランダの端」
俺がプランターを持ち上げ、咲が指差した場所に置く。咲が土の表面をそっと触った。
「……水、多くない?」
「お前が言う? 焦らせたのそっちだろ」
「前に別の花で根腐れさせたの、誰だっけ」
「……それは、ごめん」
咲がぷっと吹き出した。
つられて、俺の口元も少し緩む。そんな場合じゃないのに。
昨日まで、まともに目も合わせられなかったくせに。
ごめんって謝りたかっただけなのに。
なのに今、こういうくだらない言い合いだけは、ごめんって言える。
――ああ、戻りたいって、思ってたんだな。
みくが、涙で濡れた顔のまま俺たちを見上げていた。
「……なおる?」
「ああ。絶対なおす。絶対……。」
俺が言うと、咲も頷いた。
「大丈夫だよ、みくちゃん」
みくが、ぐすっと鼻を鳴らして、少しだけ「えへへ」と笑った。
夜。みくがソファで寝落ちした。
咲が帰り支度をする。
「……送るよ」
「ううん、いい」
「……」
それ以上言えなかった。
咲がベランダのガラス戸の前に立って、プランターを少し見ていた。水を含んで色が濃くなった土。その上で、弱々しいけど確かに生きている芽。
「……咲」
なんで声かけたか、自分でもよくわからない。
咲が振り返る。
「……また明日」
出てきた言葉がそれだった。三日前まで当然みたいに言ってた言葉が、なんか勝手に口から出た。
咲が少し目を開いて、動きを止めた。
冷蔵庫の音だけが聞こえる。
咲が、右の耳たぶにそっと触れた。
「……うん。また明日」
ドアが閉まる。
俺はベランダの芽をしばらく見ていた。
まだ細い。まだ頼りない。ちょっと油断したらすぐ枯れる。
眠っているみくの頭に、手を乗せる。
みくの息が、静かに聞こえた。
読んでいただきありがとうございます。素直に「ごめん」とは言えなくても、「水やりすぎじゃない?」なんて言い合いくらいなら、今の二人にだってできる。そんな不器用な歩み寄りに、少しだけ救われる気持ちになりました。みくが必死に守ろうとしたブルースターの芽が、二人の「また明日」を繋ぎ止めてくれたような気がします。少しずつ呼吸を取り戻しはじめた三人のことを、これからも見守っていてください。




