第15話 このままだと、またバラバラになる
朝、咲が教科書を机に出す。
「……おはよ」
「……ああ」
それだけだった。
目が合わない。向こうも合わせてこない。ファスナーを閉めて、カバンを椅子の横に引っかけて、それだけでもう俺の手のやり場がなくなった。
昨日まで、「今日の弁当なんだっけ」とか「スーパーで牛乳安かったよ」とか、そういうしょうもない話が普通にあった。
今は何もない。
でもそれを「気まずい」と言葉にするのも、なんか違う気がして、俺はただ前の黒板を見ていた。
一限と二限の間。田中が俺の席に来た。
「なあ青木。社会、今日マジで眠くなかった? 先生の声かっさかさで。昨日飲みすぎてたんだろ絶対」
「……まあ」
「昨日さ、ランク戦あと一勝で昇格だったのに切断されたんだけど」
「……それキレるやつだな」
「机叩いた。マジで」
田中は、それだけ言って自分の席に戻った。
咲のことは、一言も出てこなかった。
俺はボールペンのノック部分を親指でカチカチ押して、止めた。
昼。咲の周りに川島さんたちが集まっていた。
俺はイヤホンを片耳に突っ込んで、机に腕を乗せていた。音楽は流していない。
「咲さぁ、今日なんか調子悪い?」
「え、そう? 普通だけど」
「最近ずっと青木くんといたから、なんかあったかと思って」
「……別に。寝不足なだけ」
「ふーん……」
川島さんの「ふーん」に、微妙な間があった。
咲は何も続けなかった。それ以上でも以下でもない、ちょうど人を寄せ付けない声のトーンで。
俺は壁を見た。
放課後。アパートのドアを開ける。
「おかえりー! パパ!」
みくが廊下を走ってきた。昨日より声が一段でかい。
「今日ね、テレビでペンギンさん見たの! すっごくかわいくて、こーんなに小さくて、でもお父さんペンギンがずっと卵あたためてて——」
「……そうか」
「ねえ、みくのこと抱っこして!」
俺が腕を伸ばすと、みくが飛びついてきた。思ったより重い。最近また重くなった気がする。
キッチンから咲が出てきた。
俺と目が合って、咲がすぐ視線を逸らした。
「……青木くん、今日も遅かったね」
「……補講」
「そっか」
みくがぐいぐいと俺の首にしがみついたまま、咲を見た。
「パパ!今日ね、みく、咲ちゃんのお手伝いしたよ! にんじん切るの!」
「うん、上手だったね」
咲がみくに向かって笑う。その笑い方がいつもと何も変わらないから、余計しんどかった。
夕飯。
みくが話し続けている。ペンギンの話、好きなキャラクターの話。
俺と咲は、ときどき短く「そうか」「うん」と返す。
箸を動かす。咀嚼する。みくの話を聞く。
それの繰り返し。
「おいしいね! パパ、おいしい?」
「……ああ」
「咲ちゃんのご飯、世界一だよね!」
「……ありがとう、みくちゃん」
みくがにこにこしている。でもその笑顔が、どこか必死に見える。
ちゃんと見ている。
この空気を。
食後。みくがソファで膝を抱えながら、ぽつりと言った。
「……パパと咲ちゃん、仲良しだよね?」
俺と咲が、同時に手を止めた。
「……まあ」
俺が言うと、みくは少しだけ表情を緩めた。でもすぐに、何か重いものが戻ってきたみたいな顔になった。
「……けんかすると、だめなの」
「みく?」
「……みんな、いなくなっちゃうから」
声が、小さかった。
みくはソファのクッションをぎゅっと抱いたまま、俺たちを見ていない。テレビでも、床でもなく、もっと遠い、別の何かを見ているみたいな目だった。
「……みくちゃん?」
咲が膝をついて、みくの顔を覗き込んだ。
みくが、ハッとしたみたいに瞬きをした。
「……なんでもない。眠たくなっちゃった」
そう言ってクッションに顔を押し付ける。
俺は何も言えなかった。
咲が帰り支度をする。カバンを持って玄関に向かったとき、みくがソファから降りてきた。
「咲ちゃん、帰っちゃうの?」
「うん。もう遅いからね」
「……あしたも、来る?」
みくの声が、すこし揺れていた。
「……」
咲が一瞬、止まった。
「やだ……咲ちゃん、いなくならないで……っ」
みくがスカートの裾を両手で掴んだ。声が震えていた。目から涙がこぼれた。
咲が俺を見た。困ったような、悲しいような顔で。
俺は何も出てこなかった。
口を開きかけて、何も出てこなかった。
「……明日も来るよ。約束する」
咲がみくの頭を撫でた。みくがぐすぐすと頷く。
咲はドアを開けて、出ていった。
俺には何も言わなかった。
深夜。
みくはとっくに眠っていた。
暗いリビングで、俺はスマホの画面を見ていた。
咲とのトーク画面。最後のメッセージは三日前のまま。
『今日はごめん』
打って、消した。
『みくのこと、ありがとな』
打って、消した。
『俺さ、』
そこで止まった。
その先が出てこない。謝りたいのか。引き止めたいのか。それとも何もしたくないのか。自分でわからない。
画面が暗くなる。自動ロック。
ベランダのブルースターが、夜風に揺れているのが窓越しに見えた。
さっきみくが言ったこと。
『みんな、いなくなっちゃうから。』
スマホを膝の上に置く。
何も送れないまま、画面は真っ暗なままだった。
読んでいただきありがとうございます。
『俺さ、』
その先を打てないまま、スマホの画面だけが暗くなっていきました。
謝ればいい。
たぶん、それだけなのに。
一番大切な相手にほど、素直になるのは難しいのかもしれません。
少しだけ遠くなってしまった三人の夜でした。




