第14話 いつもの距離が、今日は遠い
教室の入り口で、一度だけ足が止まった。
いつもの席に咲がいた。ノートを開いている。シャーペンを動かしている。
俺が席に着いても、振り返らなかった。
「……おは」
「……おはよ」
短かった。それだけだった。
カバンを下ろす。フックに掛ける。
机の上に、何もなかった。
分かってた。分かってたのに、右手が無意識に「そこ」を探して、空を切った。
紺色の包み。弁当。咲が作ると言ったやつ。
あ、そうか。もうないのか。
チャイムが鳴った。
一限と二限の間。
田中が俺の席に寄りかかってきた。
「なあ青木」
「なんだ」
「今日の現代文、眠くなかった? 先生の声なんか低周波出てたわ」
「……そうか」
「俺三回落ちかけた。あと購買の新作の焼きそばパン、紅生姜多すぎてびびった。食うか、半分やるぞ」
「いらねーよ」
「だよな」
田中はそれだけ言って、何も聞かなかった。
普段なら絶対なんか言ってくる。「お前ら昨日もあったかいな〜」とか。ニヤニヤするとか。
今日はなかった。
まったく。気を使いすぎだ……。
廊下の方から、咲の声が聞こえた。
「ううん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
友達に何か聞かれてる。
声が、違った。
最近の咲じゃなかった。出会ったばかりの頃みたいな、どこか遠い声だった。
俺が壊したんだ、と思った。
思って、それ以上考えるのをやめた。
放課後、一人でアパートへ帰った。
スーパーに寄る気になれなかった。コンビニでパンと飲み物だけ買った。
ドアを開ける。
「ただいま」
「……おかえりなさい、パパ」
廊下の奥から、みくが出てきた。
走ってこなかった。
数歩手前で止まって、ぺこりと頭を下げた。
「みく」
「おちゃ、いれる? パパ、つかれてるでしょ」
丁寧な言い方だった。
怒られない言い方を探しているみたいだった。
「……いや。いいよ、自分でやる」
「そう。わかった。えへへ」
笑った。
力のない、「えへへ」だった。
俺は何も言えなかった。みくにこんなことを言わせてすごい恥ずかしい……。
夕飯の時間になっても、キッチンに誰もいなかった。
当たり前だ。
冷蔵庫を開けた。咲が買い出ししてくれた食材が並んでいる。麦茶。卵。昨日三人で囲んだ鍋の残りが冷え切ったまま入っていた。
棚の端、咲が選んだドレッシングが静かに立っていた。
温め直した残り物と、コンビニのパンをテーブルに並べた。
みくは俺の隣より少し離れた席に座った。
「いただきます」
「……いただきます」
箸の音が、二つ。
昨日まで三つあったのが、こんなにうるさかったのかと、今日初めて気づいた。
テレビが流れている。賑やかな声が出ている。なのに部屋が静かだった。
みくが何度か俺の方を見ようとして、そのたびに皿に視線を落とした。
「パパ、今日のごはん……おいしい?」
「……ああ。普通だ」
「そっか。よかった。えへへ」
全然よくなかった。
味がしなかった。不味くはない。咲のじゃないだけで、なんか、味がしなかった。
みくを寝かしつけた後、リビングに一人残った。
静かすぎた。
前は、この静けさが普通だった。咲が来る前は、これが当たり前だったはずだ。
なのに今、冷蔵庫の唸る音がやけに耳につく。
スマホを手に取った。咲の名前をタップした。
『ごめん』
打って、止まった。
何を謝るんだ。
みくを泣かせたこと。咲を傷つけたこと。
でも、あの瞬間、俺は止めなきゃと思ってた。本当に思ってた。みくがどんどん本気にしていくのが、なんか——怖かった。
なのに、止め方が全部間違ってた。
消した。
『昨日のことだけど』
だけど、何だ。
消した。
『俺、別に——』
別に、何だ。
嫌いなわけじゃない? 終わらせたいわけじゃない?
違う。そんな言葉じゃ足りない。でも、じゃあ何が足りるんだ。
分からなかった。
謝りたいのは本当だ。でも何をどう言っていいのか、ちゃんと説明できない。
このまま続いたら、どうなるのか怖かった、みたいな。
戻れなくなる気がした、みたいな。
でもそれを送ったら、俺は何かを認めることになる気がして。
全部消した。
白い入力欄だけが残った。
奥の部屋から、みくの寝息が聞こえた。
壁一枚向こうで、今日は遠く聞こえた。
窓の外、ベランダのブルースターが暗がりで揺れていた。
水をやるのを忘れていた。
土が少し、乾いていた。
読んでいただきありがとうございます。
みくちゃんの「おちゃ、いれる?」は、きっとこの話で一番重い言葉でした。
大人たちが立ち止まっている間に、あの子だけが頑張って笑おうとしている。
乾いたブルースターの土を見ながら、三人とも同じように苦しくて、でも誰も上手く言葉にできない夜だったのだと思います。




